スエイシ君の人生修行
  • 30Mar
    • 『荷風歓楽』●浅草と「荷風のケチ」ー➄ー小門 勝二

      『荷風歓楽』ー小門 勝二●浅草と「荷風のケチ」ー➄✪お金持ちの荷風が、家へ帰れば、フランス乞食同様の服を着、欠けた茶碗で自炊に類する粗食を作って食べていたことは、世の女に対する演出だったのだ。こんな生活を一緒にさせられてはたまらないと、ぞっこんほれ込んで押しかけ女房にきてみても、この生活には同化できないと退散するに違いない。荷風はそれを十分に計算していたのだ。「ぼくがお金をためているって、ケチだとかなんとか言っているそうですがね、お金は大切にするものなんですよ。ぼくがお金をためていたからこそ、戦時中の10年間一枚の原稿も売れず、一文の印税収入もない時代、ぼくは他人に頭一つさげないで、ぼくの思い通りの生活ができました。いまは平和です。しかし平和というものは、平和だからといって、それにおぶさりぱなしじゃ安心できません。平和の声の裏には戦争があります。それは紙一重のものなんですよ。だからぼくは、ぼくの作品が売れるときは、売れるだけの貯金をしておきます。人間の一生には浮き沈みということがあります」荷風は金銭については実に割り切った考え方を持っていた。友人と一緒に食事したり飲んだりする際でも、いざ勘定となると自分の分だけ計算してもらって払っていた。だから荷風の場合は、おごったり、おごられたりするようなことは絶対なかった。これも一生を貫いた信条の一つである。

    • 『空海・無限を生きる』●高野山の開創-②-松長有慶(高野山大学・学長)

      『空海・無限を生きる』-松長有慶(高野山大学・学長)●高野山の開創-②✪たとえば、中国から帰るときに、明州(みんしゅう)の海岸から三鈷(さんこ)を投げると、高野山の現在の伽藍の前の松の枝に引っ掛かったという伝説があります。密教を広げるべき場所探しを三鈷に託したら、東シナ海を飛び越えて、高野山を指した、ということなのです。あるいは、「今昔物語」「平家物語」「源平盛衰記」などには、高野山の開創についてのさらにさまざまな伝説が載せられています。その一つである、「空海が高野山へ来る途中に、白黒の二匹の犬を連れた狩人がいた。その人に案内されて高野山へくると、松の上に中国で投げた三鈷がかかっていた。狩人は実は狩場明神(かりばみょうじん)という高野山の明神であった。そこで空海は狩場明神から土地をもらい、修禅の道場にした」という伝説は有名です。また真済(しんぜい)が書いたとされている「空海僧都伝(そうずでん)」には、丹生都比売(にうつひめ)からこの土地をもらったと書かれています。この高野山を空海が開創した当時、狩場明神や丹生都比売の神がここにいたかどうかは、学問的には疑問とする説もあります。しかし、こういった伝説からも、空海には高野山を開く必然性があったのだということを知ることができます。空海のあれほどの大活躍は、いっさいの世俗的なものをストップし、ただ大自然の中で瞑想するという行為の繰り返しに支えられていました。その瞑想の場所としての高野山の開創は、空海の人生において、非常に重要な意味をもっていたのです。

  • 29Mar
    • 『荷風歓楽』●浅草と「荷風のケチ」ー④ー小門 勝二

      『荷風歓楽』ー小門 勝二●浅草と「荷風のケチ」ー④✪荷風は晩年、素人の女を極度に怖れていた。女といちど関係を結ぶと、きっとその女は荷風の家へわがもの顔をして訪れてくるのが決まりだった。ところが、荷風の家は、一歩入れば、乞食小屋にひとしい状態だった。徹底した無物主義なので、ボロボロのフトンの万年床、座敷の真ん中へ七輪をおいてコーヒーを沸かすといった塩梅(あんばい)で、家こそ新しいが、屋内はまるでバタ屋の掘立て小屋の中と同じようなすさみ方であった。そういう荒れ果てた部屋の奥に幅一間、高さ一間の本棚があって、その最上段に鴎外全集がぎっしりと詰まっていて、つぎの段に露伴全集と荷風全集を並べていた。そのほかの本はすべてフランスの文学書ばかりであった。これらの本が部屋の中のバタヤ風景と奇妙にコントラストを描いていたのである。「ぼくの家へよく女が乗り込んできますぜ。たいがい玄関で追払っちまうんですよ。それでも帰らないのがいますから、そういう女たちには、そんなら泊まって行ってもいいですよ。泊まっていくとしたらいくら払ったらいいのかと言ってやるんですよ。こっちから女を買いに行くつもりをすりゃ、向こうから出張して来るんだから安上がりでしょう。こっちがこれは三千円やろうかと値踏みしているうちに、向こうがびっくりして帰って行っちまいますよ」#ボロボロの万年床 #鴎外全集 #三千円やろうか?

