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「マトリックス レザレクションズ」見ました。

須々木です。


先日 「マトリックス レザレクションズ」 を見てきました。

 














例によって、思ったこと、感じたことなどを備忘録的に書いておこうと思います。

なお、以下、核心部まで遠慮なくネタバレしています

まだ見ていない人で、今後見る可能性がわずかでもある人は、ご注意ください。







 

*      *      *









「マトリックス」を見てきた人なら分かると思いますが、語れる切り口が非常に多いので、お題を設定せずに筋道立てて語っていくのはかなり困難です。

そして、今回の「レザレクションズ」は、その傾向が過去3作と比べても際立っています。

本当にどこからでも、どちら方向へも掘り下げられる。

シンプルなのも良いですが、これだけの思索のきっかけを提供してくれる作品もまた良いです。





というわけで、勢いのまま感想を。



事前に漏れ聞こえていた情報から、映画業界の圧力の産物ではなく、監督がしっかりつくりたいと判断し取り組んだ続編だとは思っていたので、それがどのようなものになろうとしっかり見届けたいという気持ちでした。

過去3作のまとまりが良かっただけに不安もありましたが、ルーカスの抜けたスター・ウォーズのようなものにはならないだろうと。

前作「レボリューションズ」で、トリニティは明確に死の描写があり、ネオも人間の世界に帰ることがなかったので、「ここからどうするのか?」とは思っていましたが、普通に二人とも死んでいたようです。

だからこその「レザレクションズ(Resurrections)」。

その名のとおり、本作は「復活」を描いた物語です。

複数形なのは、ネオとトリニティの復活ということでしょう(少なくとも表面的には)。



最初に続編の話を聞いたときは「前日譚をつくるのか?」とも思いましたが、時系列的にも完全な続編であり、「レボリューションズ」より未来の話です。


しかし、過去3作とはかなり毛色が違います。

より正確に言えば、本質的には同じものだけど、“語り方”が大きく異なる印象でした。

賛否が分かれるのはあまりに明確。

脱構築であり、破壊的であり、先鋭的で批評的。

あれだけの名声を得た3部作のあとに、このような作品をつくるのは、ちょっとした狂気を感じます。


第1作に大きなインパクトを受け、2作目「リローデッド」や3作目「レボリューションズ」はオマケと思っていた人にとっては、今回の「レザレクションズ」こそが正当な続編と思えるでしょう。

一方、アクションが派手で娯楽性に富む「リローデッド」「レボリューションズ」をより好む人たちは、「レザレクションズ」は完全に蛇足であり失敗作だと判断するでしょう。

「レザレクションズ」が最大公約数を狙う手法を明確に否定していることは、序盤から清々しいほど高らかに宣言され、ついてこれない観衆を遠慮なく降り落とす勢いで展開していきます。

「続編はこんな感じかなー」などという事前の妄想もまるで無意味な展開。

でも、同時に「これがマトリックス」と感じさせる芯の強さがありました。



ただし、内容は一回見て即座に理解できるようなものではありませんでした(笑)

過去3作も難解な言い回しや圧倒的な台詞量で観衆にプレッシャーをかけてくるものでしたが、それでも展開的にはかなりシンプル。

しかし今回は、情報量もリミッターがはずれたような勢いだし、展開も作品構造もかなり複雑。

「とことん分かりやすく整えられた作品に甘やかされてきた現代人にとって、かなり高めのハードルなのではないか?」と思えるような、読解力を試される作品でした。

分かりやすい娯楽性という意味では、過去3作には及ばないので、鑑賞直後に多少の不完全燃焼感があったのは事実です。

ただ、同時に「これはじわじわ来るパターンの気がする」とも思っていました。

案の定、少し反芻してみると、ようやく「レザレクションズ」の魅力や面白さが見えてきました。


一方で「人に薦められるか?」と言ったら、かなり際どいです。

過去3作のような万人向けの作品ではなくなったので、「人による」という感じ。

僕は相性が良いのでかなりの満足感ですが、「マトリックス」に何を求めるかで印象はかなり変わってくるでしょう。



「バレットタイム」(キャラが止まってカメラが動きまくるやつ)として知られる手法は第1作で鮮烈な印象を与えましたが、「マトリックス」のアクションにこそ魅力が詰まっていると捉える人は、「レザレクションズ」に物足りなさを強く感じるでしょう。

