スエイシ君の人生修行
  • 18May
    • 『中国古典・一日一話』●已むべからずに於いてー守屋洋の画像

      『中国古典・一日一話』●已むべからずに於いてー守屋洋

      『中国古典・一日一話』ー守屋洋●已(や)むべからざるに於いて已(や)むる者は、已(や)まざる所なし (明と暗の分かれ道)✪たとえば、ラグビーのゲームを考えてみていただきたい。前・後半合わせてたかだか80分のゲームの中にも、ここが正念場だという局面が必ずある。そのチームが強いか弱いかは、この正念場のしのぎ方を見ればよくわかる。いくら凡ミスを重ねてきていても、強いチームは正念場になると目の色が変わり、凄まじいばかりの集中力を発揮する。同じことは人生にも言えるのではないか。誰しも一生のうち何度かは、このラグビーのゲームのような正念場を迎えるはずだ。世の中には、そこで踏ん張れる人間と、踏ん張れずに挫折してしまう人間とがいる。そこで孟子はこういうのである。やめてはいけない所でやめてしまう人間というのは、何事においても中途半端で終わる、と。やめてはいけないところとは、つまりは人生の正念場。そのひと山を乗り越えれば、大きく展望が開け、さらには人間の器をひとまわり大きくできる。しかし、踏ん張れずに挫折すれば、一生その挫折を引きずって生きていかざるをえない。そこで人生は、残酷なほど明暗を分けるのだ。#正念場 #挫折 #踏ん張れ

  • 17May
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      『中国古典・一日一話』●お先にどうぞの精神でー守屋洋

      『中国・一日一話』ー守屋洋●お先にどうぞの精神で✪イギリスでは「アフター・ユー」(after you ・お先にどうぞ)という精神が、マナーの基本のひとつになっている。だから、交通道徳なども、ごく自然に守られているらしい。5本も6本もの路から自動車が集まってくるロータリーでも、日本にあるようなややこしい信号はないそうだ。車がどっと流れこんで来ても、クラクションをうるさく鳴らすこともなく、ちゃんとさばけていくという。やはり「アフター・ユー」の精神に徹しているからだろう。「径路の狭き処は、一歩を留めて人の行くに与えよ」は、そういう謙譲の美徳を説いている。道の狭いところでは、ちょっと立ち止まって、人に先を譲るようにすべきだ。そういうわずかな心懸けが、人生を楽しく安らかなものにしてくれるというのである。日本人は古来、謙譲の美徳を旨とする民族であったはずなのに、最近はずいぶん怪しくなってきた。電車に乗れば、荷物を座席に置いて平気で二人分の席を占めている人をよく見かける。目の前にお年寄りが立っているのに、数人の若者が大股を広げて座席を占領し、席を立とうとする気配さえ見せない。こういうことの積み重ねが、やがては社会全体をギスギスしたものにしていく。#after you ・お先にどうぞ#謙譲の美徳 #積み重ね

  • 16May
    • 『理科系雑学-①』-竹内 均の画像

      『理科系雑学-①』-竹内 均

      『理科系雑学』-竹内 均Ⅰ.ハゲワシの頭がはげているのは?①熱を放出して体温調整をするため②仲間内で毛をむしり合うくせがある③飛ぶときの空気抵抗を少しでも減らすためⅡ.貝を割ったあとラッコは石をどうする?①海に捨てる②仲間に渡して使い回しする③ポケットにしまっておくⅢ.体温計をみてみると42度までしかないどうしてだろう?①水銀は42度までしか上がらない②長くなりすぎると使いにくいから③42度を超えればどうせ死ぬからⅣ.次のうち最もカゼをひきにくい場所はどこか?①赤道直下の村②温帯の山あいの村③南極(答え) Ⅰ. ① ハゲワシの頭には血管が密集していて体熱を放出しやすくなっている。 Ⅱ. ③ ラッコは自分専用の石を1個持っていて殻を割った後はポケットにしまっておく Ⅲ. ③ 42度に上がるとヒトの体を構成するタンパク質がかたまって死んでしまうから Ⅳ. ③ カゼのウィルスは南極まで届かないから

