スエイシ君の人生修行
  • 29Nov
    • 『泣きどころ人物誌-Ⅰ』●松井須磨子について-⑤-戸板康二の画像

      『泣きどころ人物誌-Ⅰ』●松井須磨子について-⑤-戸板康二

      『泣きどころ人物誌-Ⅰ』-戸板康二●松井須磨子について-⑤✪すでに名士だった須磨子は、このころ平塚らいてうの青鞜社の同人にもなっていた。序文を抱月が、わざとらしく「須磨子女史」として書き、すべて気取って作られた本ではあるが、この本の感覚は、伝説の須磨子像とは、あまりにもかけ離れている。だが、抱月の序文の中に、「須磨子女史の身に作られる芸術は、女史の霊魂の剛直性、力張性の反映である」「其の芸術は自然に男性的色彩を帯びて来る、これに対して、女史が技巧の力で鏤彫(るちょう)して作る色彩は女性の婉曲性である、而して自然は常に技巧の上に立って居る」とある。何ともわかりにくい文章だが、男っぽい須磨子に、抱月は惹かれていたのである。クレオパトラのような美しい女王の役を須磨子にさせた抱月であるが、一方で中村吉蔵の書いた「肉店」の女主人公のような、無教養の女を演じさせ、その舞台を成功させた。抱月は、松井須磨子という女優を、しゃぶり尽くして死んだとも言えるが、いつもその強い体臭に酔っていたのだろうと、私は思う。須磨子は、映画で、田中絹代、山田五十鈴が演じ、舞台では、丹阿弥谷津子、水谷良重、有馬稲子、越路吹雪が演じ、テレビでは原佐知子が演じた。この中で、良重と原のイメージが一応近かったような気がしている。須磨子がまだ文芸協会を除名される前、大正元年、杉浦出版部から出版された「女優かがみ」という名鑑があり、それによれば、須磨子の愛した香水がツバメというのである。香水は女優の必需品だが、ファンからもらった舶来の香水瓶と、市販の和製のそれとが、無造作にいつも楽屋に並んでいた。ちなみに、この名鑑にアンケートが載っていて、森律子が嗜好物にシュークリームと書いているのに対し、須磨子は薩摩芋としている。娯楽(趣味という意味だ)に川上貞奴が西洋音楽というのに対し、須磨子は貯金と答えている。涙がこぼれるではないか。

  • 28Nov
    • 『泣きどころ人物誌-Ⅰ』●松井須磨子について-④-戸板康二の画像

      『泣きどころ人物誌-Ⅰ』●松井須磨子について-④-戸板康二

      『泣きどころ人物誌-Ⅰ』-戸板康二●松井須磨子について-④✪私はいま、評伝にかならずしも書き込まなかったデータも含めて、私の知っている伝説を列記してみる。順不同である。○須磨子は鼻が低かったので、東京に来て、二度目の夫にすすめられ、隆鼻術をした。蝋を用いて鼻を高くしたので、時々それがゆがんだ。○逍遙の養成所に通う時、須磨子は英語がまったく読めず、テキストに一々「イット・イズ」というような仮名をふっていた。ある時、隣にかけている研究生が見たら、テキストを逆さにして持っていた。○養成所では、ライフスタディという勉強をした。ある課題を与えて、動作や表情で、ある人物がある状態であることを示す単純な実習だが、須磨子は、沢庵石を持ち上げたつもり、というのが、最もうまかった。○この養成所を受験した時、試験官の多くは、山だしという感じしかない須磨子を落とすことにしていたが、逍遙が「体格がいいから西洋人の役に向いている」といって、及第点を与えた。坪内博士は、採点表の備考欄に「ただたくましき肉体のみ」と書いた。○養成所の昼食に、須磨子は住んでいる町で売っている鯛焼きを買ってきて、弁当のかわりにした。○食味については鈍感だった。そば屋でも、種物はとらず、かけそばを玉子で食べた。そば屋でとると高いので、町で生玉子を買い、袂に入れてゆき、かけだけとって、丼の中に割った。そば屋が苦笑いした。○藤沢の俳優学校の主事をしていた田中栄三が、須磨子の夫の前沢に頼まれて、家庭教師として、三田の聖坂の上にいたころ、通っていたが、いつも郷里から送ってきた賽の目の形のあられを出した。茶は入れず、水をコップに入れて出す。田中はたちまち、腹をこわした。○この家庭は、おかずをこしらえず、納豆ばかり食べていたらしい。居間の隅に、納豆の苞(つと)が山のように積んであった。夫は小学校の教師だったが、帰って来ても、飯ができていたためしはなかった。○そんなことで、夫婦喧嘩も激しく、ついに別れる結果となるのだが、口論が須磨子の癇癪玉を破裂させると、火のついたままのランプを投げたり、前沢のパナマ帽を引き裂いたりした。○須磨子は激してくると、先輩にでも食ってかかった。稽古の時、うまく噛み合わないので怒って、相手役を舞台から突き落とすことも珍しくなかった。○若い女優で、須磨子に引っかかれたという娘もいる。かげ口に「まるで、えて公だ」といわれた。○洗濯が嫌いで、腰巻きがいつも汚れていた。藤間嘉舞八(かんぱち)の稽古場で、そういう腰巻きを出して踊るので、相弟子たちは顔をしかめた。○巡業に行った時、同宿した俳優がびっくりした。便所の中から須磨子の声がして、「先生、紙!」というのだ。抱月が、いそいそと落とし紙を持っていった。○ある家に招かれて、食事が出た。須磨子はその膳を前にして、抱月に「先生、箸をおとりなさいよ。据え膳食わぬは男の恥って、いわれますよ」といった。○柳永二郎が須磨子の一座に若くて入っていた時、楽屋をのぞいたら、前を隠そうともせずに、足に白粉を塗っていた。平気であった。こんなにまで、抱月をのぼせ上がらせるには、それだけの魅力があったはずだが、私の臆測では、先に挙げた、薄汚いような面を平気でさらけ出す、率直で都会人らしからぬ野生の女の匂いに負けたのだと思う。今、匂いと書いたが、須磨子には強い体臭があったと、田中栄三は私に語った。「いかにも須磨子の匂いでした」ところが、そういう女の匂いは、麝香猫(じゃこうねこ)のように、男を迷わせるものである。大正3年に、新潮社から「牡丹刷毛」という須磨子の文集が出ている。鈴木三重吉の小説集のように、千代紙模様の表紙の袖珍本(しゅうちんぽん)で、品のある装本だ。

