まだ眠くないんだよ……
前回「そろそろ夏も近い」とか挨拶した気がします。
すっかりご無沙汰してました。
夏野です。
春が終わって夏が来て秋が来てもう冬になってしまいました。
これはたぶん、またすぐ夏が来ますね。
既に夏が恋しいです……寒いよ……
話は変わって。
最近RWでは「ガチ会議」と呼ばれるミーティングが行われました。
これはまぁそのまま「ガチなミーティング」のことで……
今回は言うなれば「RWの現状と将来について真面目に腹割って話そう」というものでした。
個人的な感想ですが、なかなか興味深かったです。
サークルに関することだけではなくて、
他の人がどんなことを考えてどういう風に生きているのか、
改めて整理して話を聞く機会ってあんまり無いですし。
今後に関しては色々な話が出ましたが、
副代表の「結局のところ今やるか、今やらないかの問題」という意見が印象に残ったので、
何事も「今やる」精神で頑張っていこう、と思いました。
というわけで久しぶりにブログでも書こうかな~と思った所存です。
久しぶり過ぎでログイン出来なかった……焦った……
そう言えば昨日はTwitterリレー小説企画が行われて、
深夜にメンバー全員でリレー小説をしました!
初の試みだったのですが、なかなか楽しかったので、
今後も継続していけたらな~と、個人的には思ってます。
初回だったので時間足りなかったりもしてバタバタしたけど、
そんなバタバタも面白かったです。笑
これについては、shoさんがブログにまとめてくれます!楽しみ!
ではでは!
お久しぶりの夏野でした。
aka
すっかりご無沙汰してました。
夏野です。
春が終わって夏が来て秋が来てもう冬になってしまいました。
これはたぶん、またすぐ夏が来ますね。
既に夏が恋しいです……寒いよ……
話は変わって。
最近RWでは「ガチ会議」と呼ばれるミーティングが行われました。
これはまぁそのまま「ガチなミーティング」のことで……
今回は言うなれば「RWの現状と将来について真面目に腹割って話そう」というものでした。
個人的な感想ですが、なかなか興味深かったです。
サークルに関することだけではなくて、
他の人がどんなことを考えてどういう風に生きているのか、
改めて整理して話を聞く機会ってあんまり無いですし。
今後に関しては色々な話が出ましたが、
副代表の「結局のところ今やるか、今やらないかの問題」という意見が印象に残ったので、
何事も「今やる」精神で頑張っていこう、と思いました。
というわけで久しぶりにブログでも書こうかな~と思った所存です。
久しぶり過ぎでログイン出来なかった……焦った……
そう言えば昨日はTwitterリレー小説企画が行われて、
深夜にメンバー全員でリレー小説をしました!
初の試みだったのですが、なかなか楽しかったので、
今後も継続していけたらな~と、個人的には思ってます。
初回だったので時間足りなかったりもしてバタバタしたけど、
そんなバタバタも面白かったです。笑
これについては、shoさんがブログにまとめてくれます!楽しみ!
ではでは!
お久しぶりの夏野でした。
aka
これじゃない感 ―違和感の導き手―
須々木です。
本日、実写映画「進撃の巨人」の配役がドバドバっと発表されましたね。
※画像つきの記事はこちら。
オリジナルキャラがいるのは想定済みでしたが、思ったより多かった印象。
ていうか、シキシマって誰だよ。。
一瞬、マキシマかと・・・
――人類「最強」の男――
とか書いてあるので、立ち位置的にはリヴァイ兵長なんでしょうけど、中身は違うんでしょうね(?)
というか、最強にカギカッコをつけると厨二色が無駄に強化されますね・・・
そもそも、なんでみんな二つ名みたいなのがあるのか??
しかも、やたらプッシュしている・・・
そして、そのすべてが見事なまでの突っ込みどころを備えている点は、もはや驚嘆。。
正直、配役の発表よりはるかにインパクトありますよね・・・
せっかくだから、監督とかプロデューサーにも全部二つ名をつけてほしいところ。
さて、件のシキシマが、公式でもエレンの次、ミカサの前に書いてあるところを見ると、かなり重要というか、今作の肝になるんでしょうが、まあそれは良いとして。
個人的に、今回の情報が公開する前は、「結構ありなんじゃないか」(もちろん不安はあるけど)というイメージだったのが、一気に「かなりヤバいんじゃ・・・」に傾きつつあるのですが、はてこれいかに?と思いを巡らせてみました。
手っ取り早く言ってしまえば、
これじゃない感がハンパない。
これに尽きる気がします。
それじゃあ、この場合、「これじゃない感」とは何なのか?
※もちろん、前提としてメディアの違いはありますが、今回はそのあたりはスルーという方向で。
すごく感覚的な話ですが、逆に、「結構ありなんじゃないか」となぜ思ったのか?
なんでだっけなあ・・・と考えてみたら、コレ↓↓が結構大きいような気がしてきました。
