自由な市場では賃金は下がり続けない (3): 賃金を下げ続ける低金利政策 | 古典的自由主義者のささやき

古典的自由主義者のささやき

経済の問題は、一見複雑で難しそうに見えますが、このブログでは、経済学の予備知識を用いずに、日常の身の回りの体験から出発して経済のからくりを理解することを目指します。

人間は常々、豊かになるにはどうすればよいかということを考えながら生きている動物です。人間は自給自足生活をしていても、同じ労働量あたり出来るだけ多くのものを消費出来るように工夫するし、また同じ量のものを生産するなら出来るだけ楽をしてその分自由時間を作ろうとします。

そんな人間が他の人とものの交換が出来るようになると、同じ労働量でさらに多くのものを生産しようとします。自分が育てた小麦を自分だけで消費している人は、一人で食いきれないほどの小麦を増産し続けることはありませんが、余った小麦を人と交換して他に欲しいものが手に入るなら、人間は自分では食べきれない量の小麦を生産するために精を出します。

ものの交換があくまで交換する者同士の合意のもとで行われるなら、小麦との交換で他のものを得ている人は、より多くのものを得るためにより多くの小麦を人に提供出来るように努力します。もちろん、より多くの畑を耕すことで小麦の増産が達成できますが、人間が一日に働ける時間は限られているし、そもそも野良仕事自体が骨の折れる作業です。人間は楽をしたがるものなので、できれば単位労働時間当たりの小麦の収穫量、つまり生産性を上げようといつも考えています。自分の生産性が上がって他の人に提供できるものの量が増えれば、交換でより多くのものが得られます。そして、だれかが生産性を上げるいい方法を見つけたら、周りの人はすぐそれを真似します。人間の創意工夫と努力によって、一つの産業だけでなく社会の全ての産業で生産性が上がってゆきます。

しかし、このように社会の生産性が上がるためには、交換が個々人の自由意志によって行われることが重要です。なぜなら、他の人からものを強奪したり、他の人を強制労働に従事させて成果を奪うことが出来るなら、人間は奪うことに熱心になり、生産性を高めるための努力を怠るようになるからです。

さらにもう一つ重要なことは、人々が交換に従事して必要なものを得ている社会では、交換相手の生産性が上がると、自分の生産性が上がってなくとも自分が得られるものが増えるということです。例えば、小麦を生産する自分の生産性が上がらなくとも、衣類を生産している人の生産性が上がれば、その衣類製造業者は今までと同じ量の小麦に対して今までよりも多い衣類を交換するようになります。なぜなら、衣類の生産性を倍にした人が衣類を以前より少しだけ値引きして提供するだけで、人々が競ってこの人と自分の生産した小麦や野菜や肉などを交換したがるからです。つまり、この衣類製造者が自身の生産性を上げただけで、この人と小麦や野菜や肉を交換する人までが今までよりも余分に衣類が得られるようになります。

交換相手の生産性が高まれば、自分の生産性が上がっていなくとも今までに較べると余分にものが得られるようになるのは、労働力を人に提供している場合も同じです。例えば、小麦農家がコンバイン収穫機などの農業機械を導入すれば、小麦の生産性は格段に上がります。そうすると、小麦農家に労働力を提供して賃金を得ている人は、自分の小麦を刈り取る能力が上がっていなくとも、今までのように腰を曲げて鎌を使って麦を刈らずにコンバインを操作するという比較的楽な仕事をして、今までに較べて多くの賃金を得ることが出来るようになります。なぜなら、機械を導入して生産性を上げた農家にすれば、一人当たりに対して今までよりも多額の賃金を払って人を雇っても割が合うし、また他の農家全員が機械を導入すれば、自分のところの農業機械を操作してくれる人を雇うために他の雇い主との雇用競争に打ち勝つ必要があるからです。すなわち、社会の生産性が上がれば、たとえ働く人本人の能力が向上していなくとも賃金は上昇するのです。

もちろん、小麦生産の機械化が進めば、生産性が上がるのと同時に、必要とされる人の数は減少するでしょう。しかし、その社会における他の産業でも同時に生産性が上がっていれば、あらゆるものの価格が下がっています。安くなったものを消費して生活費が浮いた分、人々の消費は増え、人々は今まで消費していなかった新しいものでさえ消費するようにもなります。新しい物を作る新しい産業が生まれ、その産業が新しく労働力を求めます。新しい産業で労働力が不足していると、そこの中での賃金が上がります。高い賃金を求めて、農業など少ない労働力で済むようになった産業から、新しい産業に労働力が移ります。もしも、新しい産業で仕事を求める人が増えすぎると、この産業での賃金が下がり、人々は他のより賃金の高い産業に移って仕事を求めようとするのです。