個人的に第1作のアクションは好きですが、「リローデッド」「レボリューションズ」のアクションは、ストーリー上の必然性なき「アクションのためのアクション」だと思っていて大部分が蛇足に見えてしまうタイプです。

その点で「レザレクションズ」での変化はむしろ歓迎です。


そして、この点については「レザレクションズ」の作中でも直接的に言及されています。

ワーナー・ブラザーズからの圧力により「マトリックス」3部作の続編をつくることになり、関係者で「マトリックスの本質」を語っていく・・・というメタ的な場面において。

マトリックスという作品の中でマトリックスという「作品」の本質を議論する場面が描かれているわけですが、これはストーリー上の伏線というよりは、完全に監督個人の主張。

メタ的な自己言及。

ヒットした過去シリーズ、そしてそれらに対する社会の反応を、より俯瞰した視点から遠慮なく語ってしまっています。



庵野監督のエヴァ・シリーズも似たような印象を受ける場面が散見されますが、「レザレクションズ」はより直接的。

そして、あまりにも痛烈な皮肉。

都合よく曲解する世間への懇切丁寧な皮肉。

過去3作でも、これらのメッセージを匂わせているところはあったように思いますが、「レザレクションズ」ではオブラートに包むことを完全にやめています。

エンタメ性を犠牲にしてでも、明言しなくてはいけないという確固たる意志を感じます。

「お前ら、はっきり言わないと分からないだろ?」と言われている感じです。


第1作公開より現在まで、「マトリックス」について様々な解釈があり、それは生みの親でも許容できないようなレベルにまで膨張、暴走していったと監督は捉えているのでしょう。

だからこそ、「マトリックスとはこういうものである」と示す必要があった。

その意味で、「レザレクションズ」は「復活」であると同時に、「再定義」の試みでもあるように思えます。


「レザレクションズ」は、監督の手を離れてしまった「マトリックス」を取り返すための作品。

それでいて、20年経過した2020年代に語るべきことをふんだんに盛り込んでいます。

世界の変革に対応したアップデートは、単なる娯楽作品からの脱却とも言えるでしょう。



「レザレクションズ」を見た印象、過去3作からの変化は、宮崎作品における「もののけ姫」までと「千と千尋」以降の関係に近いものでもあります。

築いた名声を活用し、「分かりやすさ(≒エンタメ性)」に振っていたリソースを、より直接的な作家の内面表出に振るようになってきた感じです。

また、現実世界の変遷、作家個人の変遷を、かなり直接的に作品の重要な要素としてはめ込んでいくやり方は、庵野作品との類似性を強く感じさせます。

もっと言えば、エヴァの旧シリーズと新劇場版の関係性に酷似しているように思います。


マトリックス旧3部作で間接的に提示したのは、「我々が生きる現実世界の未来の話」。

それが、この20年間でかなり追いついてきた(追いついてしまった)ように思えます。

あらゆる場面に存在する二項対立と選択のシーンは、公開された当時より、単純化された情報に踊らされ続ける現代の方がリアリティーがあります。

ネットがまだ「新しいもの」であった当時、「マトリックス」を通して語られた「少し先の未来」は、もうすでに我々の確かなリアルです。

よって「レザレクションズ」では、必然的に「さらに未来の話」を提示しなくてはいけません。

結果、「レザレクションズ」では二項対立というシンプル構造を様々な形で破壊することになります。

これが本作の「分かりにくさ」に繋がっていきますが、結果的には「よりサイバーパンクらしいサイバーパンク」へとなっていきました。

「ニューロマンサー」から連なる、より境界が曖昧な物語。

それでいて、より強く現実世界に問いかける力を持つ物語へと。

そもそもサイバーパンクは、大衆迎合とは真逆のカウンターカルチャーであり、現実社会を拳でぶん殴る勢いがあってこそです。



二項対立の否定は、当然、監督自身の生き様にもオーバーラップしているものでしょう。

人間社会において一番明確な二項対立である「男/女」という単純化された概念に抵抗してきた監督(トランスジェンダーで性転換済み)が、これを描かないわけにはいかなかったのでしょう。