※特設サイト http://shingeki-forester.net/
つまり、「巨人」。
進撃を進撃たらしめる要素はやはり、「巨人」「絶望感」「絶望感に立ち向かう勇気」あたりで、キャラやシナリオはその次に来るもの(もちろん全部重要ですが)。
その意味で、オリジナルキャラ満載は全然OKだと思います。
むしろ、全員オリジナルで良かったくらい。
今回の、「これじゃない感」は、むしろキャラを全面に出した今回の宣伝に対するものなのかなあ、と思いました。
言い方を変えれば、「“巨人”不在の宣伝」。
進撃の巨人において、狭義の主人公はエレンだけど、広い意味では「巨人」と「巨人に立ち向かう人間たち(特定のキャラではなく)」が主人公。
その意味で、巨人がいないと「これじゃない感」が出てくるのかなあと。
だからと言って、巨人を変な方向にプッシュしすぎて怪獣映画になってしまってはまずいわけですが。。
このあたりのバランス感覚を、是非頑張って欲しいと、個人的には思っていたりします。
ネタにしかならない作品にならないことを切に願いつつ。。
sho
本日、実写映画「進撃の巨人」の配役がドバドバっと発表されましたね。
※画像つきの記事はこちら。
オリジナルキャラがいるのは想定済みでしたが、思ったより多かった印象。
ていうか、シキシマって誰だよ。。
一瞬、マキシマかと・・・
――人類「最強」の男――
とか書いてあるので、立ち位置的にはリヴァイ兵長なんでしょうけど、中身は違うんでしょうね(?)
というか、最強にカギカッコをつけると厨二色が無駄に強化されますね・・・
そもそも、なんでみんな二つ名みたいなのがあるのか??
しかも、やたらプッシュしている・・・
そして、そのすべてが見事なまでの突っ込みどころを備えている点は、もはや驚嘆。。
正直、配役の発表よりはるかにインパクトありますよね・・・
せっかくだから、監督とかプロデューサーにも全部二つ名をつけてほしいところ。
さて、件のシキシマが、公式でもエレンの次、ミカサの前に書いてあるところを見ると、かなり重要というか、今作の肝になるんでしょうが、まあそれは良いとして。
個人的に、今回の情報が公開する前は、「結構ありなんじゃないか」(もちろん不安はあるけど)というイメージだったのが、一気に「かなりヤバいんじゃ・・・」に傾きつつあるのですが、はてこれいかに?と思いを巡らせてみました。
手っ取り早く言ってしまえば、
これじゃない感がハンパない。
これに尽きる気がします。
それじゃあ、この場合、「これじゃない感」とは何なのか?
※もちろん、前提としてメディアの違いはありますが、今回はそのあたりはスルーという方向で。
すごく感覚的な話ですが、逆に、「結構ありなんじゃないか」となぜ思ったのか?
なんでだっけなあ・・・と考えてみたら、コレ↓↓が結構大きいような気がしてきました。
※特設サイト http://shingeki-forester.net/
つまり、「巨人」。
進撃を進撃たらしめる要素はやはり、「巨人」「絶望感」「絶望感に立ち向かう勇気」あたりで、キャラやシナリオはその次に来るもの(もちろん全部重要ですが)。
その意味で、オリジナルキャラ満載は全然OKだと思います。
むしろ、全員オリジナルで良かったくらい。
今回の、「これじゃない感」は、むしろキャラを全面に出した今回の宣伝に対するものなのかなあ、と思いました。
言い方を変えれば、「“巨人”不在の宣伝」。
進撃の巨人において、狭義の主人公はエレンだけど、広い意味では「巨人」と「巨人に立ち向かう人間たち(特定のキャラではなく)」が主人公。
その意味で、巨人がいないと「これじゃない感」が出てくるのかなあと。
だからと言って、巨人を変な方向にプッシュしすぎて怪獣映画になってしまってはまずいわけですが。。
このあたりのバランス感覚を、是非頑張って欲しいと、個人的には思っていたりします。
ネタにしかならない作品にならないことを切に願いつつ。。
sho
便利さが理由じゃない
どうも遊木です。
あっという間に11月も過ぎてしまいそうで焦っていますハイ。
なんで小さい頃はあんなに1日が長かったんでしょうね…。
間があいてしまいましたが、10月の終りに行ったBankART、黄金町エリアの話と、3日にあったトリエンナーレのラストショー、スマートイルミネーションの話を軽くしようと思います。
まずBankARTですが、開催していた内容は「Life Ⅳ-東アジアの夢」というもので、継続的に行っているプログラムの一環のようでした。
私は日ごろからここの展覧会を覗いていたわけではないので詳細はわかりませんが、雰囲気的に過去の展覧会で使用したアーカイブをいくつかピックアップして使っている感じ?でした。
ただ作品数は結構あったので、じっくり見たい人にはそこそこボリューミーな内容だったし、逆に散歩がてらにふらっと入った人もまったりできる空間があったので、雰囲気を楽しみたい人にも向いていた展示だったと思います。





