自由な社会というのは人々に精神と身体の自由を認めると同時に、肉体を用いて得た労働の成果を私有財産として取引する自由も認める社会です。もちろん、精神と身体、さらに私有財産の取引の自由には、自由な判断と行動から生ずる結果に対する本人の責任も伴います。精神、身体、私有財産の自由があるということは、身体をどういうふうに使ってどんな成果を得るのかを自分で決めるということです。同時に、労働の成果をどれだけの額で取引するか、また労働の成果と交換して得た収入を、最終的に何と交換するかを自由に決めるということです。
個人の判断次第で、収入が増えて消費できる物資の量が増える結果に至る場合もあれば、逆に収入が減り消費できる物資の量が減る結果を導く場合もあるでしょう。判断の自由を有する個々人は、うまくいった結果だけでなく、うまくいかなかった結果も受け入れなければなりません。
たとえば、有り金を持ち歩いていたら全て飲み代に使ってしまうかもしれないと危険を感じた人が、その金を誰かに預けて、たとえ持ち主である自分が要求しても金を与えないでくれと頼んだとします。この場合、金を預けた人は、自分自身の金の使い方の結末を恐れるがあまり、金を使う自由を放棄したのです。この人は、自由をもてあましたことになります。
しかし、そういう人もいるだろうからといって「良識に欠ける市民は結果を考えないで行動する。今周囲を見渡しても良識ある市民は少ない。今よりも社会を自由にすることは無責任な行動を助長することになるので良くない」と結論付けることは正しいでしょうか。
今回のコラムでは、現在我々の多くが居住している民主主義の国に対象を絞り、今よりも社会が自由になると、市民の良識不足によって人々の生活に悪影響が出るのだろうかということを検討してみます。
まず、多くの物やサービスが税金を使って政府によって提供されている今の現実の社会の仕組みのなかで、市民の良識が発揮されているのかどうかを検討してみます。
我々が住む国では、医療、年金、教育、文化・芸術活動、環境に関する物やサービスを国家が提供しています。民主主義国家では、国民が選挙によって代表を選び、国民の代表によって、国家が国民に提供する物やサービスの種類や量、そしてそれを賄うための税額が決められています。細かく書くと、政府が誰からどれだけ金を徴収して何を誰にどれだけ提供するかということが国民の代表により決められているのです。つまり、民主主義国家では、国民全員が、自らの代表が決めた金額を支払い、国民全員が代表の決定に応じて物やサービスを受け取ることになっています。
政府を介することなく提供される物やサービスに関しては、国民一人一人は、不要なものは買わなければ良いし、必要に応じて自分の予算の範囲内で購入する物やサービスを選ぶことが出来ます。ところが、税を使って政府が提供する物やサービスの場合には、個々の国民には支払いを拒否することは許されないにもかかわらず、その一方で、受け取ることができる物やサービスの選択には制限があります。国民一人一人が支払う金額や受け取るサービスの種類や量を変えたければ、自分たちの代表である政治家を通してそれを変えていく必要があります。
つまり市場では、個々人の購買行動の変化が直ぐに個々人が享受する物やサービスの変化として現われるのに対して、政府が提供する物やサービスを変えたければ、同じ意見を持つ他の人たちと団結して運動を起こし、選挙で特定の政治家を支援し、議会での審議動向を監視し、また役所に陳情をするなどして政治運動に携わらない限り、納税者である国民の意向は反映されません。
ところが、政治運動は労力と費用を必要とするし、運動を始めても成功するとは限りません。一般の納税者にとっては、政府が提供する様々な物やサービスの種類や量を変えるために政治運動に参加するのは大きな負担です。政治運動に参加することができるというのは民主主義制度にだけ許された国民の権利ですが、大きな負担を払ってまで政治運動に携わろうとする人は数が限られるのが現実です。
その一方で、政府事業には必ずその事業を受注する業界が生まれます。受注業界にとっても政治運動に参加するには費用が必要ですが、政府事業内容がどう変わるかによって受注業界の構成員は大きく得をしたり損をしたりするので、たとえ一般納税者なら出来ないような多額の資金を政治運動に投入したとしても、それは充分採算が合うことです。この結果、政府事業の受注業者によって構成された圧力団体は、選挙の時や政府事業が大きな政治問題として取り上げられていない期間であっても、常時、政治家や役所と接触して、審議の動向に影響力を及ぼすように働きかけます。
