スエイシ君の人生修行
  • 21Apr
    • 『司馬遼太郎エッセンス』⚫️人格においてー①ー司馬遼太郎

      『司馬遼太郎エッセンス』-谷沢 永一●人格において統一される論理-①✪そして西郷は世に征韓論者と目されながら、実は決して粗暴な征韓論者ではなかった。司馬遼太郎が念を押して明確にするごとく、「かれはこの当時における征韓論の代表的人物とされていながら、もっとも重大なことはかれ自身、征韓とかいう時代の流行語を一度も使ったことがなかったのである」。この機微を見逃した型通りの征韓論批判は、単に見当はずれであるに止まらず、歴史の事実をねじ曲げた僻論となろう。西郷隆盛は終始一貫して「遣韓」と言い続けたのである。西郷は、「自分を遣韓大使にしてくれ、と三条実美や太政官の参議たちを説得して廻った」。彼は武力の必要を決して唱えなかった。「遣韓のためには軍艦も要らない。護衛部隊も要らない、といった」のである。西郷が身を捨ててかかっていた姿勢に、いかなる猜疑の眼をもってかかっても疑いの余地はなかろう。「かれはペリーが日本に対してやったようないわゆる砲艦外交をやろうとはしなかった」のである。

      NEW!

      5
      テーマ:
    • 『文人悪食』⚫️永井 荷風ー④ー嵐山光三郎

      『文人悪食』ー嵐山 光三郎●永井 荷風ー④✪②の昭和二十年八月、空襲で麻布の家を焼け出された荷風は岡山に滞在する谷崎潤一郎(荷風より七歳下)を訪れてご馳走を食べた。「宿屋の朝飯、鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ焼き、茄子香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり」と八月十五日の日記にあるが、その前日は牛肉のすき焼きと日本酒だった。帰りの弁当は白米のむすびに昆布佃煮と牛肉が添えてあった。空襲で人びとが焼け出され、食糧不足でコメが手に入らない時代に、谷崎は銀行から預金全部を引き出して、荷風を饗応したのである。そのとき、谷崎は『細雪』を執筆中であった。。その谷崎が、全部金を引き出して荷風にふるまった(谷崎『疎開日記』)のは、常識を超えており、荷風の贅沢に対する畏敬があった。谷崎から見て、荷風の舌は「おそろしい」存在だった。それ以前に荷風が書いた「食べたくない料理を食べさせられた挙句、之に対して謝意を陳(の)べて退出するに至っては、苦痛の上の苦痛である」という一文を谷崎は読んでいたのかもしれない。

      NEW!

      10
      テーマ:
    • 『弥縫録』⚫️狡兎死してー陳 瞬臣

      『弥縫録』ー陳 瞬臣 ⚫️『狡兎死して走狗煮らる』 『狡兎(ずるいうさぎ)』が死ぬと、走狗(狩りの時に走り廻って獲物を追う犬)は、不要になって煮られてしまう、という意から、敵国が滅びてしまうと、そのために力をつくした味方の謀臣も殺されてしまうということ。正確に言うと、「飛鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らる(ひちょうつきてりょうきゅうぞうせられ、こうとしして、そうくにらる)」--臥薪嘗胆で有名な越王句践が、呉王夫差を破ったあとのこと、句践の謀臣である范蠡が自分は五子胥の二の舞になると悟り「大名の下には以て久しく居り難し。」といって越の国を去る。意味は、「飛んでいる鳥を射尽くしてしまうと、良い弓も蔵にしまわれてしまう。獲物ですばしこい兎が死んでしまうと猟犬は用がなくなり煮て食べられる。」--事が成ってしまうとそれまで役に立っていたものは不要になるということ。もっと砕いて言うと、引き際をあやまるな、というところでしょうか。--関連することで、昔の教科書(戦前)には載っていたことですが、「天、句践を空しうするなかれ、時に范蠡無きにしもあらず。」後醍醐天皇をなぐさめるために(後醍醐天皇を越王句践にたとえ、名臣范蠡が出現しないわけではないのだからと・・・・・)児島高徳が贈ったと言われています。

      NEW!