    • 『空海・無限を生きる』●高野山の開創-①-松長有慶(高野山大学・学長)

      『空海・無限を生きる』-松長有慶(高野山大学・学長)●高野山の開創-①✪世俗的なものを捨てて山にこもり、いっさいを自分のものにし、いっさいの恩を返していくという気持ちを表すために、空海は言葉だけではなく、高野山を開くという具体的な行動に移ります。弘仁七年(816)年の六月十九日付けで高野山をほしいと朝廷に提出した申請書があります。自分が山岳修行をしていた若い時分に、吉野から南へ一日、さらに高野(たかの)という幽邃(ゆうすい)な平原の土地があった、と場所を示しています。そしてその土地を自分の修禅の道場としてほしい、と願い出ているのです。禅をする、瞑想をする場所として高野山を選んだのでした。また、この上表文に付された主殿寮の次官にあたる主殿助の布施海(ふせのあま)という人に対する手紙の中にも、同じようなことが書かれています。この手紙の主旨は、「自分が中国に留学して日本に帰るとき、大嵐に遭った。そこで何とか平らかに自分を日本へ帰り着かせてほしいと祈願し、無事に日本に帰った場合には、修禅の道場を建てて観法に専心いたしますという誓いをたてた。帰朝してから忙しくて十二年もたってしまったけれど、その神明に対する誓いを実現させるためにも、高野山に修禅の道場を開きたい」ということです。ここから、空海が、若いときに吉野を中心として近畿の山を歩き回っているうちに、高野山を見つけていたことがわかると同時に、中国から帰るときに立てた誓いを果たすために、高野山を開こうとしたことがわかります。

  • 28Mar
    • 『荷風歓楽』●浅草と「荷風のケチ」ー③ー小門 勝二

      『荷風歓楽』ー小門 勝二●浅草と「荷風のケチ」ー③✪「ところが女っていうのは勘が悪くって、何にもしないのにこんなにくれるのだから、もし何とかなったらもっと貰えるのじゃないかと、すぐ欲を出して積極的になってくるものですよ。あわよくば早く子どもでも作ってデンと収まり返ってやろうなどと妙な野心をかき立てます。こっちはそれが始めから分かっていますから、一回、一回で、十分話がつくように行動しています。これくらい慎重に構えないと、生涯を独身で、勝手気ままには渡れるものじゃありませんよ」こういう仕方で荷風は浅草の踊り子たちを愛し、また彼女たちからも敬愛された。怪しい稼業の足を洗わせて踊り子に転業させた娘もあるくらいだ。彼女が夜の街からスポットライトを浴びて舞台に立ったさまを見守って、「ぼくが周旋したら、みんなが、あれは荷風のいい人だなんていってますが、ぼくは彼女と体の関係はありません。いくらぼくが物好きでも自分の女を裸にして公衆の面前にさらすなんていうことはできゃしません」ともいった。#いくらぼくが物好きでも #踊り子・周旋 #欲を出して積極的に

    • 『太郎に訊け』●お花見についてー岡本太郎

      『太郎に訊け』ー岡本太郎●お花見について✪ぼくは桜の花が美しいといって、観賞する気持ちはぜんぜんないね。また、静かに観賞することが正しいとも思わないよ。ぼくが息をはずませるのは、花が開くという神秘感の驚き、それがぼく自身の生命に共振を与えるんだ。原始時代の人間も、この突発的な自然の身震いに、ともに躍り動く自分の生命を感じたんだろう。だから、花を眺めたり、愛でるということに疑問を感じるのが、本筋じゃないか。ーーーその生をいつの間にか人間は感じなくなって、花を眺めて楽しむという趣味的感覚に走るようになってしまった?そうね。これは進歩であり洗練でもあるけれど、逆に堕落でもあるな。ーーーでも、日本には"お花見" という伝統がありますが。それは現代の感覚と違うんだ。花見というのは、本来、人間が"自然の循環、いのちの節目にとけこむ祭" なんだよ。もともとは宗教的なものなんだ。その伝統がかすかに残って、江戸時代、市民は花が咲くと、女房を質に入れてもと、上野や向島へくり出して浮かれた。当時は封建制度という厳しい階級制社会下にあったが、お花見の時だけはそのワクを忘れる無礼講の伝統だったんだ。花の下では上下貧富の仕切りははずされた。貧しい人は日頃のうっぷんを陽気にぶちまける。そして富貴な者は、庶民達とおなじ場所、おなじ雰囲気のなかで遊ぶことで、普段の空しさが満たされた。すべての人が抑えられていた人間性を、花の下の無礼講で再獲得する。ここに、日頃分断されていた世界か、ひとつに溶け合うのだ。お花見というのは、桜でも、酒でも、ご馳走でもない。遊ぶことでもない。このお祭りで、おのおのが自己発見し、人間として充実し、膨らむのが本筋なんだよ。