アジアといえば毎回それ系の展覧会で思うことなのですが、個人的に日本の作品からはいまいち「アジア」という雰囲気を読み取れません。なんででしょうね…?
それは母国だからそう感じるのではないか、と言われればそうなのかもしれませんが、文化圏の話題でも日本だけは「日本文化圏」という独立した捉え方をされることがあります。そもそも独立した国々を「アジア」とまとめるのもおかしな話ではありますが、でも、文化圏の話のように日本はどこか、アジア諸外国と比べて感覚や感性、思想が他からはかなり独立したものを持っているように思います。具体的にどういう点が、というのは説明できませんが…。
実際どうなんでしょうね?
外国人から見たら日本と他のアジアの国々とに、何か文化や考え方に違いを感じたりするんでしょうか。
その後はふらふらと歩きながら、黄金町エリアへ。
ちなみに↓↓は途中に展示されていたものです。
街中にこういう展示がされてるのも面白いですよね。

さて黄金町エリアですが、個人的にはBankARTよりこちらのエリアの方が自分の刺激になったように感じます。展示作品に特別印象深かったものがあったわけではないのですが、なんとうかエリア全体、街のあり方が非常に興味深いものでした。
黄金町のアートエリアは存在は知っていても実際に行ったことはなく、今まではツイッターなどで情報を見るだけでしたが、今回初めてその街の雰囲気を見て、直感的に「いいな」と思いました。
もちろん、まだ夕方以降に一人で歩くのは危険そうだなと感じたり、路地裏などはかつての街の雰囲気のままだったりしますが、その隙間隙間にアートが展示されて、少しずつ街の色が鮮やかになっているように思います。しかもそれらがすごい「自由」なんですよね。それぞれの空間を、本当に作者が想いのままにいじって、自分の好みに仕上げている。
もともと空間演出に興味があるというのもありますが、狭くても、ああやって自分の作品を自由に飾って、自由に空間演出できる場所と言うのは、本当に憧れます。美術館や専用の展示場なんてなくても、アートや、創作は存在していられる。場所や環境でそのあり方が揺らぐことはないと、そう感じられる場所でした。
創作関係に興味がある人には、是非一度訪れてほしい場所です。




10月から11月にかけていろんな作品を見ましたが、3日に無事トリエンナーレも終了。
最後にやったショーも、三連休の最終日と言うことを抜かしてもすごい人が溢れていました。
(むしろ溢れすぎて見るのが大変だった…)

個人個人で評価は違うだろうし、興味の大きさも違うとは思いますが、こういうアートイベントに沢山の人が触れているのを見ると、改めて「何かを生み出すっていいな」と感じます。
これだから作ることをやめられない。諦められない。
そう感じた人が、私の他にもいたんじゃないかなと思いました。



(↑はスマートイルミネーションです)
サークル活動をしていると、たまに「何で横浜なの?」という質問を受けたりします。
理由を述べようと思えばいくらでも言えるのかもしれませんが、まぁ正直な話「じゃあ一回住んでみろ」というのが本音ですね。こればっかりは、口で説明するだけでは何も本質を伝えられない。
もちろん便利なのもありますが、便利さだけなら東京寄りでも良いと思います。
けど、創作者にとっての横浜の魅力は別に便利さじゃありませんよね。
aki
あっという間に11月も過ぎてしまいそうで焦っていますハイ。
なんで小さい頃はあんなに1日が長かったんでしょうね…。
間があいてしまいましたが、10月の終りに行ったBankART、黄金町エリアの話と、3日にあったトリエンナーレのラストショー、スマートイルミネーションの話を軽くしようと思います。
まずBankARTですが、開催していた内容は「Life Ⅳ-東アジアの夢」というもので、継続的に行っているプログラムの一環のようでした。
私は日ごろからここの展覧会を覗いていたわけではないので詳細はわかりませんが、雰囲気的に過去の展覧会で使用したアーカイブをいくつかピックアップして使っている感じ?でした。
ただ作品数は結構あったので、じっくり見たい人にはそこそこボリューミーな内容だったし、逆に散歩がてらにふらっと入った人もまったりできる空間があったので、雰囲気を楽しみたい人にも向いていた展示だったと思います。





アジアといえば毎回それ系の展覧会で思うことなのですが、個人的に日本の作品からはいまいち「アジア」という雰囲気を読み取れません。なんででしょうね…?
それは母国だからそう感じるのではないか、と言われればそうなのかもしれませんが、文化圏の話題でも日本だけは「日本文化圏」という独立した捉え方をされることがあります。そもそも独立した国々を「アジア」とまとめるのもおかしな話ではありますが、でも、文化圏の話のように日本はどこか、アジア諸外国と比べて感覚や感性、思想が他からはかなり独立したものを持っているように思います。具体的にどういう点が、というのは説明できませんが…。
実際どうなんでしょうね?
外国人から見たら日本と他のアジアの国々とに、何か文化や考え方に違いを感じたりするんでしょうか。
その後はふらふらと歩きながら、黄金町エリアへ。
ちなみに↓↓は途中に展示されていたものです。
街中にこういう展示がされてるのも面白いですよね。

さて黄金町エリアですが、個人的にはBankARTよりこちらのエリアの方が自分の刺激になったように感じます。展示作品に特別印象深かったものがあったわけではないのですが、なんとうかエリア全体、街のあり方が非常に興味深いものでした。
黄金町のアートエリアは存在は知っていても実際に行ったことはなく、今まではツイッターなどで情報を見るだけでしたが、今回初めてその街の雰囲気を見て、直感的に「いいな」と思いました。
もちろん、まだ夕方以降に一人で歩くのは危険そうだなと感じたり、路地裏などはかつての街の雰囲気のままだったりしますが、その隙間隙間にアートが展示されて、少しずつ街の色が鮮やかになっているように思います。しかもそれらがすごい「自由」なんですよね。それぞれの空間を、本当に作者が想いのままにいじって、自分の好みに仕上げている。
もともと空間演出に興味があるというのもありますが、狭くても、ああやって自分の作品を自由に飾って、自由に空間演出できる場所と言うのは、本当に憧れます。美術館や専用の展示場なんてなくても、アートや、創作は存在していられる。場所や環境でそのあり方が揺らぐことはないと、そう感じられる場所でした。
創作関係に興味がある人には、是非一度訪れてほしい場所です。