      8
      テーマ:
  • 20Apr
    • 『文人悪食』●永井 荷風ー③ー嵐山 光三郎

      『文人悪食』ー嵐山 光三郎●永井 荷風ー③✪「ま、築地の精養軒あたりでも、そんなに悪いんぢゃないけれども、行って見ると、構へは大変立派だが、出て来るボオイが気が利かないし、その又ボオイの洋服なんかも穢(きたな)くて矢張り厭(いや)である」パリで贅沢三昧を体験した荷風から見れば当時の文人が好んで通った築地精養軒もこの程度となる。(荷風は漱石より十二歳下である)荷風の日常生活は、日記『断腸亭日乗』に克明に記されている。大正六年(三十七歳)から昭和三十四年(七十九歳)の死の直前に至る約四十二年間の日記である。この膨大な日記のなかで、「食」に関する興味ある記載はつぎの三点である。①昭和一十五年八月(銀座食堂での感想)②昭和二十年八月(谷崎潤一郎との会食)③昭和三十二年(浅草アリゾナの昼食)①の昭和十五年、荷風は銀座へ出て銀座食堂で食事した。「南京米にじゃが芋をまぜたる飯を出す。此日街頭にはぜいたくは敵だと書きし立て札を出し、愛国婦人連辻々に立ちて通行人に触書をわたす噂あれば、其有様を見んと用事を兼ねて家を出しなり。尾張町四辻また三越店内にては何事もなし。丸の内三菱銀行に立ち寄りてかへる。今日の東京に果たして奢侈(しゃし)贅沢と称するに足るべきものありや。笑ふべきなり」欄外に朱筆があり、「贅沢ハ敵也ト云フ語ハ露西亜共産党政府創立ノ際用タル街頭宣伝語ノ直訳也ト云」この記載のあとに、八百善、伊予紋、築地茶料理喜多、竹川町花月、代地河岸深川亭、山谷鰻屋重箱、日本橋小松といった高級料理店の記載がある。もともと贅沢を知らない女たちが「ぜいたくは敵だ」という風潮を笑うのである。

      10
      テーマ:
    • ”『人間というもの』-について-②!!”-司馬遼太郎

      ”『人間というもの』-について-②!!”-司馬遼太郎 ”「播磨灘物語」 三より”  「人はおれを利口なやつとよんできたが、人間の利口はたかが知れたものだ、囚われになれば、どう仕様もない」官兵衛が心から自分をあざける気になったのは、入牢して十日ほど経ったときである。「智恵誇りの者がたどりつくのはたいていこういうところだ」智恵者は、道具でいえば刃物のようなものだ。手斧で板を削り、のみで穴をうがち、鋸で木を切る。道具でもって家も建ち、城も建つ。なるほど偉大なものだが、しかし、板にちっぽけな古釘が一本入っていたりするだけで刃は欠けて道具はだめになってしまう。(智恵など、たかが道具なのだ)播州でおれほどの智者はいないとひそかに思っていたことが、なんだかばかばかしくなってきた。”「国盗り物語 二」より” 人は群れて暮らしている。群れてもなお互いに暮らしてゆけるように、道徳ができ、法律ができた。庄九郎は思うに、人間ほど可憐な生きものはない。道徳に支配され、法律に支配され、それでもなお支配されたらぬのか神仏まで作ってひれ伏しつつ暮らしている。

      12
      テーマ:
  • 19Apr
    • 『文人悪食』●永井 荷風ー②ー嵐山 光三郎

      『文人悪食』ー嵐山 光三郎●永井 荷風ー②✪荷風の父永井久一郎は、内務省衛生局に勤めていた高級官僚で、のち日本郵船の上海支店長として赴任しており、家の気分はハイカラだった。十七歳の荷風は父について上海で生活したため、若くして海外生活を体験している。その十七歳のとき荷風は吉原で遊んいるから、このときよりすでに放蕩の芽が出はじめている。荷風の舌は若くして奢(おご)っていた。贅沢ゆえに、食べ物の味に関して書くことを一段低く見ている。そのためか、荷風全集をすべて読みきっても、料理や味についての著述が極めて少ない。パリへ行ったのは明治四十年、荷風二十七歳のときだが、そのときのことは『遊楽の仏京巴里(パリ)』のなかに記されている。「今余がフランス滞在中に見聞したる所のものを、少しく御紹介して見やう。/其一例を料理について見るに、其の営業時間を守る点に於いて尚官省の如き者があるかと思へば、又夜を徹して意とせざるものもある。前者の料理は日本のそれに比して、非常に価(あたい)が安いが、昼は十一時から午後二時位迄とし、晩は五時、遅くも八時位を限とし、夫れより以後になると、客もぱったり行かなければ、又料理もこしらへて無いのである。後者の料理屋になると贅沢なもので、従って料理の価も高く、お客は主として芝居帰りの人々で、夜中から始めて、飲むやら踊るやら、夜の明けるまで狂気になって騒ぐのである」このパリの経験から、荷風は、「然(しか)し日本の西洋料理といふものは、全く安いのに実用ばかりで、是(これ)ほど趣味のないものはない。/自分は東京の西洋料理屋は、東京の日本料理屋よりも、沢山歩いて知っているけれども、皆駄目である」(明治四十五年『「味」は調和』)としている。