  • 15May
    • 『理科系雑学-②』-竹内 均の画像

      『理科系雑学-②』-竹内 均

      『理科系雑学-②』-竹内 均Ⅰ.白い大根を煮ると半透明になるのはなぜ?①白い色素が流出するから②空気が抜けるからⅡ.ハエはどうやって食べ物を見つけるのか?①とりあえず何でもなめてみる②何にでもとまってみる③触覚で感じるⅢ.ナイフで手を切ってしまった。さあどうする。?①冷やす②温める③風にてるⅣ.カンガルーの赤ちゃんは、どうやって母親の袋に入るの?①自分ではい上がる②母親がくわえて入れる③袋の中で生まれる(答え) Ⅰ. ② 大根の表面にあった無数のデコボコの空気が抜けて乱反射をしなくなる。 Ⅱ. ② ハエは視力がとても弱いが足先のじょく盤の感覚がすぐれている。(味覚・嗅覚) Ⅲ. ② 血小板はあたたかいと活動が活発になる。血液中のタンパク質も同じ。 Ⅳ. ① 前足がしっかりしていて、自分ではいあがる

  • 14May
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      ”若きサムライのために-②”

      ”若きサムライのために-②”●三島由紀夫『羞恥心について-②』このような男性の羞恥心は、あくまで男らしさとつながっていた。男と女がそれぞれの領域を守り、心がどんなにひかれていても、それをまっすぐにあらわさないということが、恋愛の不可欠の要素であった。これは古い気質の人間のあらゆる感情表現に影響し、わざと嫌いなふりをすることが、愛することの最大表現とされていた。いまでは、これが見られるのは小学生の間だけで、自分でもわからないまま、心ひかれる女の子にやたらいじわるをする男の子は、満6、7歳にして明治100年の男となっているわけである。現在では、新しいアメリカナイズされた、お互いの愛を最大限表現する形によって、わざとらしい公明正大さを得てきた。そして女の羞恥心すら、男女同権を破壊するような封建的慣習と考えられ、その緒なの羞恥心が薄れるにしたがって、男の羞恥心も消え去り、そしていつの間にか、かくも露骨に愛情表現しあった男と女は、お互いの大切な性的表象を失って、いまの中性化の時代がきたのである。羞恥心は単にセックスの面だけでなく、日本人が人にものをあげるときに、「ほんのお粗末なものですが」とか、「まずいものでございますが」とか、言って人にあげる習慣は、しだいに失われてきた。アメリカ風の習慣は、一般的になってきた。それは、あたかもわれわれが個人の自由と権利を拡張して生きている時代と見合っている。言論の自由の名のもとに、人々が自分の未熟な、ばからしい言論を大声で主張する世の中は、自分の言論に対するつつしみ深さというものが忘れられた世の中である。人々は自分の意見---政治的意見ですらも何ら羞恥心を持たずに発言する。戦後の若い人たちが質問に応じて堂々と自分の意見を吐くのを、大人たちは新しい日本人の姿だと思ってよろこんでいるが、それくらいの意見は、われわれの時代にだってあったのである。ただわれわれの若い時代には、言うに言われぬ羞恥心があって、自分の未熟な言論を大人の前でさらすことが恥ずかしく、またためらわれたからであった。そこには、自己顕示の感じようと、また同時に自己嫌悪の感情とが混ざり合い、高い誇りと同時に、自分を正確に評価しようとするやみ難い欲求とが戦っていたのである。

  • 13May
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      『日本史こぼれ話』●シーボルトとおいね-笠原一男・児玉幸多

