『三島由紀夫語録』ー秋津 建
●「天の接近--8月15日に寄す」について

✪われわれが住んでいる時代は政治が歴史を風化してゆく稀な時代である。歴史が政治を風化してゆく時代がどこかにあったように考えるのは、錯覚であるかもしれない。しかし今世紀のそれほど、政治および政治機構が自然力に近似してやく姿は、ほかのどの世紀にも見出すことができない。古代には運命が、中世には信仰が、近世には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。ところが今では、政治以前には何ものも存在せず、政治は自然力の代弁者であり、したがって人間は、食あたりで床について下痢ばかりしている無力な患者のように、しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失している。

 

✪「8月15日についての感慨は、年ごとに変化を重ねたあげく、簡便な割り切り方がどうにもできないものになった。この5年の経過から私は、8月15日という一種の記念日が、風化した部分と風化しない部分とで成立つふしぎな塑像のように見えはじめるのを感じる。」

「終戦のとき、妹は友だちと宮城前へ泣きにいったそうだが、涙は当時の私の心境と遠かった。新しい、未知の、感覚世界の冒険を思って、私の心はあせっていた。」

 

前者は昭和25年の文章であり、右の抜粋文の前に書かれた文章である。後者は書かれた時期は昭和30年だが、昭和20年の終戦時のことを書いた文章である。終戦時、三島氏は「岬にての物語」を書いており、終戦を経てもなおこの物語を書き続けていたということである。戦争の末期、三島氏はまだ東京帝国大学法学部学生として、神奈川県高座工廠の勤労動員にかり出されていたわけであるが、終戦の御詔勅は、一家が移っていた世田谷区豪徳寺の親戚の家で、父親などと共に聞いたという。この間の事情は「二十一日のアリバイ--8月2日の日記から」(読売新聞昭和36年8月21日)に詳しい。

 

二つの文章をあげたのは、8月15日というものに対する三島氏の感じ方の落差を例証しようとしたためではない。政治に対する三島氏の絶望がはじまったのが、実は昭和25年という終戦後5年を経た時点であったことの例証のためである。恐らく戦後知識人の絶望も多くは同じような構造をもっていただろう。だが彼らは政治にやがて順応した。三島氏は終生変わらなかった。