    • 『荷風歓楽』●浅草と「荷風のケチ」ー①ー小門 勝二

      『荷風歓楽』ー小門 勝二●浅草と「荷風のケチ」ー①✪荷風は雨が降っても、雪が吹ぶいても、正午になると、きまって浅草松屋前のレストラン・アリゾナにいた。三月一日、すなわち死の二ヶ月前まで、判で押したように続いた。店のドアをあけて、すぐ右側のテーブルの一番隅のところが荷風の席になっていた。もしそこに客が座っていると、他のテーブルはがらあきでも、「今日はいっぱい客がいるから帰りますよ」と、のこのこ帰られてしまうのだ。自分が自分で定めた席に着くと、まずトマト一個に食卓塩をたっぷりかけて食べながらビールを飲む。荷風は昔から生水は一切飲んだことはない。水がわりにビールを注文するのだった。それから肉の柔らかく煮た料理を一皿とり、それで一日一食主義の食事は終わる。おなかの調子が良いときにはエビフライを追加することもあった。アリゾナを出て、六区にフランス映画でもかかっていれば、それを見るのが常だった。映画を見た帰りには必ず「梅園」に立ち寄って、お汁粉を二膳食べるのも習わしであった。荷風は甘いものが好きだった。だからコーヒーも砂糖を山のように入れる。コーヒーの表面から砂糖の山が見えるくらいに、たらふく盛り込まないと気に入らなかった。胃かいようになっていることも自分ではご存じなく、毎朝のコーヒーに砂糖の山を入れ続けていたのに違いないのである。亡くなった時も、愛用の湯呑み茶碗の底に、コーヒーで溶けた砂糖が、ごってりと層をなしてこびりついていた。世の人たちは、荷風が死期を超越して、なぜ浅草に執着するか、その荷風の執念の原因を不思議に思うであろうが、これは理屈では解決しない問題なのである。荷風が浅草を愛したのは、日ごと夜ごと、多種多様の人間の雑踏で、荷風個人というものの存在理由が消滅してしまうからであった。人間の孤独は、そこにはじめて徹底した姿を具現するのだ。それが荷風の生き方に完全にマッチしたのである。#浅草 #砂糖 #アリゾナ

  • 27Mar
    • 『荷風歓楽』●浅草と「荷風のケチ」ー②ー小門 勝二

      『荷風歓楽』ー小門 勝二●浅草と「荷風のケチ」ー②✪荷風は自分の姿を、あれが荷風だと認められたいと願望すると同時に、誰であるかわからない人間として無視されたいとも願ったのである。この矛盾、身勝手の二つながらを強行しようとしたところに、荷風の生き方の特徴があるのだ。荷風が浅草の風物のなかでも取り分け愛したのはストリップ劇場の踊り子だったが、その踊り子への接近の仕方にも、こうした荷風独特の矛盾がうかがわれるのである。「わたくしが浅草の六区の劇場へ通い出すと、どの女優、どの踊り子と特別の関係があることの様に吹聴されますが、ああいう女の子は、とかく亭主持ちやヒモがついていて、うっかり手を出すと後の始末が大変なんですよ。そんなことはこっちは始めから分かっていますから、せいぜいお汁粉ぐらいのお付き合いだけはします。ぼくも外国で愛人を作った経験はありますが、アメリカからフランスへぼくの後を追っかけてくるようなことはありませんでした。ぼくの崇拝していた森鴎外博士などは、文学の上ではご立派でしたが、こと女にかけては弟子のぼくのほうが上手でしたね。森先生はドイツ留学中にできた女が日本まで追いかけて来ましたぜ。そこへ行くとぼくのアメリカでの女イデスなんか、そういうことは全然しません。これは女の情熱の深さとか浅さとかいうことじゃないのです。ーーーつまり手の切り方のうまさ、へたさにあるんですよ。ーーー亭主持ちの女や色男を抱えた女なんかにこっちが熱をあげて小遣いをせびられるなんていうのは、他人に聞かれて名折れになります。だからぼくは浅草の踊り子なんか、今夜はどうーーーなんて誘ったことなんか一ぺんもないですよ。それほどこっちが用心しているのに、向こうから仕向けてくるのもいました。。そんなときは、こっちはお小遣いをはずんでやるんだ。千円札一枚ぐらいでいいと思うところを五千円札一枚くれてやりますよ。これは惚れられた男としてのお礼と手切れとをまぜこぜにして奮発したんですよ。」#手切れ金・まぜこぜ・惚れられた男 #森鴎外はへた #踊り子や女優