10月から11月にかけていろんな作品を見ましたが、3日に無事トリエンナーレも終了。
最後にやったショーも、三連休の最終日と言うことを抜かしてもすごい人が溢れていました。
(むしろ溢れすぎて見るのが大変だった…)

個人個人で評価は違うだろうし、興味の大きさも違うとは思いますが、こういうアートイベントに沢山の人が触れているのを見ると、改めて「何かを生み出すっていいな」と感じます。
これだから作ることをやめられない。諦められない。
そう感じた人が、私の他にもいたんじゃないかなと思いました。



(↑はスマートイルミネーションです)
サークル活動をしていると、たまに「何で横浜なの?」という質問を受けたりします。
理由を述べようと思えばいくらでも言えるのかもしれませんが、まぁ正直な話「じゃあ一回住んでみろ」というのが本音ですね。こればっかりは、口で説明するだけでは何も本質を伝えられない。
もちろん便利なのもありますが、便利さだけなら東京寄りでも良いと思います。
けど、創作者にとっての横浜の魅力は別に便利さじゃありませんよね。
aki
ヨコハマトリエンナーレ感想②アートの定義
感想①の続き
ここで「作品の具体化」というワードが出てきたので、空間と作品の関係の話は置いておいて、いくつか展示作品そのものの話をしましょう。
個人的に今回のトリエンナーレでおもしろいと思った作品は、アクラム・ザタリ氏の≪彼女に/を + 彼に/を≫という作品と、メルヴィン・モティ氏の≪ノー・ショー≫です。
どちらも映像作品ですが、この二つは今回の展覧会タイトルである「世界の中心には忘却の海がある」という部分を、非常に理性的に作品内に落とし込んでおり、同時に鑑賞者は直感的に悟ることができるという、作品としてとても洗練された内容になっていました。
映像と言うのは、視覚、聴覚、時間を同時に演出することが出来る、非常に優れたツールですね。情報量の表現が幅広い。
さて、先に良作と思った作品を上げましたが、ある意味今回のトリエンナーレで一番印象深かったのは、おもしろい作品とは逆に「直接的なマイナスの印象を受けた作品」があったことです。
私は普段、あまり作品に対して悪い意味でのマイナスの印象を覚えません。例え自分の感性が及ばない内容でも、作品がそこに存在することの価値は揺るがないと感じているからです。「どんな内容でも、作品としての価値が確かにあるんだ」というのが、私が何かを鑑賞する上での根本的な考え方であり、自分の考えが及ばない所で、その作品に影響を受けた人がおり、その作品に救われている人間がいるのだと、そう思ってきました。だからどんな作品においても、共感はできなくても否定はしないと。
しかし今回、第10話:洪水のあと(仮題)で展示された「福岡アジア美術トリエンナーレ」の過去作品の中でいくつか、「これは美術として認めたくない」という感想を強く抱かせる作品がありました。いえ、正しく言うと、孤立した作品ひとつひとつに抱いた印象というよりは、その発表エリア全体に対して抱いた印象という言い方が正しいかもしれません。
それらもまた映像作品でしたが、はっきりいうと完成度はどれも高いものだったと思います。しかし、完成度が高いからこそ明確に浮かび上がる作者の意図が、あまりにもネガティブ過ぎると感じました。
映像の内容は、主に資本主義が抱える闇について言及したものです。
コンセプトとしては、横浜美術館エリアに展示されていた≪釜ヶ崎芸術大学≫も、≪たった独りで世界と格闘する重労働≫という作品も、同じように資本主義社会に対する内容のものでした。昨今では決して珍しいコンセプトではありません。



私は芸術、広くいうと創作全般において、「どこかで誰かを救うものであるべき」という価値基準を持っています。
それが知らない他人でも、友人でも、家族でも、そして自分自身でも良い。それを生み出したことで、どこかの誰かの肩の荷がふっと下りる。孤独感から救われる。過去の後悔を昇華できる。皮肉でも、逆説的でも、どんな形でも良いから、誰かの救いになる。それが、創作が内包する、限りなく潜在的な部分に近い価値だと考えています。
第10話に展示されていたアジアの映像作品は、時代が生み出した闇、時代の裏で苦しんでいる人がいるという事実、その人たちがどのくらい劣悪な環境にいるか、人間が起こした過去の過ち、それらが極めて丁寧に表現されています。その着眼点に問題は感じません。世界中の目を背けたくなる現実を突きつけるのも、芸術が担っている役目の一つだと思っています。
問題はその作品たちが、どれも現実や過去を嘆いている、もしくは責めているだけで、未来なんて見ていないという印象を鑑賞者に与えていることです。私はこれらに対して、鑑賞者も、題材に取り上げられた人々も、そして制作している作者本人も、誰かを救うことのできるものには成りえないと思っています。ネガティブな映像が見る側の心を揺さぶり、僅かでも世界に波紋が与えられれば良い、という解釈があるかもしれませんが、正直これらの作品で揺さぶられる感情はどれも、未来へと繋がるものではないと思います。そして未来へと繋がらなければ、結局現実を変えることなどできない。
この空気を纏うものが、例えば多くある作品のうちのひとつであったなら、おそらく私はそんなに問題視しなかったかもしれません。しかし、今回のはあまりにも「アジアの色」としてその空気が濃厚過ぎました。同じアジア人として、アジア全体の創作の空気がこの流れならば、これは非常に嘆かわしいことです。後ろ向きに歩いて、自分が転んだ跡を「あれは痛かった」と嘆き、そしてそのまま後ろ向きに歩き続けるから、また転ぶ。その連鎖を繰り返すのかと。
第10話はどれも、確かに良質な作品ではあったけれど、あのエリアを美術展とは認めたくない。それが私の抱いた感想です。
しかしだからこそ強く印象に残っているというのが、またなんとも…。
と、つらつら述べてみましたが、全体を通したら非常に中身のある面白い内容でした。ヨコハマトリエンナーレを見たのは今年で3回目ですが、今まで一番中身をじっくり鑑賞できたので、すごく自分自身の刺激になったと思います。
しかし多くの作品を見れば見る程、自分の頭がいかに固く、視野が狭いか見せつけられます。それはそれでへこむのですが、自分の考えが及ばない価値観や思想がまだまだあるという事実は、心理的にすごい開放感があります。
物事に対して否定的な解釈は幼い子供でもできます。例え逆説的な考え方になったとしても、ネガティブな事象の中にどのくらいポジティブな要素を見つけられるかで、人間は生きていけるか、そうでないかが決まる。しかし、そういう価値観は他人に押し付けられるものでもないし、押し付けるものでもない。現代アートもあらゆるジレンマを内包して、微妙な足場でギリギリのバランスを保って存在しているのかもしれません。
BankARTと黄金町エリアの話は、次回の記事にでも、もうちょっと軽いノリでさらっと書こうと思います。
ではでは、長文失礼しました。