      『日本史こぼれ話』-笠原一男・児玉幸多●シーボルトとおいね✪1829(文政12)年、いわゆるシーボルト事件で日本御構(おかま)いを申し渡されたシーボルトは33歳で日本を去った。しかし彼には愛する日本人女性と子がいた。女性の名は楠本滝(くすもとたき)、丸山引田屋の抱遊女、其扇(そのぎ)、シーボルトは11歳年下のお滝を愛して正妻のように遇し、彼女の好んだアジサイの学名を「オタクサ(otaksa)」としたほどである。ただし現在の学名はこれより先にスウェーデンの植物学者ツンベルクが付けた「マクロフィラ(macrophylla)」である。お滝もシーボルトを敬愛し、事件取調べのときも一切、不利なことは言わなかったという。お滝に手を引かれていた女の子は伊禰(いね)当時2歳8ヶ月であった。シーボルトは帰国後も彼女たちを忘れず、おいねにオランダ語入門書を送ったこともある。おいねは19歳のとき、宇和島にいたシーボルトの高弟、二宮敬作のもとへゆき、医師の手ほどきを受けた。ついで岡山にいた敬作の同門の石井宗謙のもとで医学研修につとめ、宗謙とのあいだに女子をもうけ、ただ(のち、たか子)と名づけた。おいねは1851(嘉永4)年、24歳で長崎に産科医を開業したが、やがて宇和島へ移り敬作のもとで修行した。開国とともにシーボルトの御構いはとけ、1859(安政6)年夏、シーボルトは再び日本を訪れた。長崎の商館で再会したシーボルトとお滝・おいねはただ涙にくれるだけだった。1866(慶応2)年春、おいねの子、おたかは宇和島で三瀬周三と結婚した。おいね39歳、おたか15歳である。その年の秋、シーボルトは南ドイツのミュンヘンで70歳の生涯を閉じている。

  • 12May
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      ”人には旬がある”

      テーマ:ブログ”人には旬がある”  昔読んだ本で誰かが言っていたことがある。同じ作家でも戦前の作品と戦後の作品で、出来が違うという。いわゆる旬というものがあるのである。それが3年から4年かもしれないし、10年かもしれない。旬が過ぎればあとは惰性で書くだけである。名前だけで書いているといわれてもしようがない。漫画家でも、デビューしたての頃の新鮮さは長続きしないし、歌手でも、新人のころの勢いのない歌手はたくさんいる。漫画家の、赤塚不二夫は下積み時代にノートで15~16冊持っていたそうである。だから、おそ松くんから天才バカボンまで新鮮なネタが続いていた。 ○○も新人の頃は、面白いと思っていたが、すぐにマンネリになり、いまでは名前だけ巨匠で、中身が追いつかない。作家でも、芥川賞を受賞した作家も第二弾が大切であるが、次が続かない。次が続かないということは、それだけのものであるということである。文学史上に残るような作家でも、長くいい作品を書き続けることは稀である。だから、若くして早く死んだ作家のほうが有利であるとは言える。芥川竜之介のように若くして亡くなった作家は年をとった後の作品がないからいい。中原中也もそうである。三島由紀夫も40代半ばで死んだ。石川啄木もそうである。金子みすずもそうである。実業家もそうかもしれない。旬の時は、何時なのかはわからないが、旬が永続的に続くということは無いと考えたほうがいいかもしれない。女性の美もそうかもしれない。旬は短い。売れるときに高く売るか、やすく売るか。家賃が高いと後で住みにくい。家賃が安いと後で自分に腹が立つ。とかく”値付け”は難しい。

  • 11May
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      『ローマの哲人・セネカの言葉』●老年-中野 孝次

      『ローマの哲人・セネカの言葉』-中野 孝次●老年✪わたしも老年をわが人生の一番いい時と考えている一人だから、セネカのこの老年讃歌には全面的に賛成だ。幸福を肉体に属するのでなく心に属すると考えるかぎり、肉体は衰えても精神が落ち着いた円熟に達する老年が一番幸福な時であるのは当然のことなのだ。先がないから老年は一日一日をこれ限りの時と見做して生きる。一日が全生涯となって輝く。●一日一日✪だから一日一日を、その日が日々の連なりの終わりの日であり、人生を完了させ充実させる日であるかのように、生きるべきなのです。✪この心掛けを日々新たに持つことが、老年を生きる要(かなめ)で、そう覚悟して生きてこそ老年は実りのある日になる。それを、若い時のように人生の目標をずっと先に置いて今を犠牲にして過ごしたのでは、生きたことにならない。今日一日が生涯の完了する日と思って生きてこそ、もし神がさらに明日という日を付け加えてくださるならば、それを有り難くお受けする気にもなる。セネカはそう言って、夜寝る前に「わたしは十分に生きた」と自分に言い聞かせられる人こそ、朝ごとに新しい日を恵まれるのだ、と言う。