  • 27Nov
    • 『泣きどころ人物誌-Ⅰ』●松井須磨子について-③-戸板康二の画像

      『泣きどころ人物誌-Ⅰ』●松井須磨子について-③-戸板康二

      『泣きどころ人物誌-Ⅰ』-戸板康二●松井須磨子について-③✪須磨子が死んで一ヶ月も経たないのに、日本評論社から、秋田雨雀・仲木貞一の共著で、「恋の哀史須磨子の一生」という四六判370ページの本が出ている。同じ頃に出た、赤本「新比翼塚松井須磨子」は、酔芙蓉という筆名の実話小説で、どういう筆者かわからないが、かなり文芸協会や芸術座の内情に詳しい。そこには、須磨子とわりなき仲となった抱月が家を出る経過が、ていねいに書かれている。須磨子に横恋慕しているいやな男が、抱月夫人や逍遙に告げ口をするところも、リアルである。ヨーロッパ留学時代も品行方正だったといわれる抱月が、42歳にして、この女優に心奪われ、歯の浮くような短歌をこしらえたりした上に、後に芸術座ができてから、死ぬまで二人は変心しないと言って、近松の浄瑠璃にでも出て来そうな愛の誓紙を書いたりした。こんなにまで、抱月をのぼせ上がらせるには、それだけの魅力があったはずだが、私の臆測では、先に挙げた、薄汚いような面を平気でさらけ出す、率直で都会人らしからぬ野生の女の匂いに負けたのだと思う。今、匂いと書いたが、須磨子には強い体臭があったと、田中栄三は私に語った。「いかにも須磨子の匂いでした」ところが、そういう女の匂いは、麝香猫(じゃこうねこ)のように、男を迷わせるものである。大正3年に、新潮社から「牡丹刷毛」という須磨子の文集が出ている。鈴木三重吉の小説集のように、千代紙模様の表紙の袖珍本(しゅうちんぽん)で、品のある装本だ。

  • 26Nov
    • 『泣きどころ人物誌-Ⅰ』●松井須磨子について-②-戸板康二の画像

      『泣きどころ人物誌-Ⅰ』●松井須磨子について-②-戸板康二

      『泣きどころ人物誌-Ⅰ』-戸板康二●松井須磨子について-②✪須磨子は大正8年1月8日の夜半、牛込通寺町の自宅であり、自ら女座長であった劇団芸術座の本拠、芸術倶楽部の階下の道具部屋の天井の梁に、ちりめんのしごきをかけ、首を吊って自殺した。二ヶ月前にインフルエンザ(スペイン風邪と呼ばれた)で急逝した、事実上の夫であり、恩師であり、芸術座の共同経営者でもあった島村抱月のあとを追って、死んだのである。その時、部屋の中央にあって、須磨子の遺骸の足の下になっていた卓の上に、血が落ちていたと伝えられている。その日が生理日だったというのだが、何もわざわざ、こんなことまで、新聞が書かなくてもいいと、私は思う。しかし、そういう風な、きれい事と逆の品のない伝説が、須磨子にはついて廻るのである。それには理由がいろいろあって、まず第一に須磨子が文芸協会にいて、ノラやマグダの演出をしてもらった抱月と恋仲になり、抱月はその結果、妻子を棄て、大学教授の地位をなげうって、劇団を作るに至ったその行動は許しがたい不倫であるという考え方が、世間にあったわけだ。現代でも、不倫を礼賛するべきではないが、恋愛については一般に寛大である。しかし、大正初年の日本は、抱月と須磨子の愛を認めなかった。洋行帰りの秀才として学生から崇敬されていた抱月が、忽ちダキツキと綽名(あだな)されて、落首になったりする。須磨子は、謹厳な男を堕落させた悪女というレッテルを貼られた。次に須磨子が、地方の人だったというだけで、都会人からは、一種の差別で見られた。田舎者が東京に出て来て女優になるなど、僭上きわまるという見方を、劇界の多くの者が持っていた。信州の人には悪いが、そのころの悪口で、「信州信濃の山家の猿が、花のお江戸で芝居する」という戯(ざ)れ歌があったともいわれる。須磨子の伝説をメモしてゆくと、田舎者というのではなく、その性格が荒っぽく、無頓着で、お洒落とは縁遠い、かまわない女だったように思われる。それが逆に、坪内逍遙の俳優養成所から出てわずか二年でスターの座を占める敢闘精神を支えてもいたと思うのだが、とにかく、須磨子の場合、伝わる話が、とかく三枚目じみており、粗野で奇妙なものが多いのである。