  • 26Mar
    • 『司馬遼太郎が考えたこと』●山賊料理ー①

      『司馬遼太郎が考えたこと』ー司馬遼太郎●山賊料理ー①✪私は山国で育ったから、海がなじめない。学生のころ、香川県多度津港に近い仁尾という漁村でひと夏くらして、はじめて泳ぎというものをおぼえた。四肢を動かせば不思議にもからだが前進する程度の技術であったが、自分も人並みになったものだという喜びは、いまも濃い。ただ生まれつきの魚ぎらいだけはなおらなかった。いまだに私は、あの魚の死臭を押して肉に歯をたてている人をみると、同じ人類としてのつきあいをやめてしまいたいと思うのである。しかも牛やブタ肉とは異なり、皿の上の魚の死ガイは、生前そのもののカタチをとどめている。その死ガイをハシで毀損し、皮を露出させてゆく作業を、もし私の隣席の女性がやっているとしたら、彼女が美人であればあるほど、ぶきみな夜叉にみえてくる。こういうノイローゼ体質だから、海より山が好きだとなると、もうぞっこんなもので、木漏れ日がやっと照る暗い山肌の土に頬をつけて、山の匂いを嗅ぐまでに淫する。嗅ぐだけでおさまらず、土から萌えだした若草などを生で噛む。少年のころ、私は何度も山賊になることを想像した。さてその山賊というのは、何を喰っていたかということである。むろん、米塩は里山から略奪してきただろうが、山賊の副食物は、ワラビ、自然薯、ゼンマイなど、季節季節の山のものであったにちがいない。彼らは人間を剥ぐ技術はもっていても、猟師のように鳥獣を捕獲する技術はもっていなかったろうから、ウサギ、イノシシなどの蛋白栄養に恵まれることはまず稀であったろうと思われる。以上のまことに愚にもつかぬ話をしながら、伊吹山中の寺で山賊料理を食べたのは、去年の春もなかばの頃であった。

    • 『文藝読本ー永井荷風』●荷風の青春ー⑨ー中村 光夫

      『文藝読本ー永井荷風』ー中村 光夫●荷風の青春ー⑨✪フランスの滞在がたとえ短くとも荷風の夢を充分に満たしたことについては、今さら云うまでもありません。「西洋日誌抄」と「ふらんす物語」とがこの証人です。「現実に見たフランスは見ざるときのフランスよりも更に美しく更に優しかった」とそのなかで彼は云います。しかし現実はどんなに「美しく」また「優しく」とも畢竟(ひつきょう)夢ではありません。人はそのなかで醒(さ)めて生きなければなりません。したがって僕等が人生に希(ねが)う夢は、それが実現されるとき、或る意味では破れてしまうので、夢が現実に所有されることによってもはや夢でなくなったとき、それを裏付ける憧れが強ければ強かっただけ、僕等の心は拠り所を失った空虚に苦しみます。荷風の半生を貫いた無償の憧れの強さは、それがフランスの土を踏んで満たした瞬間に、偽りでない歓喜とともにこの空虚を心の片隅に感じさせたに違いないので、これは四年半にわたるアメリカ滞在が彼を外国の旅に馴れた大人にしてしまったという事実とも順応するものです。「ふらんす物語」の「雲」はこの集中で作者が「小説」と最初に頭註した唯一の作品であり、荷風の全集を通じて見てもすぐれた短篇ですが、その主人公である外交官小山貞吉は---芸術的野心を差し引いた---荷風と大した誤りはないと思われます。外国生活の刺激のなかに青春をすりへらし、人生に退屈の連続以外を見ず、自分の職業はもちろん、恋にも都会のさまざまの快楽にも一夜の無聊(むりょう)の慰めしか見出せなくなっている、聰明で弱気で、そして体裁屋なこのエゴイストは、このような自分の「新しさ」に酔う甘さを持つと同時に、自分の「堕落」をたえず内面に感ずる或る古風な良心の針を持っている点で、漱石の「代助」をはじめ多くの作家の描いた明治40年代のダンデイに共通の特色を持つとともに、作者自身の面影も濃く映しているようです。