  • 10May
    • 『日本史こぼれ話』●呪われた方広寺の大仏-笠原一男・児玉幸多の画像

      『日本史こぼれ話』●呪われた方広寺の大仏-笠原一男・児玉幸多

      『日本史こぼれ話』-笠原一男・児玉幸多●呪われた方広寺の大仏✪何事につけ派手好きの豊臣秀吉は、1586(天正14)年、東大寺にならって方広寺大仏の造立を命じ、「5年で完成させる」と大見得を切った。実際に完成したのは、9年後のこと、高さは6丈(約18メートル)だから東大寺の大仏より大きいが、木造漆塗りである。ここまでは調子がよいのだが、この大仏、よほど呪われたのか、その後は不幸な歴史をたどる。完成の翌1596(慶長元)年、いわゆる慶長の大地震にあってすべてが壊され、子の秀頼が再興につとめたが、工事中の1602(慶長七)年、出火によって挫折した。秀頼は金銅像での再建に取りかかり、1612(慶長十七)年に完成する。像高六丈三尺(約19メートル)、仏殿は高さ十七丈三尺(約52メートル)という巨大なものである。しかし、このとき造られた巨鐘の銘文「国家安康、君臣豊楽」で家康の文字を分断させたという”いいがかり”が元で、徳川氏と紛争が起こり、落慶式は中止された。これが大坂冬の陣のきっかけとなったのだ。しかも大仏そのものも1662(寛文二)年に地震で倒壊してしまう。そののち、大仏はまたもや木像で再建されたが、これまた1798(寛政十)年、電火にあって焼失した。それから約半世紀、1843(天保十四)年に尾張国の篤志家が、上半身だけの木像を寄進したが、これまた1973(昭和四十八)年に失火のために焼失した。四度の木像、一度の金銅像、すべてが災難にあったのである。原因は、地震・雷・火事であったが、それにおやじ(名主のこと)が加われば、日常的に人びとが怖れたものが出そろうことになる。現在は巨石を積んだ石垣と、巨鐘しか残っていないが、秀頼の造った金銅の大仏は形を変えて残っている。裏に寛文年間(1661~73)の「文」の字の入った”寛永通宝”がそれである。豊臣氏の”におい”のするものは徹底的に抹消してしまう徳川氏の執念なのであろうが、人びとの役に立ったのならば、大仏さまも御満足であろう。

  • 09May
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      『論語の活学』●孔子学園の俊秀たちー④ー安岡正篤

      『論語の活学』ー安岡正篤●孔子学園の俊秀たちー④✪「人物」とは何かについて✪努力・生命力だいたい、人物たるに、まず一番根本的に具(そな)わっておらなければならぬものは何かと申しますと、「気力」であります。身心一貫した「生命力」であります。これは見てくれの身長であるとか、肉づきであるとか、堂々たる体格などとは関しないもので、また一見鼻っぱしが強そうでも、事にあたってとんと意気地のないのがおります。そんなのは「客家」と申します。すぐ消えてなくなります。むしろその点では、どちらかというと、物静かな、弱々しいふうでありましても、事に当たりますと、非常に粘り強い、忍耐力・実行力に富んだ人があります。こういうものは潜在エネルギーの問題でありまして、真の創造力であります。これがないと何にもなりません。『孟子』にある名高い「浩然の気」「われよくわが浩然の気を養う」(公孫丑上)という、あれがちょうどこの気力というものを知る良い言葉であります。この気力・生命力が養われておりませんと、事に耐えません。いくら理想や教養がありましても、単なる観念や感傷・気分といったようなものになってしまうほかありません。

    • 『世界の名言名文句事典』●泣くことも一種の快楽である

      『世界の名言名文句事典』●泣くことも一種の快楽である-モンテーニュ「随想録」✪ラ・ロシュフーコの言葉に「われわれは、われわれの大切な人の死に涙を流しているのだと言いながら実際はわれわれ自身のために涙している。『道徳的反省』」というものがある。実際に「人が一番鼻をかむのは、教会を除いたら葬式のときだ---マーク・トゥエーン『ハックルベリー・フィン』」というように人の死に際しては多くの涙が流される。だが真実その死人のために泣くのかと聞かれるとたじろぐ人が多いのではあるまいか。心からその死をいたんでいるとしても、同時に泣いている自分を哀れみ、その涙にくれている自分の心情に感動している部分がないだろうか。泣くことは無条件に心の緊張を解き放ち、子供のように甘えた気持ちを起こさせる。人の死に限らず、われわれは涙をこぼすことで自分を甘やかし、なぐさめ、安心させているのである。それは彼のいうように、一種の快楽にほかならない。