  • 25Nov
    • 『泣きどころ人物誌-Ⅰ』●松井須磨子について-①-戸板康二の画像

      『泣きどころ人物誌-Ⅰ』●松井須磨子について-①-戸板康二

      『泣きどころ人物誌-Ⅰ』-戸板康二●松井須磨子について-①✪わが新劇史の最初の女優である松井須磨子については、実に多くの伝説が残っている。それは、たとえばフランスのサラ・ベルナール伝説とは違い、当人として、後世に喧伝されるのを好まぬ内容のものが多い。私は昭和39年に、「女優の愛と死」という題名で須磨子の評伝を書きおろしたのだが、取材に当って驚いたのは、須磨子には、おびただしい文献があったということだ。早稲田大学演劇博物館には、須磨子の死後、その月のうちに急いで作られた単行本や小冊子がほとんど保存されている。これは伊原青々園のコレクションであった。三部にわたる日本演劇史を著した伊原博士は、歌舞伎の史料を持っているほかに、新劇史料まで集めていたのだ。私は何日も早稲田にかよって、それらの印刷物を読み、幾人かの故人、親しかった人からも話を聞いた。須磨子の郷里の信州松代にも行った。土地の人だけは、「松代に過ぎたるものが二つあり、松井須磨子に佐久間象山」という云い伝えを語って聞かせ、いやな話はひとつもなかったが、東京で会った楠山正雄、田中栄三、田辺若男の直話の中には、私自身、評伝の中にそのまま書くのをためらうような表現もあった。私がこの女優を書こうと思い立ったのは、私自身の分野の仕事であるというほかに個人的な事情があった。私の祖母がはじめた戸坂裁縫女学校に、須磨子(本名、小林正子)が学生でいたことがあったのだ。須磨子が死んだのは私の四歳の時だが、物心ついてから、祖母が食卓の話題にその名前を出す場合があり、早くから、この芸名は耳に馴染んでいた。そんなことがあったので、評伝を書いたのだが、書いてゆくうちに私は段々、この女性が好きになっていった。欠点もあったが、それに数倍する魅力があり、劇的な生涯そのものがけなげで、かつ哀れである。舞台で扮したノラやカチューシャやカルメン以上に、松井須磨子自身が長編戯曲の女主人公であった。俗な云い方をすると、惚れてしまった須磨子のいやな伝説は、あまり評伝に書き込みたくなかったというのが、正直な気持ちであった。 

  • 24Nov
    • ”『この国のかたち-2』について-①”-司馬遼太郎の画像

      ”『この国のかたち-2』について-①”-司馬遼太郎

      ”『この国のかたち-2』について-①”-司馬遼太郎 ”「職人 」より”  職人。じつにひびきがいい。そういう語感は、じつは日本文化そのものに根ざしているように思われるのである。日本は、世界でもめずらしいほど職人を尊ぶ文化を保ち続けてきたが、そういうあたり、近隣の歴史的中国や歴史的韓国が職人を必要以上にいやしめてきたことにくらべて、”重職主義”の文化だったとさえいいたくなる。たとえば、この国の先人たちは、五郎正宗(ごろうまさむね)や来国俊(らいくにとし)、井上和泉守(いずみのかみ)国貞といったような刀工の名に、しばしば古聖人のような色あいをかさねてきた。他の文化からみればふしぎな感じといわねばならない。----しかし、士農工商ということばがあって、工はずいぶんいやしめられてきたではないか。という反論があるかもしれないが、この慣用句は本来の日本製ではなく、中国製である。それも紀元前にすでに存在していて、それが日本におけるはるかな後世、江戸幕府が身分制を固定するにあたってにわかに思い出して日本語のなかに入れられたのである。内容も清朝までの中国や李朝までの朝鮮(韓国)などの儒教体制の社会とはずいぶんちがっている。どうちがうかについては他日にゆずるが、ともかく儒教では身を労することはいやしく、小人にあたる。四民のうちの農工は身を労するがためにいやしい。これに対し心を労するのが君子で、つまりは儒教が理想を託している精神的階級のことである。士がこれにあたる。ただし江戸時代の身分制における”士”は本来は兵であって、儒教でいう士にはあたりにくく、むろん日本の武士はときには心を労するけれども、身も労する。身を大いに労さねば武士ではありえない。

  • 23Nov
    • ”『ほとけさまの物差し』-①”-ひろさちやの画像

      ”『ほとけさまの物差し』-①”-ひろさちや

      ”『ほとけさまの物差し』-①”-ひろさちや ”「仙厓和尚 」より”  江戸後期の禅僧に仙厓(せんがい)和尚がいます。独特の洒脱な墨画を描いた人です。この仙厓和尚、あるとき、檀家の新築祝いに招かれました。こういうとき、たいていは主人から揮毫(きごう)を依頼されます。   「和尚さん、お祝いに一枚、お願いします」と、仙厓和尚は気軽に引き受けます。そして、さらさらと書きました。    ぐるりっと家を取り巻く貧乏神 そこで筆を休めます。主人はカンカンに怒ります。「縁起でもない」というわけです。「まあ、まあ、そう怒りなさんな。いまに下の句を書いて進ぜる」そして仙厓和尚は書きたしました。    七福神は外に出られず主人が喜んだのは、いうまでもありません。