  • 25Mar
    • 『司馬遼太郎が考えたこと』●大阪バカー②ー司馬遼太郎

      『司馬遼太郎が考えたこと』ー司馬遼太郎●大阪バカー②✪江戸の最盛期では、百万の市民のなかで五十万が武士であったといわれている。そのころ大坂では、六、七十万の人口のなかで武士といえば諸藩の特産の商いをする蔵役人をのぞけば、東西両町奉行所の与力同心がざっと二百人程度であった。江戸は二人に一人が二本差しである。自然、武士のもっている儒教的節度やきびしい身分意識が、モロに町人たちの血肉のなかに入ってしまった。江戸時代の大坂商人が「デッチは江戸者にかぎる」と高言していたのは、江戸っ子のもつ封建的事大主義や自分の分際をまもる節度が、最下級の雇人にはうってつけだと思っていたからであろう。幕吏が二百人しかいなかった大坂ではまるで封建時代がなかったといっていい。かれらは身分意識がうすい。分際をまもろうとはしない。他人をおそれるというところがない。「文句があったら稼ぎで来い」という自尊心は江戸三百年を通じて野放図にそだち、いまなおそだちつづけている。封建的節度がないために、江戸時代から江戸者に嫌われ、今日でも汽車のなかや喫茶店の店内などでその封建的節度のなさが、他国人の迷惑になっている。三百年の伝統とはいえ、その社会的感覚の奇妙さは一種のバカというほかない。私も代々バカの家にうまれバカの土地でそだち、生涯この土地で住みつづけようと思っている。たまたま時代小説を書いているのだが、当分のあいだは自分が飽いてしまうまで、大阪者の野放図な合理主義精神が、封建のジャングルのなかでどう反応するかを、面白おかしく書いてゆきたいと思っている。

    • 『文藝読本ー永井荷風』●荷風の青春ー⑧ー中村  光夫

      『文藝読本ー永井荷風』ー中村 光夫●荷風の青春ー⑧✪もともと彼の外遊の目的地はフランスであり、彼はアメリカにはただ「家庭の事情已むを得ざるため」に四年間足を止めたに過ぎませんでした。彼にとってアメリカは単にフランスに渡るための踏み台としてしか意味を持たなかったので、アメリカをアメリカ足らしめる「実用主義」や「功利思想」にはことさら反発し、ヨーロッパの香りを、フランスの破片をニュヨークの生活の中に求めるのが、滞米中の彼の唯一の生甲斐でした。しかし、まさにそれゆえアメリカは彼の青春の生きた舞台であったと考えられるので、或る環境に反抗しながら、恐らく実現され得ない夢に強く憧れるときほど、青年が青年らしく生きることはないものです。荷風の外遊の記録では「西遊日誌抄」が作者の心の搏動をじかに伝える点では、一番優れていますが、そのなかのアメリカ滞在時代の終わりの部分は、この緊迫した青春の身悶えを美しく表しています。故国の父、その代表する明治期の「家」の圧迫、妓女イディオスとの恋、満たされぬ芸術の野心、「南欧の空見たしと思えばこそ此の世に未練はあるなかれ」というフランスへの憧憬、これら彼の生活が育て、彼の生活を蝕む相矛盾する欲望は時として彼を自殺に誘います。戯曲「異境の恋」は恐らく空想や思いつきで書かれたものではなく、情死を遂げる主人公には作者の影がかなり濃く差していると見るべきでしょう。そこに思いがけない父親の計らいによる渡仏は、ちょうど機械神(デウス・エクス・マキナ)のように四年間の夢のアメリカ生活の鬱屈を一挙に解決してしまったのでこの長年の夢の実現は、彼に青春の心の刈り入れの時期が来たことを告げるものでした。#アメリカの鬱屈 #南欧の空見たし #機械神(デウス・エクス・マキナ)