      13
      テーマ:
    • ”『人間というもの』-について-①!!-司馬遼太郎”

      ”『人間というもの』-について!!” ”夏草の賦より”  「大将というものは、ほうびをあたえる者をいうのだ」と、元親は明快に定義した。それ以外に大将の機能はない、とさえいえる。よき大将は価値のよき判断者である。将士の働きを計量し、それがどれほどの恩賞にあたいするものかを判断し、それをあたえる。名将のばあい、そこに智恵と公平さが作用するから、配下の者は安心してはげむのである。配下が将に期待するのはそれしかない。”坂の上の雲-五” 「田中、軍人は階級があがるほどにモウロクしてくる理由を知っているか」田中は意外な話題に、存じません、と答えると、児玉はマッチをすることまで部下が介添えするからよ、おれは陸軍大将になっても自分の身のまわりのことは自分でやる、といった。なるほどそういえば、児玉は日常の起居のなかで、まるで一兵卒のようにちまちまと自分のことをやっているようであった。「そのかわり、貫禄は出来んがね」くすっと笑った。起居動作のことを配下に介添えさせていれば自然に王侯のような貫禄ができる、と児玉はいった。しかしそんな貫禄はでくのぼうの貫禄で、すくなくとも参謀には不必要だ、というのである。

      12
      テーマ:
    • 『文人悪食』 ⚫️永井荷風ー①ー嵐山 光三郎

      『文人悪食』ー秋津 建●永井 荷風ー①✪荷風が昭和十二年、「中央公論」に発表した「西瓜」という随筆の冒頭に、持てあます西瓜ひとつやひとり者という句が載っている。この句は昭和八年の日記にも出てくるが、荷風の友人が大きな西瓜を送ってくれたことへの感想で、荷風は、送られた西瓜に迷惑している。一人暮らしの身へ「家族団欒の象徴」とも思える西瓜を送られるつらさがある。「わたくしは子供のころ、西瓜や真桑瓜のたぐひを食(くら)ふことを堅く禁じられていたので、大方そのせいでもあるか、成人の後に至っても瓜の匂いを好まないため、漬物にしても白瓜は食べるが、胡瓜は口にしない」と、荷風は記している。それに続いて、「しかしわたくしが西瓜や真桑瓜を食ふことを禁じられていたのは、恐るべき伝染病のためばかりではない。わたくしの家では瓜類の中で、かの二種を下賎な食物として之を禁じていたのである。魚類では鯖、秋刀魚、鰯の如き青ざかな、菓子のたぐひでは殊に心太(ところてん)を嫌って子供には食べさせなかった」というのが荷風の家のしきたりであった。