  • 22Nov
    • 『風塵抄ー1』●日本的感性- 司馬遼太郎の画像

      『風塵抄ー1』●日本的感性- 司馬遼太郎

      『風塵抄ー1』- 司馬遼太郎●日本的感性✪『孟子』に”木ニ縁(よ)リテ魚ヲ求ム”という比喩があって、木に登って魚をとるようなものだというのだが、しかし孟子はよく知らなかったのか、木と魚はきわめて因縁がふかい。今日の水産関係者は、木が魚を呼ぶことを知っている。岬などに林があって、それを伐採すれば、魚群が寄りつかなくなってしまうのである。林が海におとす影やそれを透(とお)しての日光のぐあいなどを、魚たちはやすらぎとして身を寄せているのである。むろん、魚たちは海藻の群落や岩礁、沈没船などにくるまっても生きている。人間もまた文化というものにくるまって生きている。「文化」についての私の定義は、「それにくるまっていて安らぐもの・楽しいもの」というもので、たとえば旅から自宅に帰ると、ほっとして、「家ほどいいところはない」とつぶやく。要するに自分の文化に、再びくるまることができるからである。個人の文化もあれば、民族が共有する文化もある。これは慣習・習慣といっていい。例をあげると、日本料理には一定の作法と道具(箸や椀、皿など)が伴っており、それなしでは単に食品か、魚の死骸の一片にすぎない。以上は文化人類学での文化、あるいは伝統文化としての文化だが、もう一つ、芸術などの創造的文化がある。すぐれた音楽を聴いたり、すばらしい名画を見るのは楽しい。そういう創造的な文化もまた”それにくるまっていると”楽しいという定義に入る。たとえば音楽会などは、参加するという仕掛けまでがあって、夕刻、服をあらためて家を出てゆくところから、すでに”楽しみ”の動作がはじまっている。また、娘さんがセンスのいい服を身につける。これも創造的な文化である。「これを着て、あの街角を歩きたい」と、彼女は思う。一面、そういう街角をたくさんもっているというのが、都市の文化の一つである。人間は高度に生きるのがいいに決まっている。生涯7、80年という物理的時間の密度も質も、高い文化を感じうるかどうかによって違うものになる。人生の良否を決めるのはカネではなく、感受性かと思われる。

  • 21Nov
    • 『運命を開く』●直観に優れた頭脳こそ最上- 安岡正篤 の画像

      『運命を開く』●直観に優れた頭脳こそ最上- 安岡正篤 

      『運命を開く』- 安岡正篤●直観に優れた頭脳こそ最上✪学校でも、今まで一般に頭が良いということを賞めたものです。ところが、頭が良いということは、決して第一義ではない。そもそも頭が良いとはどういうことか。その意味する内容が非常に変わってきた。今まで一般に考えられた頭というものは、機械的な理解や記憶の能力で、頭のハシクレには相違ないが、本質的な働きではない。真に頭が良いということは、直観に優れなくてはならない。智慧とうものでなくてはならない。knowledgeではなくてwisdomというものは、情緒と結びついているもので、情緒が発達しないで智慧や偉大な行動力は生じないのです。やっぱり国を思って泣く、己を忘れて泣くという純情な感激性があって、真の国策も成功もあるのです。そういう情緒のない、いい加減な人間どもが集まったところで、善い智慧は出てこない。悪智慧しか出ない。子どもの養育についてもそうですが、母親が子どもの言葉を良く理解する、子どもの意欲を良く察知する---それは母親の愛情からです。愛情があるから直覚する。父親の方は、母親の愛とは違って我がある。そこで子どもの片言は父親にはよく分からぬ。ここにデリケートな相違があります。少年・幼年というものは、大人から幼稚・無内容に見えるけれども、かく本質的に見てくると、尊い内容を豊かに持っている。そもそも、我々の肉体の細胞は新陳代謝する。4年ないし7年で身体の細胞は一新する。しかし、脳細胞だけは変わらぬ。生まれ落ちると、すでに一生に必要なる脳細胞を具備して、その脳のいろいろな機能が完全に発達するまでには年を要するけれども、すでに3歳にしてその細胞の80%は機能を開始する。そしてその細胞は変わらない。だから「三つ子の魂百まで」ということは科学的に真実です。故に脳を冒(おか)されたら回復が難しい。だから、子どもの素質・能力というものは、なるべく幼少年の時から教育し、訓練すれば、持って生まれた能力は、非常な力で発育するものです。知能や技能のようなものは、幼少年時代ほどよく習得します。もっと徹底して言うならば、幼児よりもさらに可能的状態である胎児がもっと神秘的なものであります。胎児が大事だということは、母の、したがって妻の思想・精神・人格・生活態度・慣習というものがいかに大切であるかということになります。そこで、今までの婦人論者の婦人に関する研究がだんだん面目を新たにするようになってきました。   