  • 24Mar
    • 『司馬遼太郎が考えたこと』●大阪バカー①ー司馬遼太郎

      『司馬遼太郎が考えたこと』ー司馬遼太郎●大阪バカー①✪一つのテーブルに、四つのシートがある喫茶店でのことだ。恋人なり友人同士が、その二つに座を占めたところで、空いている他の二つのイスにはたれもすわらない。ちょうど領海権のように、かれらに一種の準占有権がみとめられているようである。もっとも、国法や自治体の条例で保護されている権利ではないから、ずけりと座り込む人物があらわれた場合には、何人も退去を要求することはできない。ところが、大阪では、おうおう、平然とそのシートに座り込むオッサンがあらわれる。コーヒーを注文する。ひとりでは退屈だから、なんとなくラジオでもきくような気安さで、むかいの恋人同士の会話に身を入れて聞いていたりする。やりきれない無神経さである。旅行の機会の多い人なら、なんどか実見されたに相違ない。車内の空気をひとりじめにしている大阪の観光団の喧噪さだ。夏ならば、その何割かは乗車後数分間でズボンをぬぎすててしまっている。酒を飲む。サカズキをほうぼうに回して、酒盛りをする。しまいには、卑猥な歌をうたったりする。三味線をもちこんでいる一団さえ私はみた。べつに国法に触れるわけでもないから構わないようなものだが、車内には他の乗客もいる。かれらの神経や感情はまるで無視されているのである。「金はろうたアるねん、歌おうと飲もうとおれの勝手やないか」というのであろう。車内の空気という共有物までかれらが買い取ったわけではないはずだが、タダの共有物ならスワリドクという仕儀になっているのである。さきの喫茶店の例と、精神においてはかわらない。ちかごろ東京へいったときに、高田馬場の小さなソバ屋で、モリをひとつ注文した。ひるどきだから、店の土間は雑多な職業のひとでたてこんでいる。そのとき中年の婦人が入ってきて、店内の自分のすわるべき場所を物色している。上方ならさしずめ大原女といったような人相風体の婦人で、上州あたりから毎日土地の物産をかついでは東京へやってくる職業のひとだろう。私は六尺イスにすわっている。ちょうど私の横が一人分ばかり空いていたので、「どうぞ」と声をかけた。すると、当の女性はあわてて手をふって、「めっそうもない。旦那様のそばなどに」といった。私はあわててうつむき、照れくさいあまり懸命にソバをかきこんだのだが、じつをいえば白昼にばけものを見たほどにおどろいた。私が「旦那」といわれたからではない。洋服をきてネクタイをしめている人物は身分が上だとみて、いまだにそのそばに同席さえしない人物が、いまなお関東地方に生き残っているということについてである。

    • 『文藝読本ー永井荷風』荷風の青春ー⑦ー中村  光夫

      『文藝読本ー永井荷風』ー中村 光夫●荷風の青春ー⑦✪ニュヨークの生活の激しさに堪えてきた荷風にとってパリやリョンは、ちょうど東京の人間が京都か奈良へ行ったときのような、古めかしいゆとりを感じさせます。「都会の夜明けに鳥の歌う声を聞くとは、紐育から来たものの耳には実に何たる不思議であろう。」と彼はリョンに明かした第一夜の印象を誌します。以上の引用だけでも彼の感受性の動きが、当時の日本人たちとどれほど隔っていたか明らかです。機械文明の点ではむしろフランスなどより進歩していたアメリカに四年滞在し、すっかりそれに馴れてしまった彼は、そうした機械文明ではつくり出せぬもの、当時の多くの日本人が「欧米の文明」と見たもの以外に、フランスの、ひいてはヨーロッパ文化のもっとも際立った特質を感じそれに強く惹かれたのです。彼が我国の「文明開化」の正体を、当時としてはもっとも正確に見抜いたのはこのためです。しかし荷風はなにも日本の文明を批評するためにフランスに渡ったのではなく、そこで解決すべき彼自身の問題をいろいろ持っていました。その中心をなすものは恐らく、青春の夢の実現による、青春の終焉です。フランスは彼の道楽の果て、反抗の最後の拠り場であったので、その滞在が「僅かに11箇月半」であったのは、彼の青春の決算期が思いがけなく早く訪れたということです。#文明 #青春 #フランス

  • 23Mar
    • 「雑学の本」●弘法大師の誤った文字-日本社

          「雑学の本」-日本社●弘法大師の誤った文字✪「弘法も筆のあやまり」とは、どんな名人上手にもまちがいはある、という意味。弘法大師と言えば平安時代の'' 空海 '' のこと。真言宗の開祖として知られていますが、書の名人としても有名で、嵯峨天皇、橘逸勢(はやなり)とともに「三筆」と呼ばれました。この弘法大師が字を書き損じた話は「今昔物語」におさめられています。京の都の大内裏(だいだいり)に応天門(おうてんもん)という門があります。弘法大師は勅命を受けてこの門にかかげる額を書くことになりました。ところが書き終えて額を門にかかげてみると、「応」の字に点を打つのを忘れていたのです。そこで、弘法大師はどうしたかと言うと、「応天門の額打ちつけて後これを見るに、初めの字の点、すでに落ち失せたり。驚きて筆を投げて点を付けつ。もろもろの人これを見て、手を打ちてこれを感ず」つまり、筆を投げて点を打ったというのですから、さすがにたいしたものです。