      9
      テーマ:
  • 18Apr
    • 『三島由紀夫語録』●「インド通信」についてー秋津 建

      『三島由紀夫語録』ー秋津 建●「インド通信」について✪インドではすべてがあからさまだ。すべてが呈示され、すべてが人に、それに「直面する」ことを強いる。生も死も、そしてあの有名な貧困も。✪インドについての感動は、しばしば語られている。その一つは毎日新聞、昭和42年10月20日及び21日付けの夕刊紙面に載った、徳岡孝夫記者によるインタビューである。「ペナレスではとりわけ、インド人が自然をどう考えているかということがわかり、強烈な印象を受けました。それは荒々しい自然なんです。たとえばペナレスのバーニング・ガート(ガンジス河畔の火葬場)。死体を焼いているそばで魚をとっているし水浴もしている。これほど強い印象はなかった」別の一つは、マドモアゼル昭和43年1月号に載った、中根千枝さんとの対談「人間と文明の源流」である。「とにかく、インドは、欲しいというものがずっと悠久につながっています。ヒンズーには、問題の神様というのまであります。ちょっと名前は忘れましたが、問題の神様です。日本でも、もっと問題信仰というものがあればいいわけです。問題をいっぱいつくって、それを拝めばいいんだ。(笑)」「今のところ、あらゆる面で、インドは出遅れているように見える。しかし、これだけの国の、これだけの奮闘墨守は只事ではない。インドはふたたび、現代世界の急ぎ足のやみくもな高度の技術化の果てに、新しい精神的価値を与えるべく用意しているのかもしれない。ペナレスの水浴場で一心に祈りつつ水浴しているアメリカ青年の姿からも、私はそれを感じたのである」(「インド通信」)

      15
      テーマ:
    • 『言葉につける薬』●アラーの他に神はなし-②-呉 智英

      『言葉につける薬』-呉 智英●アラーの他に神はなし-② ✪アラブ文化の重要性は、現在ではよく認識されている。数学の数字は”アラビア数字”と言う。それだけではない、アルコール、アルカリ、アルジェブラ(代数)もアルケミー(錬金術)・・・・・・・。ヨーロッパの言葉に組み込まれたこれらの科学用語はすべてアラビア起源なのである。この科学用語の語頭が全部「アル al-」で始まっていることに気づかれただろうか。これは偶然ではない。ヨーロッパ語で「アル」が語頭にくる言葉は多くがアラビア語起源なのだ。「アル al-」はアラビア語の冠詞で、英語のtheにあたる接頭語だ。冠詞つきのままでヨーロッパ語になった。アルコールは「ザ・瞼を赤く染めるクスリ」、という意味である。アルカリは「ザ・焼いた灰」、アルジェブラは「ザ・再結合」という意味である。科学用語以外にも、スペインのアルハンブラ宮殿がそうだ。このアルハンブラは「ザ・赤い家」である。アラブ圏と言えばイスラム教、イスラム教と言えばアラーの神である。この「アラーAllah」にも「アル-Al-」がついている。これも同じ冠詞だから、英語で言えば「アラー」はThe God、すなわち「神」そのものを言う言葉である。「アラーの神」と我々は言い習わしているが、アラーは神の名前ではない。神そのものを言う言葉である。神と言えば世界に唯一のこの神しかいないのである。一つしかない神に、固有名詞など必要ないのである。

      5
      テーマ:
  • 17Apr
    • 『世に棲む日々ー二』⚫️砲火ー①ー司馬遼太郎

      『世に棲む日日-二』-司馬遼太郎●砲火-①✪大反動がきた。この過熱体質の藩が、一昨年から昨年にかけて「攘夷」という強烈な土俗的ナショナリズムをもって幕府の大屋台を揺さぶったその反動が、群がってやって来た。「長洲へ、十七隻からなる大艦隊が来襲してくる。すでにその艦隊が横浜を発した」という情報が入ったのは、七月二十二日であった。この急報をもたらしたのは、藩が、外国情勢探索のために長崎に出張させていた南亀五郎という男である。「井上聞多が警告していたことは、やはり本当だったのか」と、藩の上層部は驚きあわてた。英・仏・米・蘭という四カ国が十七隻の連合艦隊を組んでやって来られては、いかに長洲武士の槍が鋭かろうともとてもかなわない。藩では、この急報が入った翌二十三日、山口の政治堂で君前会議が開かれ、「何とか、回避できぬか」というのが、最初からの気分であったのには出席した井上聞多があきれた。井上はこういう事態が必至というのではるばるロンドンから駆け戻り、先月、この同じ山口政治堂で必死になって「攘夷取り止め」を説いた。が、あのとき重臣たちは、ーーーいまさら攘夷を取り止めては、藩内世論はどうなるか。どんな変事が起こるかもしれず、その沸騰はとうてい押さえきれない。という対内的事情をもって、「攘夷続行」の藩方針を再確認したばかりか、先月三十日、藩主の名をもって、ーーーいよいよ盛んに攘夷をやる。という馬鹿々々しい声明を出した。これを出さねば、攘夷々々で火の玉のようになっている藩内を押さえ切れなかったのである。