また、今日の社会で先鋭化してきた対立構造への強い抵抗の意志も感じられます。

同じ文脈で、現在の世界を牛耳る巨大企業に対する痛烈なメッセージも様々な形で込められています。

3部作で「アーキテクト(構築者)」となっていたのに対し、「アナリスト(分析者)」が登場するのも興味深いところです。

構築し生み出す者より、分析し操作する者を倒すべき存在に据えたことは、完全に意図的なものであるように感じます。


角が立ちそうな監督個人の思想は、旧3部作では何重ものオブラートに包み、派手な映像表現により目くらまししていましたが、今作では「言いたいことは言わせてもらう」というスタンス。

にもかかわらず、しっかりストーリー的にも「レボリューションズ」から連なるものを描いているのは、本当に凄いことだと思います。

このやり方は、別の監督を連れてきたら絶対にできなかったでしょう。


分解し消費されるものではなく、消化不良でも個人や社会に変革をもたらす作品。

そんなものにしたかったんだろうと感じます。

それが広く受け入れられるのか分かりませんが、少なくとも僕にとっては大いに肥やしとなり血肉となる作品でした。

 

 

 

 

sho

 

 

空き時間でパース練習

 こんにちは。一気に寒くなりすぎてキレそうだけどもう12月…年末なんだよな…と思い直した米原です。

 

 無事脱稿し散歩しつつ次回作を練っている所なのですが、お世話になっている作家先生の体調不良により思いがけず休日が多めになる月だったので、苦手克服と技術向上の時間に当てているこの頃です。

 

 自分は普段のアシスタント業ではフリー素材からトレースで線画を起こしたり、写真や参考画像からパースを取って来たりすることが多いのと、これまでの自分の原稿では「いつどこで誰がなにをしてるかが分かればOKです」となってしまう。ので、「何気にゼロの状態からパース引いて背景起こす作業の経験値と技術が足りてないな?」と感じてました。というわけで、なるべく空き時間は苦手なパースの練習をしようということでチマチマ始めました。

 

 パースは絵が上手い下手というよりも、「正しいパースを見つける速さと正確さ」ももちろん必要ですが、自分には「正しいパースを見つける・気付ける目」が足りてないな、と思ったので数を熟して行こうかと

 

 こんな感じで学生時代ぶりにパースの基礎練をしております。久しぶりにパースのハウツー本を読みながら「勉強してる」感を味わってます。今はクリスタの便利機能のおかげでかなり楽しているのですが。

 画像はまだ下描きの段階ですが、パースの見る目がない私にとっては(横目でアニメを流しながらの作業だったとは言え)この段階でものすごーく時間がかかった。こればかりは数を熟して経験値を貯めないといけないのですが、下描きの時間を短縮できるのは自分にとって大変プラスなので頑張りたいと思います。

 あと描いていて思ったのが、こうやってパースを眺める物があると結果的に構図案のストックというか、自分用の背景案カタログができていく感じで今後も活用できそうな雰囲気なのが僥倖でした。段々楽しくなって来たので空き時間ができたらこうしてパースの勉強に励みたいと思います。基礎を固められたら、漫画的な誇張表現の練習もしたいと思います。

 

 まったくのゼロの状態から自分のイメージ通りの背景を素早く設置するのって難しいですね。それではまた年末にお会いしましょう。

 

noz

 

あなたのツボはどちら?

どうも遊木です。

なんだか先週はいろいろ出かけたり取材したり制作したりで、ちょっと忙しかった気がします。

その辺の活動報告は次の記事で。

 

突然ですが、今までの人生で「こいつ笑いのツボ浅いなぁ」と感じる人に出会ったことはありますか?

私は普段人よりニヤニヤしている癖に、それほど笑いのツボは浅くありません。というか多くない?(実はお笑いやギャグ漫画との相性も良くない)

じゃあなんで今の自分になったかというと、中学~高校生頃に「何にでも反応する人間でいる方がコミュニケーションが上手くいく」という学びを得たからです。

別に無理して笑うんじゃなく、人の話に反応しようとすると自然に笑みが浮かぶ、という感じです。これはなんですかね?個人的には人の習性みたいなものの気がしてるんですけど、実際はどうなんでしょう。

 

そんな私も、たま~に「笑いのツボに入る」というときがあります。

“楽しい”の笑いではなく、“面白い”の笑いというか、そういうものがある時突然降ってくるんですよね。

ただいつも突然すぎて、自分の笑いのツボがいまだに把握出来てません。

でも多分肉体が疲れてる方が笑いやすい気がする。

 

というわけで、先月サークルで行われた「RW体育の日」で、私が謎にツボったときの漫画です。

久しぶりにエッセイ描こう~と思ったら、こうなりました。

 

 

ちなみに、なんで凜ちゃんがとなりに沈んでたか今も理解してないんだけど……なんで?