aki
ここで「作品の具体化」というワードが出てきたので、空間と作品の関係の話は置いておいて、いくつか展示作品そのものの話をしましょう。
個人的に今回のトリエンナーレでおもしろいと思った作品は、アクラム・ザタリ氏の≪彼女に/を + 彼に/を≫という作品と、メルヴィン・モティ氏の≪ノー・ショー≫です。
どちらも映像作品ですが、この二つは今回の展覧会タイトルである「世界の中心には忘却の海がある」という部分を、非常に理性的に作品内に落とし込んでおり、同時に鑑賞者は直感的に悟ることができるという、作品としてとても洗練された内容になっていました。
映像と言うのは、視覚、聴覚、時間を同時に演出することが出来る、非常に優れたツールですね。情報量の表現が幅広い。
さて、先に良作と思った作品を上げましたが、ある意味今回のトリエンナーレで一番印象深かったのは、おもしろい作品とは逆に「直接的なマイナスの印象を受けた作品」があったことです。
私は普段、あまり作品に対して悪い意味でのマイナスの印象を覚えません。例え自分の感性が及ばない内容でも、作品がそこに存在することの価値は揺るがないと感じているからです。「どんな内容でも、作品としての価値が確かにあるんだ」というのが、私が何かを鑑賞する上での根本的な考え方であり、自分の考えが及ばない所で、その作品に影響を受けた人がおり、その作品に救われている人間がいるのだと、そう思ってきました。だからどんな作品においても、共感はできなくても否定はしないと。
しかし今回、第10話:洪水のあと(仮題)で展示された「福岡アジア美術トリエンナーレ」の過去作品の中でいくつか、「これは美術として認めたくない」という感想を強く抱かせる作品がありました。いえ、正しく言うと、孤立した作品ひとつひとつに抱いた印象というよりは、その発表エリア全体に対して抱いた印象という言い方が正しいかもしれません。
それらもまた映像作品でしたが、はっきりいうと完成度はどれも高いものだったと思います。しかし、完成度が高いからこそ明確に浮かび上がる作者の意図が、あまりにもネガティブ過ぎると感じました。
映像の内容は、主に資本主義が抱える闇について言及したものです。
コンセプトとしては、横浜美術館エリアに展示されていた≪釜ヶ崎芸術大学≫も、≪たった独りで世界と格闘する重労働≫という作品も、同じように資本主義社会に対する内容のものでした。昨今では決して珍しいコンセプトではありません。