      8
      テーマ:
    • 『言葉につける薬』●アラーの他に神はなし-①-呉 智英

      『言葉につける薬』-呉 智英●アラーの他に神はなし-① ✪アラブの指導者たちには共通のものがある。強烈な自負心、矜持、指導者意識、といつたものが同じように感じられる。欧米諸国の指導者たちが自負心や指導者意識をもつのならわからないでもないが、アラブ圏なんて、石油が出なければただの砂漠の国じゃないか。先進国に近づいたとはいえ、内心にはまだまだ欧米コンプレツクスがある日本人はそう思う。なにせ”外人”といえば、それは白人を意味しているぐらいだから。しかし、アラブ世界の人たちが、一般庶民はともかく、指導者レベルでは強烈な自負心を抱いているのは、歴史的に見れば当然なのだ。我々は、先進国と言えば、英米仏などの西欧諸国と19世紀末からこれに加わったアメリカのことだと漠然と思っている。1500年も2000年も前の昔なら、支那やインドも先進国であった。しかし、ここ1000年くらいはヨーロッパが歴史の中心だ。こんな風に思っている。そして、欧米人もそう思っている。しかし、それは事実ではない。アラブは、中近東だけでなくアフリカ東部・北部にまで及ぶ広い範囲にわたって、長い間高度な文化・文明を築き上げていたのだ。ヨーロッパ人がそれを知ったのは十字軍遠征であった。未開名蛮族がキリスト教の整地にのさばっているので蹴散らそうと出かけていった人たちが見たのは、きわめて高度に発達した文化、とりわけ科学であった。

      16
      テーマ:
  • 16Apr
    • 『世に棲む日々ー二』⚫️暗殺剣ー⑨ー司馬遼太郎

      『世に棲む日日-二』-司馬遼太郎●暗殺剣-⑨✪井上はこのあと、刺客の追跡から身を避けて、高杉家を訪れている。この時の記憶を、晋作の妻のお雅は、終生覚えていた。以下、明治後の彼女のはなしである。「旦那さまの座敷牢と申すのは、四畳半と三畳の二間で、それに厠(かわや)と浴室がついております。高杉家には以前からあった部屋で、滞留客のための部屋でございましょう。かりそめにも牢でございますから、窓には外から板を張り、釘が打たれております。来客に接してはならぬということでございましたけれども、ある日、山口から井上様がお見えになりました。井上様は座敷牢に入り込み、まる一日語りあっておられました。旦那さま(晋作)は野山獄で使っておられた木の枕をそのまま自宅に持ち帰られ、この座敷牢でも使っておられましたが、井上様は、“俺もいっぺん牢に入ってみたい”と言ってこの枕でころりと横になられました。そのとき旦那さまは“俺も一度西洋に行ってみたいものだ”とおっしゃられたことを、今もありありと憶えております。・・・・」

      14
      テーマ:
    • 『本物のおとな論』●師弟の間は近すぎてはよくない-外山滋比古

      『本物のおとな論』-外山滋比古●師弟の間は近すぎてはよくない✪大学の成績がよく、教員採用試験でも好成績だったという先生ほど、こども、保護者の受けがよくない、という不思議なことがおこる。勘違いした保護者たちが、学業優秀だった先生はおことわり、というところまで現れるようになった。優秀な先生が不評になるのは個人の問題ではない。年齢である。こどもの年に近すぎるのがいけない。それを弁(わきま)えないために混乱する。つまり、先生が近すぎるのだ。昔の人は、「三尺下がって師の影を踏まず」と言ったものである。先生は敬わなくてはいけない。近づきすぎては礼を失する。三尺はなれて、影もふまないようにしなさい、というのである。つまり、師弟の関係は、近くても、三尺のへだたりが必要である。近づきすぎてはいけないと教えたものだ。三尺下がってというのは物理的距離であるが、心理的にもなれなれしくしてはいけない。離れて敬意を示せ、というのである。四十くらいになったとき、私は、この、”三尺”を年齢に換算したら、どれくらいになるか、考えたことがある。そして、教師と生徒との年齢は二十年くらい離れているのがよい。それより小さいと、良い関係になりにくい。かといって、離れすぎてもよろしくない。四十年くらいがいい。それを超すと、教師の力は及ばなくなる。--そんな仮説を立てたのである。つまり教師のいのちは、生徒の年齢より二十年上の時から力を持ちはじめ、四十年くらいになると、感化力を失うというのである。生徒が十歳なら、教師の適齢期は三十から五十歳くらいまでとなる。これは、人間が子どもをもうける年代とほぼ合致する。生徒のことを”教え子”というのは偶然ではない。ただ、教師は年少の生徒と触れていて、なかなか年を取りにくいから、年齢差四十年を超えても、若々しさを保つということは充分あり得る。老先生の教育力もバカにならない。---というのが、私説である。