  • 08May
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      『論語の活学』●孔子学園の俊秀たちー③ー安岡正篤

      『論語の活学』ー安岡正篤●孔子学園の俊秀たちー③✪子貢について✪子貢問うて曰く、賜(し)や何如(いかん)。子曰く、女(なんじ)は器なり。曰く、何の器ぞや。曰く、湖璉(これん)なり。                   [公冶長第五]《子貢がこう言って訊ねた。「賜(し・わたし)などはどうでしょうか」「お前は器だ」「何の器ですか」「国家の大事な祭祀(さいし)に用いる立派な器だ。(国家の大事な仕事に従事させることのできる立派な人物だとの意)」》他人の批評をするくらいであるから、自分のことも気になるわけです。本文はちょっと読むと、たいそう褒められておるように思う。が、同時にこれは、未(いま)だ至らざることに対して戒めておられるのである。[道・器の論]というて、宋代の儒学者が盛んに論じておることでありますが、「器」というものは用途によって固定されておる。湖璉(これん・宗廟のお祭りにお供えを盛る重要な器)であろうが、茶碗であろうが、またそれがいかに立派であろうが、便利であろうが、器はどこまでも器であって、無限ではない、自由ではない。これに対して「道」というものは、無限性、自由性を持っておる。したがって「道」に達した人は、何に使うという限定がない、まことに自由自在で、何でもできる。こういう人を「道人」と言う。そういう意味において本文は、「子貢は立派な器ではあるがまだ道に達しておらぬ」ということを孔子が言うておるわけであります。

    • 『論語の活学』●孔子学園の俊秀たちー②ー安岡正篤の画像

      『論語の活学』●孔子学園の俊秀たちー②ー安岡正篤

      『論語の活学』ー安岡正篤●孔子学園の俊秀たちー②✪子路について子路は季路の名で、冉有(ぜんゆう)と共に政治活動の代表に挙げられておる。孔子とは九つ違いで、門弟中の最年長者であったが、もともと政治活動のようなことをやっておった人で、それが孔子の感化によって弟子となったわけであります。『韓詩外伝』という書物には子路のことを「野人」と書いてある。野は、粗野、仕えないこと(浪人)、というような意味もありますが、この場合は、野にあって政治運動、思想運動というようなことをやっておったという意味です。論語の中で子路に関して最初に出てくるのが為政篇であります。✪「知る」ことの意味子曰く、由(ゆう)や、女(汝に同じ)に之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり。[為政第二]《孔子が言われた、「由や、汝に本当の意味の「知る」ということを教えようか。知っておることは知っておるとなし、知らないことは知らないとなす、これが「知る」ということの意味である」》子路の人物、性格を最もよく表しておるのが、副論語と言われる『孔子家語(けご)』の「火烈にして剛直、性、鄙にして変通に達せず」という語であります。きびきびして剛直であるが、品性が野ぼったくて洗練したところがなく、物事の変化がわからないというのです。世の中というものは、裏もあれば、表もあって、変化きわまりないが、子路にはその変化がわからなかった。つまり子路という人は融通の利かない一本調子のところがあったわけです。それだけに、頼もしいところ、愛すべきところがあった。そういう物事にこだわらぬイメージを与えられるのが、次の一節であります。✪身なりに無頓着な子路子曰く、敝(やぶ)れたる縕袍(おんぼう)を衣(き)、狐貉(こかく)を衣(き)たる者と立ちて恥じざる者は、其れ由(ゆう)か。《孔子が言われた。「破れたよれよれの綿入れを着て、豪華な貉(むじな)の毛皮を着た人と並んで一向恥づかしがらぬ者は、まず由(ゆう)だろうね」》たいていの人間は身なり、服装を気にするものでありますが、子路という人は豪放磊落(らいらく)というか、一向そういうことには無頓着であった。したがってそのために、ともすれば、困ることや、軽率なところもある。

  • 06May
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      『三島由紀夫語録』●「青年」についてー秋津 建