私は芸術、広くいうと創作全般において、「どこかで誰かを救うものであるべき」という価値基準を持っています。
それが知らない他人でも、友人でも、家族でも、そして自分自身でも良い。それを生み出したことで、どこかの誰かの肩の荷がふっと下りる。孤独感から救われる。過去の後悔を昇華できる。皮肉でも、逆説的でも、どんな形でも良いから、誰かの救いになる。それが、創作が内包する、限りなく潜在的な部分に近い価値だと考えています。
第10話に展示されていたアジアの映像作品は、時代が生み出した闇、時代の裏で苦しんでいる人がいるという事実、その人たちがどのくらい劣悪な環境にいるか、人間が起こした過去の過ち、それらが極めて丁寧に表現されています。その着眼点に問題は感じません。世界中の目を背けたくなる現実を突きつけるのも、芸術が担っている役目の一つだと思っています。
問題はその作品たちが、どれも現実や過去を嘆いている、もしくは責めているだけで、未来なんて見ていないという印象を鑑賞者に与えていることです。私はこれらに対して、鑑賞者も、題材に取り上げられた人々も、そして制作している作者本人も、誰かを救うことのできるものには成りえないと思っています。ネガティブな映像が見る側の心を揺さぶり、僅かでも世界に波紋が与えられれば良い、という解釈があるかもしれませんが、正直これらの作品で揺さぶられる感情はどれも、未来へと繋がるものではないと思います。そして未来へと繋がらなければ、結局現実を変えることなどできない。
この空気を纏うものが、例えば多くある作品のうちのひとつであったなら、おそらく私はそんなに問題視しなかったかもしれません。しかし、今回のはあまりにも「アジアの色」としてその空気が濃厚過ぎました。同じアジア人として、アジア全体の創作の空気がこの流れならば、これは非常に嘆かわしいことです。後ろ向きに歩いて、自分が転んだ跡を「あれは痛かった」と嘆き、そしてそのまま後ろ向きに歩き続けるから、また転ぶ。その連鎖を繰り返すのかと。
第10話はどれも、確かに良質な作品ではあったけれど、あのエリアを美術展とは認めたくない。それが私の抱いた感想です。
しかしだからこそ強く印象に残っているというのが、またなんとも…。
と、つらつら述べてみましたが、全体を通したら非常に中身のある面白い内容でした。ヨコハマトリエンナーレを見たのは今年で3回目ですが、今まで一番中身をじっくり鑑賞できたので、すごく自分自身の刺激になったと思います。
しかし多くの作品を見れば見る程、自分の頭がいかに固く、視野が狭いか見せつけられます。それはそれでへこむのですが、自分の考えが及ばない価値観や思想がまだまだあるという事実は、心理的にすごい開放感があります。
物事に対して否定的な解釈は幼い子供でもできます。例え逆説的な考え方になったとしても、ネガティブな事象の中にどのくらいポジティブな要素を見つけられるかで、人間は生きていけるか、そうでないかが決まる。しかし、そういう価値観は他人に押し付けられるものでもないし、押し付けるものでもない。現代アートもあらゆるジレンマを内包して、微妙な足場でギリギリのバランスを保って存在しているのかもしれません。
BankARTと黄金町エリアの話は、次回の記事にでも、もうちょっと軽いノリでさらっと書こうと思います。
ではでは、長文失礼しました。

aki
ヨコハマトリエンナーレ感想①現代アートにおける作品と空間の矛盾
どうもこんばんわ遊木です。
今回は前々から予告していたヨコハマトリエンナーレの感想を含めた、現代アートのあれやこれについて書こうと思います。
ちなみに3日間かけて、「横浜美術館⇒新港ピア⇒BankART⇒黄金町エリア」というルートで回りました。日程の関係でトリエンナーレの8話のライブインスタレーションは見れていませんが、都合がつけば11/3の「消滅のためのラストショー」の前に見に行きたいなと思っています。
3日は8話⇒ラストショー⇒スマートイルミネーションという流れで見られたらベストですね。
さて、ヨコハマトリエンナーレ2014の感想ということですが、数日前に須々木氏がタイトルやコンセプトについての考察を長々書いていたので(2014/10/27)、私はもっと個人的で独善的な感想を書いていこうと思います。
ちなみに取り上げた作品について、ひとつひとつコンセプトなどの説明は入れていきませんので、気になる方は公式サイトなどと並行して見て頂くと良いかもです。
ヨコハマトリエンナーレ2014
華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある

第一に感じたのが、展示作品と横浜美術館のミスマッチさです。
入館したことがある人はわかると思いますが、横浜美術館はもともと中世、近代芸術の展示に向いている、一般人がまず初めに思い浮かべるであろう、小奇麗な、所謂「美術館らしい美術館」の構造をしています。
そんな建物の、入館して目の前の中央ホールにどーんと設置されていたのが巨大なゴミ箱。

「世界の中心には何がある?」
現代アートにしては非常にストレートで、わかりやすい表現です。序章として、まずこの展覧会のコンセプトを印象付けるには良い設置なのではないかと。
でもおそらく、現代アートの素養がない人が説明なしにこの作品を見たら、「なんで美術館に来て、いきなりゴミの山を見せられなくてはいけないの?」と思うでしょう。
私はその感想こそが、ある意味現代アートの現状を物語るのに相応しい感覚だと思っています。
今回のトリエンナーレ作品に限らす、現代アートは常に、「これが芸術なの?」という疑問を世界からぶつけられ続けている。


美しい、刺激的、感動する…芸術には潜在的な価値があり、それらに触れることで、人間もまた自身の価値を上げていく…私は「人が芸術に触れる行為」は、自身の存在価値を高めたいという無意識の衝動の現れだと考えています。もちろんそれは、芸術に限ったことではありません。あまり多くの人がやらないこと、知ろうとしないこと、特に狭いジャンルに積極的に触れていく行為は、総じて心のどこかに「集団の中において特別でありたい」という欲の現れだと思っています。
そして空間は、人間の「価値ある存在でありたい」という欲を満たすうえで、非常に重要な役割を担っていると言えます。簡単にまとめると、例えば美術館なら、「価値ある作品を、それが設置されるに相応しい場所で鑑賞している」という、ある種の特権的感覚を与える装置のひとつになっているということです。
しかし、私は物事には潜在的な価値はないと考えている派です。芸術においてもまたしかり。物事の価値は、それを取り巻くあらゆる事象が複雑に絡み合い、“そう”であると後付されるものだと思っています。
けれど多くの人が、世界が「価値がある」と判じているものに対して、「これはもともと価値がある存在なのだ」と勘違いし、「何故それに価値があるのか」という考えに至っていないように思えます。そしてそれは、美術界においても同様です。
脱線しましたが何が言いたいのかと言うと、私も感じた「横浜美術館と現代アートのミスマッチさ」、「美術館にゴミ山があるのはおかしい」という感覚は、無意識にある人間の価値基準と、現実にそこにある世界とのズレによるものなのではないでしょうか。
すごくざっくりまとめると、現代アートは専門的な勉強をしていない人が見ても、多くの人が求めている「芸術的価値」を発見できない。美しい、刺激的、感動できる、といった、この世界に広く保障されている価値が、現代アートからは感じられない。だから、美術館にあるのは“おかしい”と感じる。そして横浜美術館は、中世、近代芸術(=多くの人に潜在的価値があると認識されている)をより良く見せやすい空間だからこそ、そこに生まれるズレが見立ちやすい。