      5
      テーマ:
    • 『世に棲む日々ー二』⚫️暗殺剣ー⑧ー司馬遼太郎

      『世に棲む日日-二』-司馬遼太郎●暗殺剣-⑧✪井上は、失望して旅館に下がった。旅館は、山口の竪小路にある万代屋利七という低い二階建の家である。その夜、更けてから藩主の使者が井上を訪ねて来た。家老の毛利登人であった。ーーーやはり攘夷。というのが、藩主の意思であった。井上聞多のいうことはよくわかった、しかし藩内の政情は世界の大勢と無関係に激昂しきっており、もしここで攘夷中止を打ち出せばいかなる事変が起こるとも限らぬ、やはり勝敗は別にせよ、下関で一戦するしか仕方がない、というのが、その理由であった。井上はかっとなり、「御前様たちは、御両殿さまを攘夷の焦土の中で殺し奉る気か」と言ったが、毛利登人は黙然として帰国したということは、藩内にことごとく洩れた。この両人が藩論をくつがえそうとしていることも、人びとに知られた。一人としてかれらを弁護する者がなく、「売国の奸物を斬る」として、暗殺団があちこちで組織され、攘夷の血祭りにすると喚いているということは、井上の耳にも入った。「売国」という言葉が、日本においてその政敵に対して投げられる慣用語として出来上がったのは、記録の上ではおそらくこの時が最初に違いない。井上は敗れた。次いでこの藩主と重臣たちが取った手段は、その後の日本において繰り返し行われるようになった事柄に極めて似ていた。藩主以下重臣たちは井上の言うことがよくわかっていながら、三十日には、「攘夷をあくまで断行する。決戦の覚悟肝要なるべき事」という大布告が発せられた。発した政治の当務者はこの大布告の内容をもはや信じてはいない。しかしこれを出さねば、井上帰国によって起こった藩内の疑惑と動揺と沸騰が静まらないのである。

      8
      テーマ:
  • 15Apr
    • 『風塵抄-⑧』●公と私-②-司馬遼太郎

      『風塵抄-⑧』-司馬遼太郎●公と私-②✪清末にも同じような現象がおこった。太平天国の乱という一大流民さわぎがおこって、この勢いの前に官軍がじつに弱かった。このさわぎに対して、官僚の”曽国藩”が故郷で私兵を募り、太平天国軍を破った、この義勇軍が”湘勇(しょうゆう)軍”である。また、”曽国藩”の弟子である”李鴻章”が、故郷で”淮勇軍”を編成し、協力して内乱を収めた。”曽国藩”はのちに”李鴻章”に”湘勇軍”をゆずった。これにより、”李鴻章”の私兵である”淮勇軍”が強大になり、武装も洋式化して清朝最大の陸軍に成長した。本質的には、清朝の国軍ではなく、”李鴻章”の私兵だったのである。彼の権力は、圧倒的にその上に成立していたのである。中国革命を成功させた紅軍も、もとはといえば、体操教師出身の”朱徳”と”毛沢東”の私軍から出発している。それが革命成立後、人民解放軍という、国軍らなった。ただし、各軍の軍長たちの意識は、自分の管轄の軍を”私”として見る感覚がつよい。だから、自分の息子や娘婿、甥などを要職につけた。軍を私物化していた。軍だけでなく、高級幹部のあいだにも、同様な古代以来の”私”がはびこっていた。それで、世界と同様に普遍化した「公」という価値基準を持った人々が”天安門広場”に集まったのである。人々は---高級幹部たちは、”公”であれかし、と願っている。これに対し、”私”を守ろうとする高級幹部もまた、”私益”を守るために懸命にならざるをえない。そういうわけで、”私益派”が国権を握り、あらたな”公”の感覚を共有する人々を”反乱分子”として締め上げたのが”天安門事件”である。              

