『人生日訓365日』友松圓諦
●無礼講(ぶれいこう)


私がドイツにいた頃、月に一度、幾日だったか、何曜日であったか忘れたが、主客ところを替える「無礼講の日」があって、その日には女中さんが床の間についてお客さんの正座につく、ご主人が危なっかしい手つきで皿を食卓に運んで女中さんにサービスをする。女中さんもハラハラしてこれを笑いながら見ている。

誠にユーモアのこもる、面白い行事の一つだと思った。同時に、何か、そこに主従の封建的対立などを乗り越えて、人間が互いに尊敬し合っている民主的な気持ちが見受けられた。

日本でも昔から「無礼講」という名前がある位だから、民主的なものが続いていたに違いないが、無礼講といえば酒を飲んで、長上に文句をつけることになってしまったのはいかにも残念である。

店のため、客のためには、無礼講流に自分の意見をどしどしと、主人や社長に進言しているような店だったら、必ず繁栄する。主人の一言半句にびくびくしているようでは銘々の力が伸びない。「真理」のためには、常に「無礼講」であってこそ、その店風が生き生きとしてくる。

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