では、現代アートには美術的価値はないのか。
そんなことはもちろんないと思っています。むしろ、根深い中世、近代芸術の価値基準に迎合せず、あくまでも「何かを生み出すこと」という根源的な意味に挑戦し続ける姿勢は、美術よりさらに広い、創作世界において非常に重要なジャンルと言えるでしょう。
さて、私が何故展示作品そのものではなく設置空間についての話題を出したかと言うと、トリエンナーレの二つのメイン会場を見比べて、現代アートが抱えるある一つの矛盾に気が付いたからです。
まず、横浜美術館に比べて新港ピアの展示は、非常に空間と作品がマッチしていると感じました。コンクリートむき出しの、お世辞にも小奇麗とは言えない空間でこそ、現代アートはその本領を発揮する。そう感じたことがある人は、私以外にもいるのではないでしょうか。
これは昔より価値観が多様化し、アーティストが訴える表現内容の対象が「限られた範囲の人間」ではなく、「あらゆる身分の人間」に変化したことが理由のひとつだと思います。簡単にいうと、アーティストが生み出す作品が、昔より敷居の低さを求める内容になってきたということです。だから美術館のような小奇麗で閉鎖的な特権的空間より、見る側の本能的身分差を感じさせない空間の方が作品が馴染みやすい。
少なくとも私は、新港ピアの方が展示作品の良さを引き出せていると感じました。横浜美術館の方は、どこか居心地が悪いと言うか、尻の収まりが悪い印象を受けました。率直に言うと、空間全体が高飛車すぎる。ここに展示されている作品は、こんな敷居の高い場所では意味がないんだ、という感覚を覚えました。すごく個人的ですが。





さてここで、先に述べた現代アートが抱える、空間と作品についての矛盾の話をします。
現代アートは、より幅広い身分を対象にその制作がなされています。だからこそ多くの人が入ってきやすい、敷居の低い空間がその作品の本領を発揮させる。しかしその一方で、美しい、刺激的、感動的といったかつて重要視されていた人間の本能的価値基準ではなく、コンセプトや制作の舞台裏、歴史、思想などといった理性的価値基準に重きを置くようになったことによって、鑑賞者には独自の知識や感性が必要になってしまいました。まさに、「専門的な勉強をしていないと、その価値がわからない」という流れです。
昔より、沢山の人に見て欲しい。でも、昔より鑑賞には知識が必要。
これが、現代アートが抱え続けている矛盾だと私は思っています。
同じ様な感覚を、松澤宥氏の作品からも感じました。
観念芸術家が美術館や画廊に芸術を占有されることを拒み、「作品の具体化」を否定したのは、おそらく美術はもっと広い世界で、多くの人が触れていくべきものであると考えたからでしょう。しかし具体化を否定したことによって、鑑賞者はアーティストのコンセプトや思想を理解できる人間、つまり独自の知識や感性がない人間以外は、そこに芸術的価値を見出せなくなってしまった。
まるで、矛盾と向き合っていくことこそが芸術の本質なのだと、そう言われているような感覚を覚えます。
感想②に続く
aki
今回は前々から予告していたヨコハマトリエンナーレの感想を含めた、現代アートのあれやこれについて書こうと思います。
ちなみに3日間かけて、「横浜美術館⇒新港ピア⇒BankART⇒黄金町エリア」というルートで回りました。日程の関係でトリエンナーレの8話のライブインスタレーションは見れていませんが、都合がつけば11/3の「消滅のためのラストショー」の前に見に行きたいなと思っています。
3日は8話⇒ラストショー⇒スマートイルミネーションという流れで見られたらベストですね。
さて、ヨコハマトリエンナーレ2014の感想ということですが、数日前に須々木氏がタイトルやコンセプトについての考察を長々書いていたので(2014/10/27)、私はもっと個人的で独善的な感想を書いていこうと思います。
ちなみに取り上げた作品について、ひとつひとつコンセプトなどの説明は入れていきませんので、気になる方は公式サイトなどと並行して見て頂くと良いかもです。
ヨコハマトリエンナーレ2014
華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある

第一に感じたのが、展示作品と横浜美術館のミスマッチさです。
入館したことがある人はわかると思いますが、横浜美術館はもともと中世、近代芸術の展示に向いている、一般人がまず初めに思い浮かべるであろう、小奇麗な、所謂「美術館らしい美術館」の構造をしています。
そんな建物の、入館して目の前の中央ホールにどーんと設置されていたのが巨大なゴミ箱。