      『三島由紀夫語録』ー秋津 建●「青年」について✪私はかって、私が青年から何かを学ぶということなどありえない、という傲岸な自分を抱いていたが、世の中には一方的な交渉というものはあり得ない。覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与えるものがあれば、それは多分、私に対する青年の側からの教育の力であろう。そして教育というものは、いつの場合も、幾分か非人間的なものである。✪「たえざる感情の不均衡、鼻持ちならぬ己惚れとその裏返しにすぎぬ大袈裟な自己嫌悪、誇大妄想と無力感、何の裏付けもない自恃(じじ)と、人に軽んじられはせぬかという不安と恐怖、わけのわからない焦燥、わけのわからない怒り・・・・・・要するに感情のゴミタメである。」とは「青年について」に書かれている三島氏の青年の内面に対する観察である。三島氏はこういう青年の内面が嫌いなために青年を忌避してきたという。それが、「一年足らず前、私に革命的な変化を起こさせる事件があった。」とまで三島氏に言わしめる、ある一人の青年との邂逅があった。それは昭和41年12月19日、冬の雨の暗い午後のことであったという。「論争ジャーナル」という雑誌は、ある意味では、楯の会の母体となっていた。ある意味ではというのは、「論争ジャーナル」が、必ずしも全てではなかったからである。楯の会の構成メンバーが百人に満たないことは、三島氏の「楯の会のこと」というパンフレットに明らかであるが、そして大学生が大部分を占めていることは明らかであるが、メンバーの政治的な背景や思想的な立場については、「右は水戸学派から左は民社党まで」というように漠然とした言い方しかしていない。そもそも三島氏が右の抜粋文でいうような青年に会ったのは、林房雄氏の仲介で、「論争ジャーナル」の青年に会ったのが初めであった。氏自身体験入隊をし、身をもって国防の問題を考えるようになったことにより、青年に近づくことができたのであろうが、逆に青年に近づいたことにより、祖国防衛隊の構想が生まれ、やがて楯の会になったという点は、決して見落としてはならない。

  • 05May
    • 『知命と立命』●「困」の字義- 安岡正篤

      『知命と立命』- 安岡正篤●「困」の字義「困」という字は面白い。囲いの中に木を入れてある。木というものはぐんぐん伸びなければならない。それをこういう所へ入れてしまったら、これくらい木の困ることはない。つまり伸びられないというのが「困」という字である。閉じ込められてどうにも伸びようがない。頭を押さえられて伸びを止められてしまう。その苦しさを「困苦」というわけである。しかしこれはなかなか打開できない、難しい、これが「困難」。そうして縮こまってしまうというのは、これは「困窮」。●「囚」と「溫」囚人というのは何か悪いことをしたから監獄へ放り込まれた。こんな奴はロシアや中共やらはみな、殺してしまうとか、強制収容所へやってしまうのだが、これも人間だから可哀そうだから飯を食わしてやる(皿=食物)、茶も飲ましてやる(氵=飲みもの)という。そうして、おまえはどうしてそういう悪いことをしたかと尋ねてやる。これがつまり法律、裁判というものがある所以(ゆえん)である。だからこの「溫」という字を「たずねる」と読む。温故、古きを温ねる。これが中国や日本に発達している文字の学問である。ただ当てずっぽうに「温」という字を「たずねる」と読むのではない。ちゃんと理由があってそういうふうに使い、そういうふうに読むのです。

