『教育勅語と明治憲法』-司馬遼太郎

●教育勅語は朱子学そのもの-➄

 

フランス革命を起こして共和国をつくったフランスにおいて、なにか圧搾空気のようなものがありました。国家の圧搾空気のようなもの、それが必要なのですが、日本の場合、その圧搾空気は何だったのでしょう。

国家の圧搾空気として、明治23年、当時の人々もおそらくうんざりしていただろう朱子学が、教育勅語として、もう一遍もどってきたのでした。

教育勅語について、伊藤博文は反対の立場にいたようですが、

 

「また儒教に戻るのか」

 

と思ったのでしょう。

ヨーロッパの近代的な国々を成立させた圧搾空気はキリスト教ですね。

カトリックであってもプロテスタントであってもいいですが、プロテスタントのほうが近代に入りやすかったようです。

自律的で、しっかりしましょうということが、プロテスタンティズムの基本です。この圧搾空気の上に近代国家を乗せていた。

 

日本はどうでしょうか。

キリスト教は大きな影響力を持てず、仏教や儒教は奈良朝以来ずっと存在してはいました。たしかに奈良朝国家のように仏教の上に成立した時代もありましたが、やはり昔の話ですね。

明治22年の立憲国家は、やはり圧搾空気は別に求めるべきだったと私は思います。

 

しかし、大日本帝国憲法はちゃんとした立憲憲法ではありますが、同時に自由民権運動があまりにも盛んになると困るという事情のもとでつくられた。

いまや自由民権運動は衰えたとはいえ、政府に不安はあったのでしょう。

伊藤博文も自由民権運動を防ぐためにつくったという目的意識においては同じです。反対ではありましたが、圧搾空気のほうは元田永孚でいくかという、いわばバランスを取ろうとする流れは確かにあった。こういう事情のもとに教育勅語ができたわけです。

 

教育勅語の文章を原稿にするとき、おそらく元田永孚は漢文で書いたと思うのです。その後に返り点、送り仮名をつけ、ようやく日本語化した。当時の日本の文章を考えてみますと、相当やわらかい、いかにも日本らしい文章もそろそろ出始めていたときでした。まだ夏目漱石や正岡子規は学生を終えたか終えないかぐらいのときですから、文章日本語を成立させる、あるいは刺激するような文章活動はまだ始まっていません。しかし、それなりにいい文章があった。いい文章があったのですが、そこににわかに漢文が現れた。

 

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