「世界の中心には何がある?」
現代アートにしては非常にストレートで、わかりやすい表現です。序章として、まずこの展覧会のコンセプトを印象付けるには良い設置なのではないかと。
でもおそらく、現代アートの素養がない人が説明なしにこの作品を見たら、「なんで美術館に来て、いきなりゴミの山を見せられなくてはいけないの?」と思うでしょう。
私はその感想こそが、ある意味現代アートの現状を物語るのに相応しい感覚だと思っています。
今回のトリエンナーレ作品に限らす、現代アートは常に、「これが芸術なの?」という疑問を世界からぶつけられ続けている。


美しい、刺激的、感動する…芸術には潜在的な価値があり、それらに触れることで、人間もまた自身の価値を上げていく…私は「人が芸術に触れる行為」は、自身の存在価値を高めたいという無意識の衝動の現れだと考えています。もちろんそれは、芸術に限ったことではありません。あまり多くの人がやらないこと、知ろうとしないこと、特に狭いジャンルに積極的に触れていく行為は、総じて心のどこかに「集団の中において特別でありたい」という欲の現れだと思っています。
そして空間は、人間の「価値ある存在でありたい」という欲を満たすうえで、非常に重要な役割を担っていると言えます。簡単にまとめると、例えば美術館なら、「価値ある作品を、それが設置されるに相応しい場所で鑑賞している」という、ある種の特権的感覚を与える装置のひとつになっているということです。
しかし、私は物事には潜在的な価値はないと考えている派です。芸術においてもまたしかり。物事の価値は、それを取り巻くあらゆる事象が複雑に絡み合い、“そう”であると後付されるものだと思っています。
けれど多くの人が、世界が「価値がある」と判じているものに対して、「これはもともと価値がある存在なのだ」と勘違いし、「何故それに価値があるのか」という考えに至っていないように思えます。そしてそれは、美術界においても同様です。
脱線しましたが何が言いたいのかと言うと、私も感じた「横浜美術館と現代アートのミスマッチさ」、「美術館にゴミ山があるのはおかしい」という感覚は、無意識にある人間の価値基準と、現実にそこにある世界とのズレによるものなのではないでしょうか。
すごくざっくりまとめると、現代アートは専門的な勉強をしていない人が見ても、多くの人が求めている「芸術的価値」を発見できない。美しい、刺激的、感動できる、といった、この世界に広く保障されている価値が、現代アートからは感じられない。だから、美術館にあるのは“おかしい”と感じる。そして横浜美術館は、中世、近代芸術(=多くの人に潜在的価値があると認識されている)をより良く見せやすい空間だからこそ、そこに生まれるズレが見立ちやすい。



では、現代アートには美術的価値はないのか。
そんなことはもちろんないと思っています。むしろ、根深い中世、近代芸術の価値基準に迎合せず、あくまでも「何かを生み出すこと」という根源的な意味に挑戦し続ける姿勢は、美術よりさらに広い、創作世界において非常に重要なジャンルと言えるでしょう。
さて、私が何故展示作品そのものではなく設置空間についての話題を出したかと言うと、トリエンナーレの二つのメイン会場を見比べて、現代アートが抱えるある一つの矛盾に気が付いたからです。
まず、横浜美術館に比べて新港ピアの展示は、非常に空間と作品がマッチしていると感じました。コンクリートむき出しの、お世辞にも小奇麗とは言えない空間でこそ、現代アートはその本領を発揮する。そう感じたことがある人は、私以外にもいるのではないでしょうか。
これは昔より価値観が多様化し、アーティストが訴える表現内容の対象が「限られた範囲の人間」ではなく、「あらゆる身分の人間」に変化したことが理由のひとつだと思います。簡単にいうと、アーティストが生み出す作品が、昔より敷居の低さを求める内容になってきたということです。だから美術館のような小奇麗で閉鎖的な特権的空間より、見る側の本能的身分差を感じさせない空間の方が作品が馴染みやすい。
少なくとも私は、新港ピアの方が展示作品の良さを引き出せていると感じました。横浜美術館の方は、どこか居心地が悪いと言うか、尻の収まりが悪い印象を受けました。率直に言うと、空間全体が高飛車すぎる。ここに展示されている作品は、こんな敷居の高い場所では意味がないんだ、という感覚を覚えました。すごく個人的ですが。





さてここで、先に述べた現代アートが抱える、空間と作品についての矛盾の話をします。
現代アートは、より幅広い身分を対象にその制作がなされています。だからこそ多くの人が入ってきやすい、敷居の低い空間がその作品の本領を発揮させる。しかしその一方で、美しい、刺激的、感動的といったかつて重要視されていた人間の本能的価値基準ではなく、コンセプトや制作の舞台裏、歴史、思想などといった理性的価値基準に重きを置くようになったことによって、鑑賞者には独自の知識や感性が必要になってしまいました。まさに、「専門的な勉強をしていないと、その価値がわからない」という流れです。
昔より、沢山の人に見て欲しい。でも、昔より鑑賞には知識が必要。
これが、現代アートが抱え続けている矛盾だと私は思っています。
同じ様な感覚を、松澤宥氏の作品からも感じました。
観念芸術家が美術館や画廊に芸術を占有されることを拒み、「作品の具体化」を否定したのは、おそらく美術はもっと広い世界で、多くの人が触れていくべきものであると考えたからでしょう。しかし具体化を否定したことによって、鑑賞者はアーティストのコンセプトや思想を理解できる人間、つまり独自の知識や感性がない人間以外は、そこに芸術的価値を見出せなくなってしまった。
まるで、矛盾と向き合っていくことこそが芸術の本質なのだと、そう言われているような感覚を覚えます。
感想②に続く
aki