さらに、政府事業の内容は多岐多様に渡ります。事業の種類が多くなればなるほど事業内容やその改革案の良し悪しを理解するのは難しくなります。まして、一般人にとっては、苦労して政府事業の内容を理解したところで、自分が投ずるのは多数の票の中の一票です。自分の一票の結果が自分が払う税額や受ける政府サービスを大きく変えることがないことが分かっているので、政府事業の内容に精通する努力を払う人は少ないのです。結果として、一般国民の関心が薄い中で、圧力団体やその支持を受けた政治家が、政府事業の改革に関する議論を常時先導するという事態が起ります。この構造の中で、残念ながら、国民全員が支払わなければならない税額やそこから受ける物やサービスの種類と量が、一般の国民の望んでいる内容から逸脱してゆくのは避けられません。
次の選挙の準備に常時追われている政治家にしてみれば、圧力団体の意向を受け入れた形で政府事業の内容を変えその団体が得をするような政府事業の数を増やせば、選挙資金と忠誠度の高い支持母体を確保することができます。政治家は国民の税金を預かっているので、建前上は特定の圧力団体のために働くことがあってはならないのですが、政治家にとって国民から預かった税金は元々他人の金なので、どう使おうが自分自身で責任を取る必要はありません。むしろ、税をばら撒いて自分の支持母体を強化すれば、選挙資金を増やすことができます。政治家が決定する政府事業が増えれば増えるほど政治家を取り巻いての様々な業界による政治運動が活発化します。つまり、政府によって提供される物やサービスが増えれば増えるほど、本来有るべき、国民全体の利益を考えて行動する政治家は生まれにくくなるのです。
圧力団体を作って選挙資金を政治家に寄付したり、また、政治家がそのような団体から選挙資金を受け取ることは合法です。さらに、議員には議会での言動の自由が保障されています。たとえ議員が自分の支持母体を利するように議会で投票行動を行ったとしても、そのこと自体は違法でもなんでもありません。しかし、政府事業のために集められた多額の税の使い道を政治家や役人に任せると、政治家や役人に賄賂を送って事業を受注しようとする業者も現われてきます。政治家や役人にとっては、事業の出費額が受注者の違いによって多少上下しても自分の懐に影響はありませんが、賄賂は自分の懐に入ります。業者にすれば受注事業から見込める利益に較べて賄賂の額は微々たるものです。つまり、政治的に決定する税の使い道の額が増えれば増えるほど、贈収賄の誘惑も増えるのです。
民主主義の下では、国民の一人一人が良識をもって政府事業の内容に目を光らせ、またその改革に参加することが期待されています。ところが上に述べたように、政府監視と政治参加という民主主義国家の国民の責任を果たすことは、多大の労力と費用が必要な割には効果が期待できません。一般国民一人一人の視点からは、自分自身が努力しても国が提供する物やサービスの内容を変えられないと同時に、この責任を怠ったとしても自分自身の受ける利益や被害に劇的な変化が起ることはありません。従って、国民の多くが他の人の政府監視と政治参加の努力にタダ乗りするようになります。その結果、少なくとも建前上は国民のために導入された政府事業が、実際には受注業界を利するために肥大し、そして受注業界は得た利益の一部を政治家に還元することで政府事業を維持するという悪循環を断ち切ることが困難になるのです。
それでは、物やサービスが政府ではなく自由な市場で提供される場合にはどうでしょうか。
国民それぞれは、性別、年齢、年収、家族構成だけでなく、保持する技能や好みや健康状態や経済観念、さらに家族構成員のそれぞれが置かれた具体的状況などが異なります。従って、国民が医療、年金、教育、文化・芸術活動、環境に関する物やサービスを求めていたとしても、具体的に何をどれだけ求めているかは個々人によって違ってきます。上でみたように、政府が提供する様々な物やサービスを、個々人の異なる必要性を満たすように提供出来るような方法を選挙で選んだ代表を通じて決定するのは極めて困難ですが、以下にみるように、物やサービスが市場で提供されている場合には、個人の購買行動の変化が、速やかにその個人が享受できる物やサービスの種類や量に反映されます。
個人個人が別々の物やサービスを選んで購入することは自由だし、安いサービスを選んだ人は安い買い物をした分出費を節約できます。購入する物やサービスの選択の結果が、自分が享受できる物やサービスの質、そして何より自分の懐具合に直接響いてくる分、誰かが強制する必要もなく、人々は真剣に自分で自分の目的に合う質や価格の物やサービスを選べるように情報を集めます。
つまり、市場で個々人が自由に物やサービスの選択を行う状況では、個々人は社会全体の福祉を吟味検討する必要もなく、また、政治運動に多大の時間と労力と費用を投ずる必要もなく、思い思いに自分の必要性に応じた物やサービスを選択して購入すればよいだけです。ここで、消費者が自分の必要性と予算に合った物やサービスを選択するために「公徳心」は特に要求されません。さらに、消費者が望む物やサービスを供給するためには民間会社にも特に「公徳心」は要求されません。消費者が必要としないものを作っている会社は倒産し、消費者が望むものを作っている会社は成長してさらに消費者の望むものを作ります。個人にしても企業にしても、ただ利益を追求すればよいのです。