  • 04May
    • 『論語の活学』●孔子学園の俊秀たちー安岡正篤の画像

      『論語の活学』●孔子学園の俊秀たちー安岡正篤

      『論語の活学』ー安岡正篤●孔子学園の俊秀たちー①🔯顔回について顔回について、回よりもずっと後輩であるけれども、これがまた顔回の生まれ変りというか、別の骨肉というてもよいような曾参(そうしん)が、こういうことを言っておる。曾子曰く、能を以て不能に問い、多きを以て寡(すくな)きに問い、有れども無きが若(ごと)く、実つれども虚しきが若く、犯されても校(むく)いず。昔者(さきに)吾が友、嘗(かっ)て斯(ここ)に従事せり。誰とは名を書いておらぬけれども、顔回であることは明白であります。《曾子言う、「自分は才能がありながら、ない者に問い、いろいろと知っておることが豊かであるのに、少ない者に問い、有っても無きがごとく、充実しておりながら空っぽのごとく、人から犯されても仕返しをしない。昔、自分の友達にそういうことに努め励んだ者がおった。(だが、もうその人は死んでおらない)」》よくできる人間ができない人間に訊く、などということは、なかなかできることではない。さらにもっと難しいのは、人から馬鹿にされて、これにしっぺ返しをしないことである。これはよほど出来た人でなければできません。こういうことをしみじみ味わいながら読んでおると、顔回という人が彷彿(ほうふつ)として浮かんでまいります。特に「犯されて校(むく)いず」という語は深い意味がある。これは古今に通ずる人間のありふれたものである。しかしそれだけに、いい加減な解釈をしておると、とんでもない危険が伴う。その点を弁(わきま)えて明確に解釈しておれば、個人の問題は言う までもなく、国家・社会の問題も、国際関係の問題も片付くことが多いに違いない。ところがそれが朦朧としておるものですから、今日のようにいろいろ紛糾を生ずるのであります。#孔子の弟子・顔回 #曾子 #国家・社会の問題

  • 02May
    • 『運命を開く』●直観に優れた頭脳こそ最上- 安岡正篤の画像

      『運命を開く』●直観に優れた頭脳こそ最上- 安岡正篤

      『運命を開く』- 安岡正篤●直観に優れた頭脳こそ最上学校でも、今まで一般に頭が良いということを賞めたものです。ところが、頭が良いということは、決して第一義ではない。そもそも頭が良いとはどういうことか。その意味する内容が非常に変わってきた。今まで一般に考えられた頭というものは、機械的な理解や記憶の能力で、頭のハシクレには相違ないが、本質的な働きではない。真に頭が良いということは、直観に優れなくてはならない。智慧とうものでなくてはならない。knowledgeではなくてwisdomというものは、情緒と結びついているもので、情緒が発達しないで智慧や偉大な行動力は生じないのです。やっぱり国を思って泣く、己を忘れて泣くという純情な感激性があって、真の国策も成功もあるのです。そういう情緒のない、いい加減な人間どもが集まったところで、善い智慧は出てこない。悪智慧しか出ない。子どもの養育についてもそうですが、母親が子どもの言葉を良く理解する、子どもの意欲を良く察知する---それは母親の愛情からです。愛情があるから直覚する。父親の方は、母親の愛とは違って我がある。そこで子どもの片言は父親にはよく分からぬ。ここにデリケートな相違があります。少年・幼年というものは、大人から幼稚・無内容に見えるけれども、かく本質的に見てくると、尊い内容を豊かに持っている。そもそも、我々の肉体の細胞は新陳代謝する。4年ないし7年で身体の細胞は一新する。しかし、脳細胞だけは変わらぬ。生まれ落ちると、すでに一生に必要なる脳細胞を具備して、その脳のいろいろな機能が完全に発達するまでには年を要するけれども、すでに3歳にしてその細胞の80%は機能を開始する。そしてその細胞は変わらない。だから「三つ子の魂百まで」ということは科学的に真実です。故に脳を冒(おか)されたら回復が難しい。だから、子どもの素質・能力というものは、なるべく幼少年の時から教育し、訓練すれば、持って生まれた能力は、非常な力で発育するものです。知能や技能のようなものは、幼少年時代ほどよく習得します。もっと徹底して言うならば、幼児よりもさらに可能的状態である胎児がもっと神秘的なものであります。胎児が大事だということは、母の、したがって妻の思想・精神・人格・生活態度・慣習というものがいかに大切であるかということになります。そこで、今までの婦人論者の婦人に関する研究がだんだん面目を新たにするようになってきました。   