    • 『司馬遼太郎が考えたこと』⚫️儒教についてー③

      『司馬遼太郎が考えたこと』ー司馬遼太郎●儒教についてー③✪しかし「論語」は政治哲学の匂いが濃い。したがって「君子はカクアルべし」と孔子がいう場合、ズバリといえば「役人はカクアルべし」ということなのだ。美称でいえば牧民者、実質的には中国古代のサラリーマンの倫理綱領であり、処世訓なのだ。だからこそ「君子、アヤウキに近よらず」などと、まるで卑俗な明哲保身の術を教えているのである。ところで、私の本には「サラリーマン論語」という副題がふられている。なにも、孔子さまの向こうを張って、昭和の論語を編むというオソルベキ考えはサラサラない。なにぶん、孔子さまとは、天の星と地のミミズほどの違いもある薄汚れた安サラリーマンなのである。気よう気ままに書いた落書きに過ぎない。あぶれサラリーマンらしい不逞さも、当然混じっていよう。その点からいえば、一種の"悪書"であるかもしれない。ただ幸いにも、私は新聞記者という職業についている。この職業は、一種の内地留学ともいうべき不思議な体験のできる職業なのだ。十年のあいだに、私は、警察、裁判所、府庁、大学などと、五六ヵ所の受持ちを遍歴した。たとえば、府庁を受持った二年間というものは、ミイラとりがミイラになるというか、その職場の動きを観察するうち、その職場の特有の生活感情に染まって自分とは異質な職業人と哀歓を共にするようになった。この本の活字の裏には、かって私と日常を共にしてきた下級警察官や大学事務員、地方公務員などの生活感情が、私なりに混和されて流れていると思っている。数種の職業を心理的に体験したことがあるいは著者がいえる唯一の手前みそかもしれない。

  • 22Mar
    • 『文藝読本ー永井荷風』●荷風の青春ー➅ー中村 光夫

      『文藝読本ー永井荷風』ー中村 光夫●荷風の青春ー➅✪ここで僕等は荷風が日本を離れたのは明治36年であり、フランスに行ったのは明治40年であったのに注意する必要があります。この頃の日本からじかにヨーロッパへ行った者は、まずその機械文明の落差におどろかされた筈です。当時の東京にはやっと市街電車が普及しはじめた頃であったのに、パリにはもう地下鉄があり泥濘(でいねい)を歩くに足駄(あしだ)を要するような道は、どんな裏街にもありませんでした。したがってこうした「文明」の外観に眩惑されずに、ヨーロッパ文化の真の特色である伝統性と連続性とを理解することは、まさしくこの「文明」の影響で、自己の伝統を見失って大きな文化の断層に足を踏み入れていた当時の日本人には、かなりむずかしいことであった筈なので、明治時代の知識人はよほど優れた人にもこの「文明開化」的な眼鏡でヨーロッパを見る弊を免れていないのですが、荷風がこの点で単に思想の上だけでなく、感情の動きの末端まで、この時代の気風に鮮やかな例外をなしているのは、彼のヨーロッパが東洋から見たヨーロッパでなく、アメリカから見たヨーロッパであったからと思われます。はじめ「あめりか物語」に収められ、後に「ふらんす物語」の巻頭に移された「船と車」は、荷風の多年憧れたフランスへの第一歩の印象記として興味深いものですが、ここで彼は日本人というよりむしろアメリカ人の感受性で、フランスに接しています。「(ル・アーヴルの停車場の)待合室を通り過ぎる時、草色に塗ってある単純な清洒(せいしゃ)な壁の色彩が金銀で塗り立てる事の好きなアメリカの趣味とは非常な相違であると著しく自分の眼を牽(ひ)いた。同時に、面白い薄色で、瑞西(スイス)や南欧各地の風景を描いた鉄道会社の広告が、此れまた自分の足を引き止める---自分も遂にヨーロッパ大陸に足を踏み入れたのだ。と云う感情が一際深くなったからである。」彼がヨーロッパというとき、これと心のなかで対照されるのは、いつもアメリカです。