 

aki

 

 

宇宙に行きたいか。

須々木です。

 

ZOZO創業者の前澤友作氏が国際宇宙ステーション(ISS)に滞在して話題になっていますね。

費用は「二人分で100億円くらい」とのこと。

なかなか豪快な金の使い方ですね。

 

「そんなことのために使うなら、もっと別のことに使うべき」みたいな意見もあるらしいのですが、宇宙開発に個人のお金が入っていくのは、単純に喜ばしいことだと思います。

一生地面にへばりついて生きても、天気予報やGPSや各種通信など、我々は日々宇宙開発の恩恵にあずかっているわけですし。

だから、むしろかなり直接的に広く人類に貢献するお金の使い方という気さえします。

 

 

近年のアメリカの宇宙開発ビジネスの状況はかなり興味深いものです。

ベンチャー企業がとんでもない数の失敗を繰り返しながらも、ついに成果を上げ始めるのを見ると、あらゆる意味で日米の差を感じずにはいられません。

これほどの失敗を許容できる国はやっぱりなかなかありません。

そして、これぞアメリカという国に刻まれたフロンティア精神のDNAってやつなんでしょうか。

西部開拓の時代から宇宙開拓の時代へ。

 

宇宙開発の歴史において後発の日本は、様々な制約の中で、ある意味セオリーともいえる「ちょっとニッチなところを磨きまくる戦法」で一定の存在感を示してはいますが、それでも層の厚さに関してはとんでもない差を感じます。

 

 

 

「宇宙に行きたいか?」

 

実際に民間人が宇宙に行けるようになってくると、この問いを聞く機会も増えてきそうです。

せっかくなのでちょっと考えてみようと思います。

 

まず、一番リアルな「宇宙旅行」である、弾丸ツアーに関して。

数分程度の無重力と記念撮影を楽しんであっという間に帰還というやつですね。

弾丸ツアーというより“弾丸軌道ツアー”じゃん!という気もしますが。

正直、これは個人的にあまり惹かれません。

もちろん、費用との兼ね合いではありますが。。

 

宇宙ステーションのような軌道上の施設に数日間滞在するタイプはどうか。

これは結構ひかれます。

無重力体験や宇宙から見た景色なども良いと思いますが、しっかり宇宙に滞在しているという感覚を経験してみたいのかもしれません。

景色の良い山の頂にヘリコプターで行くよりは、じっくり時間をかけて踏破したいという感覚に似ているような。

自然との一体感(?)みたいなやつが良い気がするんですよね。

ちなみに、旅行でも次々に移動するより、少し滞在して浸りたいタイプです。

 

月面ステーションに滞在するタイプはどうか。

これも相当ひかれます。

地球じゃない地面に降り立つのは、たとえそこが不毛の地であろうとロマンです。

ある程度の安全性の保証は欲しいところですが、そのうえで数週間程度で楽しめる月世界旅行があれば最高です。

 

火星はどうか。

このくらいになってくると、さすがに遠慮したくなってきます。

少なくとも現在持ち合わせている知識で、人間が安全に往復できる可能性を想像できません。

月と違って、片道数ヶ月というのがなかなかキツイ。

しかも、地球との通信もタイムラグが6.5~44分。

いつでも同じくらいの距離に地球が見える月面の安心感と比較し、距離が大きく変化し帰れるタイミングに制約が大きい火星のスリルはヤバいです。

人類の宇宙開発の礎になって死ぬ覚悟が絶対的に必要な持ち物となるんでしょう。

あとどのくらいで火星に人が降り立つのか分かりませんが、魅力的な旅行先になるのは相当先でしょう。

 

 

 

・・・などといろいろ書いてきましたが、いまのところ宇宙に行く予定はありません。

 

100億円で宇宙旅行するより、100億円で金の心配なく地上を旅行したいですね。

 

あと、宇宙に行くときは、やはり伝統にのっとって蒸気機関車型のスペースシップを所望します。

 

 

 

sho

 

 

 

今さらバチェロレッテ観た話

マジで最近絵を描いてないな…

練習で描いた男の人

どうもこんばんは霧島です。
最近またがくっと寒くなりましたね。まぁ12月も半ばを過ぎたので当たり前と言えば当たり前なのか…早い…
先日遂に我が家も暖房を解禁しました。
夜になると急に寒くなるんだもんな。

さて、ここ最近はまたひたすら水面化の活動しかしてないので進捗なにもありませんが…

今更なのですがバチェロレッテを観ました。


バチェロレッテとは!!