  • 20Nov
    • ”専守防衛”-三島由紀夫

      ”専守防衛”-三島由紀夫✪敵と味方の間には必ず距離がある。けんかの場合もそうだし、戦争の場合もそうである。そして間合いを詰めれば攻撃が可能になるが、自分は敵の攻撃力にさらされることになる。剣道で最も重んずるのはこの間合いであるが、空手の組み手でも、間合いが自分の間合いと相手の間合いとに微妙に分かれている。自分の間合いのすれすれのところで攻撃を開始しなければ、敵の間合いに入ってしまい、自分の攻撃は遅れてしまう。また、空間的な間合いだけでなく、時間的な間合いというものもある。時間的には、もし自分の間合いを永久に保っていれば、決して攻撃されないわけであるが、理屈ではそうであっても、完全な防御態勢で闘うことはできない。いままで専守防衛で勝ちをしめた例は一つもない。守るだけの態勢にいる者は必ず破られるというのが法則である。自分の周りにいかに堅固な陣地を築いて守っていても、守るだけの者は敵に、またそれ以上の攻撃の時間の余地を与え、守っている陣地の戦力を超えた補給をされた場合、物理的に必ず負ける。---アメリカの核の傘に入って、憲法9条を後生大事に守り、「集団的自衛権」の行使は憲法違反である。戦争はいけないと、いくら唱えたところで、ミサイルが一発日本に飛んできたら、終わりである。東京に撃ち込まれれば、いっぺんに首都機能は止まる。原子力発電所に撃ち込まれれば、チェルノブイリの例を見るまでもなく悲惨なものになる。小学校、浄水場、狙われるところはシュミレーションすれば容易に想像がつく。自衛隊が軍隊であり、毎年何兆円という予算をかけ続けている以上、攻撃的な軍隊であるべきである。---自民党の結党以来の党是である自主憲法の成立と自分の国を自分たちの力て゛守るという最低限の軍事力の保持を否定する理由はどこにもないと思う。ミサイルを一発撃ち込まれたら、平和ボケした学者が一番先に目が覚めるのではなかろうか。「坊主の説法、屁一発。」というではないか。

  • 19Nov
    • 『若きサムライのために』✪アメリカ風の美女-①-三島由紀夫

      『若きサムライのために』-三島由紀夫✪アメリカ風の美女-①✪大体、西洋というものは、日本の鏡だったのである。黒船がやってくるまでは、「松山鏡」の話ではないが、日本人は、いわば鏡のない国に住んでいて、自分の顔も満更じゃあるまい、とおぼろげながら信じていた。ところが、西洋の鏡をつきつけられてみて、わがアバタ面にびっくりし、周章狼狽して、大いそぎで西洋から美容術と化粧品を輸入したが、俄(にわか)化粧がうまく行くわけもない。そういうとき、内面的精神的価値を信ずる他はなくなるのが自然の理で、明治という時代は、この大慌ての俄化粧の顔と、外から見えない内面的な日本の美しい顔と、二つの顔を持っていた。そのうち化粧もだんだん板についてくると、日本人の内面的精神的価値を信ずる生理的必要も減少してきて、何となく主観的に、西洋人の顔と似ているような気がして、安心しだしたのが大正時代。鏡のほうもだんだんイカレてきて、正確な像を映さなくなった。しかし、それだけでは物足りなくなるのが人間の心理で強い反動がやってきた。何でもかんでも、世界一の美女であると信じたくなり、むかしのアバタ面を見た驚愕など、忘れたくなった。そこで日本中の鏡をぶっ壊すことになったのが、昭和の言論統制である。大東亜戦争のあいだは、日本は世界一の美女であることになっていたが、何となく「ホントかな」という心配があった。素朴なる「松山鏡」の時代と違って、一度鏡を知ってしまって、それをぶち壊してしまったのだから、何となく後ろめたいのは当然である。鏡を隠し持っていたら、憲兵に引っ張られる時代であるから、世界一の美女だということにしておけば、まず安全であった。敗戦の結果、又、西洋の鏡をつきつけられることになり、それで死にたいほど悲観したけれど、しかしそのショックは、別のショック、敗戦のショックのために緩和されて、明治初年の時ほどではなかった。

  • 18Nov
    • 『この国のかたち三』●平城京についてー司馬遼太郎の画像

      『この国のかたち三』●平城京についてー司馬遼太郎

      『この国のかたち三』ー司馬遼太郎●平城京について律令国家は、奈良時代70余年が最盛期であった。平安時代になってくずれはじめ、やがて東国を中心に武士という反律令的農場主が勃興し、ついには12世紀末、鎌倉幕府というきわめて日本的な政権が誕生する。これによって律令の世は事実上滅ぶのである。日本史が、中国や朝鮮と体制を異にしはじめたのは、鎌倉の世からであり、そのことは、以前にも述べた。話を、奈良の都にもどす。8世紀初頭に平城京という大都市ができたものの、都市としてはまったく孤独なものであった。他に都市がなかった。同時代の唐は県城などの無数の都市が積み上げられてその最頂点に長安があったのに比べると、まことに貧寒としている。平城京そのものが大博覧会における飾り建物(パビリオン)に似ていなくもなかった。繰り返すが、経済的土壌の上に成立した都市ではなかったのである。ここでふと思うのだが、律令制というのは沈黙の社会主義体制だったといっていい。沈黙のというのは、社会主義につきもののやかましさがなかったということである。マルクスの社会主義であれ、ナチによる国家社会主義であれ、あるいは戦前の日本軍部による統制主義であれ、人々を説得したり、"思想" によって脅しつけたるための空論や空騒ぎの演説が必要だったが、日本古代の律令制にはそういう音響がなかった。なにしろ日本の7世紀末から8世紀の社会には多様性がなく、一望、農民や採集生活者だけだったのである。それに日本語が未成熟であった。いわば生活言語で、抽象的なーーたとえば、国家や社会についてのーーことを論ずることは出来なかった。まことに『論語』に出てくる「之ニ由(よ)ラシムベシ。之ヲ知ラシムベカラズ」の民であったため、人々は季節を受け入れるようにして受け入れざるを得なかったのだろう。#社会主義 #平城京(パビリオン) #日本語・未成熟