    • 『司馬遼太郎が考えたこと』⚫️儒教についてー②

      『司馬遼太郎が考えたこと』ー司馬遼太郎●儒教についてー②✪私は、この本で日本のサラリーマンの原型をサムライにもとめた。そのサムライも発生から数百年間、サラリーマンではなかった。戦闘技術者という、レッキとした、末川さんのいう職業人であったのだ。だから当然、イクサの駆け引きや、刀槍の使い方、戦陣での心得などの 面で、彼らの行動や思考ヒントになる金言が山とあった。ところが、徳川幕府の平和政策は、いちように彼らをサラリーマン化してしまったのである。もはや、刀槍をふりまわす殺人家としての金言は要らない。が、彼らのブッソウなキバは抜いてしまったものの、平凡な俸禄生活者としての公務員に甘んじさせるために何らかの"サラリーマン哲学"が要った。これが儒教というやつである。その前の時代までは、せいぜい僧侶の知的玩具にしか過ぎなかったこの実用哲学が、ホコリを払ってサラリーマン教範として武士という公務員の上に君臨した。儒教の中でも、ことに朱子の理論体系が幕府の気に入り、多少の革命思想をふくむ陽明学などは異学として禁じたほどだった。いずれにせよ、儒教のバイブル「論語」が、江戸サラリーマンの公私万般におよんだ金科玉条であったわけである。「論語」のなかでは「君子」ということばが、さんざん使われている。「君子人カ、君子人ナリ」といったように、孔子の描いた理想的哲人を現す語であったようである。

  • 21Mar
    • 『文藝読本ー永井荷風』●荷風の青春ー➄ー中村 光夫

      『文藝読本ー永井荷風』ー中村 光夫●荷風の青春ー➄✪彼はアメリカの生活から、個人の自由と独立を基調とする市民精神の本質を体得し、フランスではさらにそれに磨きをかけるとともに、一国の芸術とその自然との間に存する深い調和、言葉をかえて云えば生きた伝統の力について、新しい眼を開かれたのです。「僕の見た処、西洋の社会と云う者は何処から何処まで悉く近代的ではない。近代的がどんな事をしても冒す事の出来ない部分が如何なるものにもチャンと残っている。・・・・・巴里は新しく地下鉄道や空中飛行船を作ったばかりでない。Sacre Coeur のような大寺院も造り上げようとしている。・・・・紐育の市中でも竣工無期限と云う寺院(カテドラル)の足場がコロンビア大学の傍らに立っている位だ。」(新帰朝者日記)こういう観察は、西洋風という言葉が近代的というのと同義語に使われ、思考の移入がちょうど新式の機械を輸入すると同じ手付けで行われていた当時の風潮のなかでは、少なくも異質なもので、彼が帰朝後に江戸の風物に対して示した異常な愛着は、こうした思想的根拠にもとづいています。いわば彼自身の体得した「西洋」に見習って、「江戸趣味」を鼓吹したところに、旧時代の教養のみしか持たなかった江戸っ子の生き残りに対する荷風の新しさがあり、それが「旧物破壊」を「文明開化」と同義語に心得た官僚政府への反抗の身振りに通じたところに、彼の青春の論理が貫かれたのです。「西洋という処は非常に昔臭い国だ。歴史臭い国だ。」と彼はやはり「新帰朝者日記」で云いますが、彼がフランスで発見したのは何よりこの「歴史臭さ」であったのです。こういう風に荷風がヨーロッパ文化の「昔臭い」匂いを特に強く感じたのは、彼がアメリカに4年滞在し、その上でフランスの土を踏んだことと大きな関係があると思われます。

    • 『司馬遼太郎が考えたこと』⚫️儒教についてー①

      『司馬遼太郎が考えたこと』ー司馬遼太郎●儒教についてー①✪大工さんには大工さんの金言がある。その職業技術の血統が、何百年をかけて生んだ経験と叡智の珠玉なのだ。植木職でも陶工の世界でも同じことがいえよう。さてサラリーマンの場合である。いったい、そんなものがあるだろうか。私は考えこんでしまった。どうやら、この職業の伝統にはそうしたものはなさそうなのである。ないということは、この職業そのものに関係がありそうな気がする。この本の中にもあるように、末川博博士は「一体、月給取りを職業と思っているのだろうか」という意味のことをいっておられる。なるほど、学者、技術家、芸術家などの職業感覚からみれば、まことにおかしな職業の座にサラリーマンというものは座っている。このでんでゆけば、あなたの職業は?ーーはア、会計課員ですと答えるのが正しい。ボウバクと「月給取りであります」なんぞは、論理として多少明晰を欠くウラミがある。じつにサラリーマンたるや、きょうは営業課員であっても、あすは庶務課員もしくは厚生寮カントク員と名乗らねばならぬかもしれぬ宿命をもっている。「職業」がへんてんとして変わるのだ。二十四歳で庶務課員となり三十年ひとすじに同業を貫徹いたしましたなぞは、この社会では尊敬を受けないのである。自然、他の職業ほどには、職業そのものに関する金言名句が少ないのも無理はない。あるとすれば、職業そのものよりも、サラリーマンという悲しくもまた楽しい人生者としての処世の警句ぐらいのものであろう。