      13
      テーマ:
    • 『三島由紀夫語録』●孤立のススメー秋津 建

      『三島由紀夫語録』ー秋津 建●孤立のススメ✪精神というと、またいつもの精神主義かと言われるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との信念で行くほかないと思っている。「功業」というのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。そしてその権力を背景として自分の考えたことを実現していくことが、「功業」の意味で、それはいずれは大勲位の勲章をもらって、うまくすると国葬にまでしてもらえる道です。しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にする道です。全く狂人の行ないとしか見えないようなことになるかもしれないわけです。✪「本稿は、昭和45年6月11日、戸塚蚊龍塾での三島先生の御講話を筆記したものです」と。「青雲第6号」の編集者注にあるように、尚史会の機関誌であり、手書き孔版刷り、(ガリ版刷り)袋とじの冊子である。従って書誌学的には、三島氏の著作物に当たるや否やということが、問題にされるところでもあろうが、こういうプライベートな場での発言が却って表記の不確かさと裏腹に思考の正確さを伝えているものであること、かかる場での発言をまとめて記したものは公開を前提としない手紙の他は少ないこと、等の理由により敢えて採用した。三島氏が引用している吉田松陰の言葉は、松陰が野山の獄中から同志に宛て送った書簡中の「江戸居の諸友久坂(玄瑞)・中谷(正亮)・高杉(晋作)なども皆僕と所見違うなり。其の分かれる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り。さりながら人々各々長ずる所あり、諸友を不可とするに非ず。尤も功業をなす積りの人は天下皆是れ。忠義をなす積りは唯だ吾が同志数人のみ。吾れ等功業に足らずして忠義に余りあり」という一節である。松陰への三島氏の傾斜は、「我は忠義をなす」という一点に絞られている。この思想は言葉を換えて表現すれば、三島氏自身「椿説弓張月」の中で用いた「故忠」ということであり、比喩的に表現すれば、「陛下が聞こし召されようと否とに不拘、手に持っていられない程熱い握り飯を、黙って差し出す」という行為、ということになる。

      14
      テーマ:
  • 14Apr
    • 『知的生活習慣』●論文というもの-⑦ 外山滋比古

      『知的生活習慣』-⑦ 外山滋比古●論文というもの✪イギリスの詩人ロバート・グレイヴズが、詩作では食っていけないのは、昔も今も変わりがない、身過ぎ世過ぎのために心に染まぬ仕事もしなければならないが、下手なことをすると肝心な詩が書けなくなってしまう、とのべているのを読んだことがある。グレイヴズはいろいろな職業を詩人に危険だとしてあげているが、よくやる、出版社や放送局づとめも感心しない。もっと悪いのは教師だとあって、教師はつらい思いをしなくてはならない。なぜ出版社や放送局がいけないかというと、妙な形で創造エネルギーを満足させられるからである。もし、そういう所へ勤めるのだったら、編集関係の仕事は避けて、郵便物の発送係かなんかにしてもらうといい、といった忠告がおもしろい。教師は知りもしないことを知ったかぶりをしないと毎日が過ぎていかない。これほど創造にとって有害なことはすくなくないのだから、詩人たらんとするものは教職に近づかぬことだ。そういうグレイヴズの意見を読んで、やがて思い当たることにぶつかった。このごろは外国語文学科の学生に卒業論文を課さない大学がふえてきたが、ひと昔、ふた昔前には、どこの英文科でも論文を書かないと大学を出られなかった。戦前は卒業論文と呼ばれていたものが、戦後いつの間にか”卒論”と手軽にいわれるようになったと思ったら、さきのように方々の大学で姿を消し始めた。学生に論文を書かせるのだから、指導しなくてはならない。外国文学では言葉を何とか読みこなすのにひどく時間と労力をとられるから、論文めいたものすら書く余力が残らないことがすくなくない。何年に一篇でも書けたら奇特というべきである。かっては論文などひとつもなくても大学者でありえたものだが、アメリカ流の業績主義(これをPublish or Perish「論文を発表せよ、しからずんば、亡びよ」というらしい)が渡来してからは、書いたものがないと、何かにつけて都合が悪い。泣く泣くではないにしても、渋々”論文”を作らなくてはならなくなったというのが正直なところである。とても胸を張って我に続けなどといえるわけがない。