  • 01May
    • 『世界の名言名文句事典』●賢者は聞く、愚者は語る-ジョン・レイ イギリスの画像

      『世界の名言名文句事典』●賢者は聞く、愚者は語る-ジョン・レイ イギリス

      『世界の名言名文句事典』-ジョン・レイ イギリス 自然科学者(1627~1707)●賢者は聞く、愚者は語る✪「愚かなる者には沈黙に勝るものなし」この事実を知るならば、その者は愚かにあらず。『ゴレスターン』」というペルシャの詩人、サーディーの言葉がある。なぜ沈黙に勝るものなしなのか。それは『旧訳聖書』中の箴言17章28節ソロモンの項にこうある通り、「愚かなる者も黙するときは知恵ある者と思われ、その口唇を閉じるときは哲者(さとき)と思わるべし」黙っていればどんなことを考えているのか、どの程度の知能なのかもわからないというわけだ。ところが「愚者は己の舌を抑えられないーーチョーサー『バラの伝奇物語』」というのが愚者の愚者たるところ。エウリピデウスは「阿呆は阿呆らしきことを語る。『バッコスの女信徒』といったが、阿呆らしきことの第一は、'' 英知について語ること '' らしい。「阿呆は英知について語ることをもっとも好み、悪徳漢は道徳について語ることをもっとも好む」ーーエルンスト『架空の対話』。また「賢者は聞き、愚者は語る」ということわざもある。

  • 30Apr
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      ”『人間というもの』-について②!!” ●司馬遼太郎

      ”『人間というもの』-について②!!” ●司馬遼太郎 ”「播磨灘物語」 三より”  「人はおれを利口なやつとよんできたが、人間の利口はたかが知れたものだ、囚われになれば、どう仕様もない」官兵衛が心から自分をあざける気になったのは、入牢して十日ほど経ったときである。「智恵誇りの者がたどりつくのはたいていこういうところだ」智恵者は、道具でいえば刃物のようなものだ。手斧で板を削り、のみで穴をうがち、鋸で木を切る。道具でもって家も建ち、城も建つ。なるほど偉大なものだが、しかし、板にちっぽけな古釘が一本入っていたりするだけで刃は欠けて道具はだめになってしまう。(智恵など、たかが道具なのだ)播州でおれほどの智者はいないとひそかに思っていたことが、なんだかばかばかしくなってきた。”「国盗り物語 二」より” ★人は群れて暮らしている群れてもなお互いに暮らしてゆけるように、道徳ができ、法律ができた。庄九郎は思うに、人間ほど可憐な生きものはない。道徳に支配され、法律に支配され、それでもなお支配されたらぬのか神仏まで作ってひれ伏しつつ暮らしている。#司馬遼太郎 #官兵衛 #神仏

  • 29Apr
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      ”後藤新平-スカウトの名人”

      ”後藤新平-スカウトの名人”●小島直記 後藤新平には「大風呂敷」というアダ名がつけられていた。彼は医者からスタートして、役人、政治家となった。自由民権運動のリーダー”板垣退助”が岐阜でテロにあい、キズの手当をしたのが26歳の後藤であった。その後、内務省衛生局長などをへて、台湾総督・”児玉源太郎”から民生局長(42歳のとき)に起用された。のちに民生長官として、児玉総督の全面的信任を受け、台湾の行政はすべて後藤の手で切り回された。後藤の成功は、人物を集めたことに尽きるという。「一に人、二に人、三に人」という信念は、このとき生じたものと思われる。 後藤はスカウトの名人だった、というよりも、人材だと評価するとトコトン面倒を見て、待遇にも最高の条件をつけて迎えた。その一人が、殖産局と糖務局を切り回した新渡戸(にとべ)稲造である。新渡戸は後藤より5歳年下だが、同じ岩手県の出身である。新渡戸は、明治24年(29歳)から6年間、札幌農学校の教授をしていた。台湾に来ないかという話は、明治33年アメリカにいるときで、後藤の方から、まず3通の手紙で申し込まれた。それを受けて、神戸に着くと、総督府の役人が迎えに出ていた。後藤邸で、後藤から「俸給は五等官に相応することになれば、よくいって四級年俸以上には規則が許すまい。もし、嘱託なら、5千でも、6千でも出せる。」と言われた。新渡戸は「私は、女郎ではないから、金で身を売る考えはないのです。かねて、友人からあなたは面白い人だと聞いたから、それならつかえてみようと思ったので、俸給はどうでもよろしゅうございます。」と答えた。その後、官等は五等で、俸給は一級として奉職することになった。---そういう風に、後藤は人材を集めて”台湾統治”に力を発揮した。#後藤新平 #台湾総督府 #大風呂敷