  • 17Nov
    • 『仏教とキリスト教』●仏教の経典(大乗仏教)-ひろさちやの画像

      『仏教とキリスト教』●仏教の経典(大乗仏教)-ひろさちや

      『仏教とキリスト教』-ひろさちや●仏教の経典(大乗仏教)について ✪大乗仏教は、釈迦が入滅してから数百年して出現した新しい仏教です。ですから、その大乗仏教の経典は、釈迦の肉声によって語られたものではありません。けれども、だからといって「大乗経典」を後世の仏教徒の創作だと早合点をしないでください。たとえば、イスラム教の聖典である『コーラン』は、マホメットがアラーの神の啓示を受けて伝えたものです。マホメットの創作ではありません。それと同じように、「大乗経典」は、後世の仏教者たちが瞑想体験のうちで、時間を超越した仏陀と出会い、その仏陀の啓示をうけて伝えられたものです。わたしは、「大乗経典」の成立をそのように考えています。日本の仏教は大乗仏教ですから、古来日本人に親しまれてきたお経は、ほとんどが「大乗経典」です。その「大乗経典」のうち、とりわけ有名なものを次に紹介しておきます。[般若経]・・・・・大乗仏教の基本哲学である「空」の思想を述べたものが[般若経]です。けれども、[般若経]と題された単独の経典があるわけではありません。[般若経]というのは、「空」の思想を述べた多数のお経のグループの名称なのです。そのなかで大部なものは『大般若経』で、600巻から成ります。逆に小部なものは、日本人によく知られた『般若心経』で、わずか262文字でもって、「空」の思想を簡潔に表明しています。[維摩経]・・・・この経典の主人公は、維摩と呼ばれる在家の居士(資産家)です。在家の仏教者の維摩が、出家者をこてんぱんにやっつける筋書きになっていて、それを通して「空」の思想を語ったものが、この『維摩経』です。[法華経]・・・・『法華経』といえば、最も代表的な大乗仏教のお経です。そのテーマは、「永遠の仏陀」です。仏陀は永遠の過去から永遠の未来にかけて実在し、われわれに法(真理)を説きつづけておられます。わたしたち凡夫は、子どもが父親を慕うように、この永遠の仏陀に帰依し、仏陀の永遠の生命に帰入すればよいのです。そうするとき、わたしたちは大きな生命の喜びを体現できます。そのような思想を語っているのが、『法華経』です。この『法華経』は、日本仏教において実に多くの人々から帰依されているお経です。聖徳太子、最澄、道元、日蓮といった人たちが、この『法華経』を信奉しました。最も日本仏教に影響を与えた経典といえば、この『法華経』だと思います。

  • 16Nov
    • 『不道徳教育講座』●馬鹿は死ななきゃ-三島由紀夫の画像

      『不道徳教育講座』●馬鹿は死ななきゃ-三島由紀夫

      『不道徳教育講座』-三島由紀夫●馬鹿は死ななきゃ✪馬鹿は死ななきゃ直らない、といいます。馬鹿にも重症から軽症まであり、「大賢は大愚に似たり。」というごとく、賢愚の相通ずるところに座をしめている立派な馬鹿もあり、神のごとき白痴さえある。①秀才バカ概して進歩的言辞を弄し、自分のでた大学をセンチメンタルに愛しており、語学が達者で使わないでもいいところで横文字を使い軟弱なくせに時々ヒステリックに高飛車なことを言ったりする。秀才バカはバカのうちでももっとも難症で可愛らしさがない。バカの一徳は可愛らしさにあるのに。②謙遜バカ何でも謙遜さえしていれば最後の勝利を得られるという風に世間を甘く見ている。「私のようなものが・・・・」とか「不肖私が、」とか言い、謙遜の裏に鼻持ちならないうぬぼれをチラチラ見せ、それでいて嫉妬心が強く、恨みつらみを内攻させる。おかしくもないのにニコニコとバカな微笑みをたたえている。③自慢バカ人間誰でもうぬぼれがあるが、発表せずにおられないのが自慢バカ。自分の成功談を滔々と語る。「私みたいな美人が・・・・・・」などと言って効果が台なしとなる。出身校の自慢をしたり、余技の自慢をしたり。④三枚目バカむやみに自分を三枚目にしたがり、わざわざ女の前でピエロを演じ、絶えず自分を笑い者に仕立て上げる。しないでもいいヘマをやりいらざる失敗の告白をする。バカの種類は限りがないが人間とバカは切っても切れぬ関係で、この病原菌はどんな賢者の体内にもあるものである。だから人間みんなバカだと言えばそれっきりで、賢者とバカの違いはこの病気とうまくつきあうかどうかの違いである。微妙な抑制の神経をもつことでバカ病は好転もするし、悪化もするものである。