      10
      テーマ:
    • 『世に棲む日々ー二』⚫️暗殺剣ー⑦ー司馬遼太郎

      『世に棲む日日-二』-司馬遼太郎●暗殺剣-⑦✪ついでながらこのときの藩主父子の態度について、明治後、長洲の古老たちが、「あのとき、ご両殿(藩主父子)が井上聞多の意見を容れて攘夷戦争をやめれば、おそらく毒殺されていなさったろう」と言っていたそうだが、藩内の政治情勢はまさにその通りであった。いったん攘夷で火がついてしまった以上、火こそ正義であり、この正義を阻む者は藩主といえども毒殺して物わかりのいい人物に替えたかもしれない。この二十五日の日は、井上ひとりが登庁した。伊藤俊輔は士分(お目見得以上)でないため遠慮させられた。が、藩主父子がいかにかれら帰朝者の言うことに関心を持ったかということは、翌二十六日、「俊輔も登ってよろしい」と、封建の世の慣例を破って足軽に毛のはえたような程度の伊藤俊輔が、井上と共に御前に進み出たことでもわかる。さらにその翌二十七日、「君前会議」が、開かれた。重臣はすべてこの座につらなり、説者である井上聞多は中央下座(伊藤は遠慮)に座らされた。この男は再び説きはじめ、本来雄弁家ではないこの男が、体中でしゃべった。この一年半前の急進攘夷家が、欧州文明の現況を説き、到底戦うべからざることを説き、ついに説き進んで、いつの間にかはるかな下座から膝がジリジリ進んで藩主の前まで出ていた。しかし、たれもが賛成しない。かといって反対もしない。やがて夕刻になり、何の結論も出ぬまま、会議が閉じられた。

      11
      テーマ:
    • 『本物のおとな論』●大人にはたしなみが必要-外山滋比古

      『本物のおとな論』-外山滋比古✪大人にはたしなみが必要✪敬語は言葉のたしなみである。こどもは、たしなみを知らないから、敬語を使わない。ハダカで走り廻っても愛敬である。女の子も化粧はしない。素顔が美しいのである。たしなみは社会の心得であるから、多くの人々と共生する場合、必要となる。敬語が発達している、というのは、言語的訓練が進んでいるということで、決して恥じるには及ばない。男は言葉を飾らない。むしろ、自分側のこと、ものを低めることに、中心がおかれる。自分の息子は、いくら優秀であっても、愚息である。ひどいのになると豚児(とんじ)と呼んだりするが、息子は我慢した。相手を讃えることに通じるというのである。いくら聡明な奥さんでも、夫は、賢妻などと言えば、正気を疑われかねない。愚妻と決まっていた。昔の人たちは、これを言葉の上のアヤとして、許した。気にかけるのは野暮だった。どんな立派な家に住んでいても、自分の家は拙宅であり、小宅であり、ときには茅屋(ぼうおく)になったりする。企業なども、これに準じて自分のところを低めるのが常識とされる。自分の社のことを、当社などといってはいけない。幣社であり、小社である。英語に sophisticate という言葉がある。ちょっとわかりにくい言葉である。辞書には二つの意味が直訳してある。①(単純でなくする)(良い意味で)(人、趣味などが)洗練されている。高度化する。②(悪い意味で)(人、態度など)世間慣れしている。悪ずれしている。とある。相反するニュアンスの二つの意味を持っているところが面白い。大人はソフィスティケイト人間である。世間ずれしている。純粋ではない。と同時に、洗練されていて、野暮、幼稚ではない。この二つの意味を兼ねるのが”大人”である。最近のテレビを見ていると、芸人の”言葉の乱れ”にはヒドイものがある。とても教養のある”大人”とは思えない。しかも、テレビ局のアナウンサーや番組制作者のレベル低下も著しい。いつも、バラエティ番組を見ていると、”バカがうつる”ので気を付けたいものだ。

      9
      テーマ:

月別

一覧を見る

Ameba人気のブログ