今政府によって提供されている様々な物やサービスを人々が自ら選択して購入するようになっても、例えば年金のように、自分に合った選択をするためには一定の予備知識が必要なサービスがあります。しかし、自分が購入する物やサービスの選択如何で直接影響を受ける個人にとって、その影響の大きさに応じて情報獲得に時間と労力を割くことは割に合わないことでは決してありません。個々人が年金を自分で選択することが当然のこととなっている社会では、人々は年金に関する情報を常に意識して収集するので、人々の選択に役立つ情報を、例えば三ツ星企業とか五つ星企業などというように消費者に分かりやすい形で紹介する様々な情報商売も生まれます。人々にしてみれば、専門知識を習得して物やサービスそのものの内容を理解しなくとも、情報を提供しているこのような団体の信頼度に注目すればよいのです。
もちろん民間の年金の制度が運用を誤って破綻することもあるでしょう。しかし、政府に強制的に加入を命ぜられている年金の制度にしても破綻する可能性があります。もし政府の制度が破綻するような場合には、個々人の判断でその破綻の影響を避けることは非常に困難です。少なくとも個々人が選択できる制度なら、個人の裁量が危険の回避に結びつくので、民間の諸制度の間に選別が起ります。
ただ、年金制度への加入などを個々人の自由に任せた場合には、自分が高齢に達した時に備えての準備を怠るという人は残念ながら出てくると思われます。国家の年金制度だけでなく生活保護の制度も存在しない社会は、こういう人たちにとって冷たい社会になるでしょうか。最後にこの問題について考えてみます。
現在のように国家の年金の制度やまた生活保護の制度があれば、生活に困っている見知らぬ人が助けを求めていることを知っても、多くの人が「自分はそのような人たちを助けるために自分が払わなければならない分は既に国家に収めているのだから、国家から援助を受けてくれ」という態度を取ったとしても不思議ではありません。また援助が必要な人の中にも、「自分は国民の一人なのだから困った時には国から援助を受けてしかるべきだ」と考える人もあるでしょう。色々なしがらみのある家族に世話になるよりも「国」、つまり見知らぬ人たちが払う税の世話になるほうが気が楽だと思う人もいるでしょう。
しかし、国家による年金や生活保護の制度がそもそも存在しないという場合には、まず年金への加入など自分で準備を怠らないようにするという動機付けが人々の間に生まれます。憶測を交えますが、そのような社会では他人の援助を必要とする人が今よりも減少すると私は考えます。なぜなら、国が救済して当然という考え方が常識となっている社会では、自ら何かあったときのための準備をするという行動を起こす人は比較的少ないでしょうが、その逆の常識の社会では、そのための準備をするということが多くの人の人生設計に含まれるようになるからです。
また、政府が生活保護などに使う予算がなければ、人々の税負担は今よりも軽いはずなので、個人的に困った人を助けてあげるために使うお金の余裕は今よりはある筈です。もちろん、だからといって多くの人が困った人を助けようとはしないかもしれません。しかし、国家による援助を当てに出来ない場合には、なんらかの事情で人の世話にならなければならなくなる危険性は全ての人にあります。この状況で、困った人たちを人間は放置するでしょうか。ここでも憶測を交えますが、国による援助の制度がなくなれば、人々の善意、または、困った時はお互い様という精神による救済の制度が今よりも発達するのではないかと思われます。
困った時に一番当てになるのはまず家族、次ぎに親戚や親しい友人でしょう。国家による最終的な生活の援助がなくなると、親子関係や家族関係などの人間関係が微妙に影響を受けるでしょう。つまり、親子関係や家族の関係をより良く保とうという努力が今よりも払われる可能性があります。
以上をまとめると、政府によって物やサービスが数多く提供されるようになると、実は、民主主義国家において国民に求められている政治参加はおろそかになり、政府の事業が国民が求める内容から逸脱してゆく傾向があります。それに反して、現在政府によって提供されている物やサービスを国民の一人一人が市場で購入出来る自由が拡大すれば、一人一人は自己犠牲を強いられずとも、自分に合った選択を行って目的を達成することが出来るようになります。
さらに、国家による年金や生活保護の制度がなくなるという場合を想定しても、自助努力が促され、人々の間の助け合いの精神が伸張するので、今よりも弱者に冷たい社会になることはないでしょう。自由な社会では人々の間に現在よりも良識があることは必要ではなく、さらに、自由が人々の間に良識を育てるだろうというのが私の予想です。
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