  • 15Nov
    • 『人物を創る』●東洋の学問と西洋の学問-安岡 正篤の画像

      『人物を創る』●東洋の学問と西洋の学問-安岡 正篤

      『人物を創る』-安岡 正篤●東洋の学問と西洋の学問 ✪田舎の中学校では、『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』あるいは『日本外史』・『太平記』などというものをやってきた。しかし、東京の高等学校にはいってからは、初めてアー・ベー・ツェーとドイツ語のABCを習って半年もすると、先生は難しい本を得意になって講義する。翌年にはもうゲーテの『ファウスト』などというものを読ませる。学生の方も負けん気になって、マルクスの『資本論』などを原書で読んだものです。原書輪読会を作って、有志と一緒に勉強したり、他人に隠れるようにして読んだり、それこそ夜眠るのも惜しいくらいに、いろいろな書物をむさぼり読みました。ところが、仁義・道徳・忠君愛国のことばかり勉強してきた身にとって、反対のことばかり書いてある。みな仁義道徳だの、忠君愛国だのというものに疑問を持って、何か人間の悪というものを研究し、それを描写して、従来の人間観、国家観というようなものをことごとく打破する書物ばかりであった。そういうことで、驚きながらも一所懸命そういう本を読みました。そういうことをやっておるうちに、一つの大きな煩悶が起こってきた。やればやる程なんだか淋しくなる、もどかしくなる、じれったくなる、居ても立ってもおれなくなる。今日の言葉で言えばノイローゼ、その頃は神経衰弱という言葉が流行っておりましたが、どうもその神経衰弱になる傾向がある。それで、ふっと手にとってみたのが古典であります。『論語』だとか、『孟子』だとか、『太平記』だとか、吉田松陰のものだとか、もうその頃には王陽明のものや、大塩中斎の『洗心洞察記』などを愛読しておったのですが、そういう書物を読んだのです。ところが、なんともいい知れぬ満足感が、落着きというものが、腹の底から湧いてくるのです。ちょうど腹が減って、ふらふらになっておったのが、一杯の飯にありついたというか、咽がかわいて、こげつきそうになっておったのが、うまい水を一杯飲んだというか、とにかく飢えを満たし、渇をいやす感じがする。いったいこれはどういうわけであろうか、とは思うのですが、なんといってもまだ未熟であるから、深くつっこむだけの能力もなく、また毎日の学課の勉強に追われて、そういう研究をする時間もなければ余裕もない。しかし始終それが念願にひそんでおって、いわゆる近代学をやればやる程そういう疑問が深まるばかりである。そういう状態のまま大学に入るようになった。

  • 14Nov
    • 『江戸一口ばなし』●「入鉄砲に出女」を看視した関所-今野信雄の画像

      『江戸一口ばなし』●「入鉄砲に出女」を看視した関所-今野信雄

      『江戸一口ばなし』-今野信雄●「入鉄砲に出女」を看視した関所✪ 松並木がある。白浜がつづく。そしていたるところで富士山を仰ぎ見てすこぶる太平楽。それが平和な江戸時代の旅と思うかもしれないが、旅にはいつの時代でも難儀がつきもの。当時の難儀といえば関所と大井川の川越しと、飯盛女と雲助・ゴマノハイの横行だった。関所は幕府防衛が目的だから、西国大名を警戒して中部地方から関東にかけて53ケ所。なかでも警戒厳重だったのが東海道は箱根と新居(浜名湖西岸)、中山道の碓氷、木曾福島の関所だった。俗に言う「入鉄砲に出女」を看視したのである。「入鉄砲」とは江戸に向かう鉄砲の荷で、これは叛乱防止のため、特に新居の関所でやかましかったようだ。また「出女」とは人質として江戸藩邸にいなければならなかった大名の奥方を、国元へ帰さないための処置で、特に箱根関所の警戒は厳重だった。これももちろん大名の謀反をおそれてのこと、だから関所は一種の警察機構であり、一段高い壇上に役人がズラリと並び、旅人をやたらに怪しいヤツという目でにらみ据えている。この関所を通過するためには通行手形と関所手形が必要であり、女性はさらに体の特長まで記した手形を携帯しなければならない。しかも髪をといたり、衣裳を脱がして調べたのだから現代ならものすごい社会問題になっただろう。そこで若い女性は男装して通行しようとするが、人見女、通称「改め婆」がいて、前をまくって調べるというのだからやりきれない。もしも関所を通過せず間道を通ればもちろん死罪。それも磔(はりつけ)と決まったのは8代将軍吉宗のときだ。國定忠治が磔(はりつけ)になったのも、百姓扇動とか代官殺害の罪よりも、大戸の関所破り(群馬県)のためだった。

  • 13Nov
    • 『三島由紀夫語録』●「航海日記」についてー秋津 建の画像

      『三島由紀夫語録』●「航海日記」についてー秋津 建

      『三島由紀夫語録』ー秋津 建●「航海日記」について✪感じやすさというものには、ある卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に感じるほどのことを、他人は自分に感じないという認識で軽癒する。子供のころ私は父や母が、人前で私の恥ずかしいことを平気で話すのをきいて、絶望した。しかしやがて世間の人がさほど思っていないことを識るにおよんで安心した。✪自分が誰かにいつも見られていると感ずる注察妄想のような妄想知覚を、われわれは感じやすさとは呼ばない。また、子供の時期、いわゆる多感な年齢の一時期の、他者に対する過剰な意識を妄想とは呼ばない。子供の時期は感受性の宝庫なのである。これを一生涯だと思って大事にしまっておく人は決して芸術家にはならない。宝はゴミ溜だったと知って、感受性というゴミを棄てようとするのが芸術家だ。芸術とは感受性というゴミを如何にして棄てるかという方法を模索することにほかならない、ところで「航海日記」の中で三島氏はこう書いている。「ボオドレールは不惑不動を以てダンディーの定義をした。感じやすさ、感じすぎること、これはすべてダンディーの反対である。私は久しく自分の内部の感受性に悩んでいた。私は何度かこの感受性という病気を治そうと試みた。それには二つの方法がある。濫費して使い果たすこと。もう一つは出来うる限り倹約すること。私はこの二つの方法にかわるがわる拠った。一見反対の効用をもちながら、併用することによって効果を倍加する薬品があるものである」。「感じやすさのもっている卑しさは、われわれに対する他人の感情に、物乞いをする卑しさである。自分と同じ程度の感じやすさを他人の内部に想像し、想像することによって期待する卑しさである」三島氏にとって初めての航海は、感受性を濫費するのに絶好の機会であった。三島氏は思った。「私の理想とした徳は剛毅であった。それ以外の徳は私には価値のないものに思われた」と。