1人の独身女性を職業、年齢、容姿、性格も様々な17人の男性が奪い合う、Amazonプライムビデオで配信されている婚活サバイバル番組です。

元々はアメリカで放送されていた「The Bachelor」という番組があって、こちらはバチェラー(独身男性)が多数の女性の中から最高のパートナーを見つけるために様々なデートを繰り返し、最後の1人を選んでいく、という企画です。
アメリカでの放送開始は2002年だそうで、もう20年近く経ってるんですね…すごい。
因みに現在日本ではバチェラーシーズン4が先日最終回を迎えたのですが、今回は先程述べた様にその男女逆転版、バチェロレッテを観たよという話です。

 

 


私は元々恋愛リアリティーショー的なのに興味のない人間で、古くはあいのりとかテラスハウスとかあったな…みたいな知識が辛うじてある程度でした。

今回も自発的に見るに至ったのではなく担当さんに観たことある?と言われたので観てみただけなんですが…


結論から言うと面白かったです。
男女比が17:1なのですごい比率の逆ハーだなと思いながら観始めたんですけど、思った以上に少女マンガ的に楽しめました。

まずバチェロレッテがすごい…本当に選ばれし女性、という感じで好感度がすごい。
個人的には少女マンガのヒロインというよりはヒロインが憧れる存在、みたいなイメージが近いなと感じました。(個人の見解です)

そして17人の男性陣。序盤は人数が多すぎてそれぞれのキャラクターが掴めないのと、まだ私が楽しみ方をよくわかってない状態だったのでふわっと観てた感が否めませんが、どんどん男性陣がふるいにかけられ人数が減ってくると、デートにもそれぞれの個性が出始めるんですよね。

この人裏でこんなことしてる…!とか、この人こんな一面があるんだ…!みたいなのを追っていくのは面白いです。またバックグラウンドなんかも見えてきたりするとより親近感もわいたりして、ここうまく見せれたらバチェロレッテに響くのにな〜!みたいなことを思いながら鑑賞していました。

私たちは物語で結局人間の話を書いていて、その中でいろんなキャラに役割を持たせますが、それは実際生身の人間でも同じでなんとなく皆自分の役割を生きているんだろうなぁと思います。

言ってしまえば全員が主人公なので群像劇的というか、一つの事象に対するそれぞれの視点が映し出されるのも大変興味深かったです。なるほど確かにキャラクターの勉強になるなと思いました。

あと一つ自分の中で面白かったのが、最初の印象があまり良くなかった人の方があとあと推しになってた点ですね。
この構図はまんま少女マンガにあるやつやん…と思いました。

その印象の操作自体は「こう言う人があまり好きではない」の「こう言う人」の部分を変えれば人の数だけ作ることができるので、そのうち自分のキャラクター作りにも活かせたらなと思います。
ただ、男性は振り幅が広い方がのちに推しになることがわかったんですが、女性は結構最初の印象で好きだなと思った子が結局最後まで推しだったんですよね。(すいませんバチェロレッテの話をしてましたがちょっとバチェラーの話を挟んでます)

つまりバチェラーで、何人も素敵な女性が出てきて、第一印象で「この人素敵だな〜」と思った人が結局最後まで一番推しだったなと。あまりキャラの振れ幅とかは関係なかった…
私は女の子は顔が好きな子が好きなんだろうなと思いました。←

でも好きな顔だけじゃ物語にならないのでなんとか好きな人間性もちゃんと把握していきたい所存…


そんなわけでやはり食わず嫌い(?)よくないなと思ったりなどしたのでした。
嫌いなもの無理に見る必要はないと思うけど適度に新しいものにチャレンジしていきたい今日この頃です。

 

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