子育てのポジション
高度な、過度な 社会では本来あるべき姿が見えなくなる。野性的な勘だとか、人として、動物として、生きることや社会を形成するモチベーションや、、まるで影をひそめて、今のあり過ぎる当たり前がナイ状態を想定して自分を存在させないと『生きて』られないとすら思う。日々、dailyなことでいうと、私は体にいいものを美味しいと思える、(それが動物として正しいと思う、)そういう身体、感覚でありたい。まがい物を感覚的に選り分けられるように在りたい。あり続けたい。それは逆に社会性を伴わず、滅びる方向性に向くこともあるかもしれない。その意味で華美であったり、文化的であったり、ハイソな人々、友人も好きで、敬意を持つ。けれど物事には限界と罪が含まれていて、今の忙しい社会では細やかに言語化されることは少ない。表面的な現象は働きが相殺されて、要素の働き、存在が見えないことがごまんとあるだろう。見えないことを、~かもね、~だったりしてね、と会話することに付き合ってくれる人は少ない。後ろ向きな発言と捉えられがちで、教育においても現状肯定、褒めて、そこからの可能性を探ろうとしているように見える。歴史の推敲にも限界はある。それでも今の技術で膨大に露呈される出来事が横断的につながって学ばれることは増えているのかもしれない。子を育てるときの何が正しさで、どこを目指すべきか、と考える ときに私は上記のようなことをときどき頭に巡らせる。