  • 12Nov
    • 『風塵抄ー2』●自我の確立- 司馬遼太郎の画像

      『風塵抄ー2』●自我の確立- 司馬遼太郎

      『風塵抄ー2』- 司馬遼太郎●自我の確立✪動物には、自然の掟として、自立という段階がある。たとえば、タカの母親は、断崖の巣の中で育てたヒナを、成長の段階で蹴落とす。若タカは泡を食ったようにいったんは落ち、やがて弱い筋力ながらも羽ばたき、そのうち自分の餌場の谷をみつけて、高く舞う。ヒトも自立が早かったろう。が、社会が進むにつれ、自立は微妙に遅れる。遅れてもいいが、しぞこねた場合、たとえばなまなましい宗教に自分そのものを委(ゆだ)ねてしまう。ヒトの巣は家族と学校である。近代社会になると学校の期間がじつに長く、自然界ならとっくに自立しているのに、齢を食って、なお巣の中にいる。自立できる筋力もあり、種の保存ができる性欲もあるのに、社会的訓練のおかげで、ことさらにあどけなく自分を作り成して、ヒナドリであるかのように、親の運んでくる餌を食べている。個人差として、遅くオトナになる型のほうが、知的受容がしやすい。秀才といわれる青少年は、たいてい芯からコドモっぽい。一方、べつな少年は、生物としてひそかにオトナになっている。内々オトナである分だけ、学業の受容能力をさまたげる。ときに劣等生のレッテルを貼られる。話がかわるが、ヒトは成年もしくは老いはてても、自分の中にコドモを、多量に残している。日常、自分の中のオトナとコドモを、精妙な調節弁でもって、場面次第で使い分けて生きているのである。「本日は、お日柄もよく・・・・・・・・」と、婚礼の席であいさつをしたり、国会で答弁したりするのは、その人のオトナの面である。一方、すぐれた音楽を作曲する人は、その人の中のコドモが、それをする。偉大なことに、恋愛もその人の中のコドモが受けもっている。ただし色恋沙汰は、その人のオトナがやる。自我とは、自分自身の中心的な装置のことである。その人の肉体と精神を統御している中軸機関で、それさえ確立していれば、自分をタテ・ヨコからながめることが出来、自分を他者のように笑うこともでき、さらには自分についての一切の責任を持つことができる。年頃になれば自立したい。が、大学院の博士コースまでゆくほどに知的受容が旺盛でも、むしろその知的受容の多忙さにかまけて、うかつにも自我の確立が遅れる場合がある。外容はりっぱでも、--自我が--空っぽのままでいる。時を経ると、実にさびしく、心許なくなる。

  • 11Nov
    • 「遥かなるケンブリッジ」藤原正彦の画像

      「遥かなるケンブリッジ」藤原正彦

      フィラデルフィア「遥かなるケンブリッジ」藤原正彦イギリス産業革命の一大特徴は、それが政府主導で行われたものではない、ということである。事業家と組んだ、独創的個人の卓抜なアイデアが、画期的発明に結びついた。高度技術の複合を必要とする現代では、巨額投資に支えられた研究所での、組織的研究が必要となっている。数学や理論物理など、基礎科学分野では、今でも個人が大きなウェイトを占めるから、イギリス人は大いに気を吐いている。ノーベル賞の受賞においては、イギリスは抜群の首位にある。彼らの個人プレー的独創性は今日でも健在なのである。しかし、基礎科学上の発見は、直ちに人類の共有財産になってしまう。発見された原理に特許をつけたら、日本は支払う特許料で破産するかもしれないし、イギリスは大金持ちになるだろう。#イギリス #ノーベル賞#科学

  • 10Nov
    • 『天皇論』●江藤淳との対話-①ー富岡幸一郎の画像

      『天皇論』●江藤淳との対話-①ー富岡幸一郎

      『天皇論』ー富岡幸一郎●江藤淳との対話-①---そういう問題というのは、いまも繰り返される。もう一点、『昭和の文人』に登場する、平野謙・中野重治・堀辰雄に共通して出てくるのは父親の問題だと思います。父を恥じるといいますか、恥ずかしい父というか、そういうところが不思議に出てくる。これはもちろん、それぞれの作家の個人的な肉親という意味での父という意味もあるでしょうし、同時に、もうちょっと広く父性という一つのテーマにもつながっている。江藤さんは前に『成熟と喪失』で「母の崩壊」ということを言われたが、もう一つそれ以上に大きな問題として、「父」「父性」という問題をお書きになっている。「成熟と喪失」の中で指摘されていますが、第三の新人に共通して見られる問題が、この父親の欠如ということですね。父を恥じ、恥ずかしい父のイメージを極力消していく近代日本の一つの流れの中で、第三の新人の文学がある。小島信夫の『抱擁家族』における父親の問題、江藤さんはこれを漱石の『明暗』と比較し、批評されている。私がいちばん象徴的だと思うのは、あの中では遠藤周作だと思います。つまり、カトリック作家あるはずの遠藤周作には、母的なものと言うか、より強い父を見出していくキリスト教のルター的なものと、逆のベクトルがある。これは父の背後に超越的なものを見る感覚が欠けているという指摘を、江藤さんは第三の新人に集約的に現れている父性の欠如と、この『昭和の文人』で語られている父親を隠す、あるいは恥ずかしがるという近代日本人の共通した感性、このへんがひとつ大きな問題になる。当然、父親の背後に見るべき超越という問題は、天皇という問題にも関わってくる。