もちろん新興企業にの中には期待したほど顧客がつかなくて倒産するところも出てきます。しかし、取引が自発的に行われる限り、自分を豊かにしないものを人々は購入しません。人々が望まないものの生産はそれを生産していた企業の倒産によって中止されます。つまり、「倒産」があることで、人々が望むものを人々の手の届く価格で生産する活動だけが生き残り、社会の生産性が確実に上がり続けるのです。倒産とは、生産性を上げない活動を「間引く」ことで社会の生産性が下がることを防ぐ歯止めなのです。

以上、人間が自由に労働力や労働の成果を交換できる社会では、社会全般に渡って生産性が上がるという過程を見ました。生産性とは単位労働時間当たり生産出来るものの量ですが、ものの価格は、交換を通じてものを得ようとする人の労働量で測られます。生産性が上がるということは、同じ労働量と交換して得られるものの量、つまり賃金が上昇するということです。つまり、自分が豊かになるために生産性を上げる工夫と努力を常に怠らないという人間の性質と、労働力や労働の成果を個々人の間で交換する自由が保障されているという二つの条件が満たされている限り、多少の上下の変動を経験しながらも、人間社会は生産性を上げて賃金を上げ続けるのです。


ところで、政府は景気を回復させ失業者を減らすことを目的として、経済政策を実施しています。その中に「中央銀行の低金利政策」や政府が税や国債の販売で得た資金を投資する「公共投資」があります。今回は、中央銀行の低金利政策が社会の生産性の向上を妨げていること、つまり賃金が上がるということを妨げていることを説明します。そして、シリーズ最終回の次回は、政府の公共投資政策の影響を検討します。


まず、法律によって業務内容を規定され、また首脳を政治家によって任命されている中央銀行は、法定通貨(法貨)である中央銀行券の発行量を調節することで、社会の金利を操作します。法定通貨とは、社会の構成員が商取引の際の使用を法律によって義務付けられている通貨(ある国に流通しているお金)のことです。人々は、商取引をするときに代金として差し出された法定通貨の受け取りを拒否することを法律で禁止されているのです。つまり、法定通貨の制度は人々の取引の自由を制限しているということです。

中央銀行は市中銀行と呼ばれる民間の銀行に通貨を貸し出し、市中銀行はその通貨を企業などに貸し出します。企業は、銀行から借り入れた通貨を生産設備を増やすなどの投資に使います。企業が投資を増やすということは、工場を建てたり、機械を買ったり、人を雇い入れたりすることですが、この過程で、工場を建てる人や機械を作る人もさらに雇われます。また雇われた人が生活に必要なものを購入するので、これらのものを生産販売している人も潤います。

中央銀行が景気を上昇させたい時、つまり多くの人が雇われるようにしたい時には、企業の投資を増やすことを目的に、市中銀行に貸し出す金の利率を下げます。そうすると、市中銀行はより多くの金を中央銀行から借りて、それまでよりも低い利率で企業に金を貸し出します。企業は低い利率で多くの金を借り入れるので、それまでよりも投資を増やします。投資を増やす企業に雇われる人の数が増えて、社会の失業が減るだろうというのが中央銀行の目論見です。


ところが、中央銀行が金利を下げたことで企業の設備投資が増えたとしても、実際には、この投資の増加分は社会の生産性の向上には結びつかずに無駄になることが多いのです。まずこの理由を説明します。


金利が下がるということは、借金をしてもそれが長期にわたって雪達磨式に膨らむ率が低いということです。従って、金利が下がれば、当然、下がる前の金利では投資の見返りが期待できなかった設備投資でも割が合うようになるだけでなく、それまで失敗のリスクが大きかったために見送られていた大規模で長期にわたる投資プロジェクトが魅力的になってきます。つまり、金利が下がることで、それまで手が出されていなかった失敗する危険性の高い大規模な長期プロジェクトへの投資が増えます。

金利の調整という役割の他に、中央銀行には、預金者が市中銀行に預金を引き出そうとして一気に殺到する「取り付け騒ぎ」が起こった時に、通貨を増刷して市中銀行を倒産から救う「最後の貸し手」という役割もあります。つまり、市中銀行は中央銀行によって倒産の危機から保護されています。しかし、自身の倒産の危険が減ることで、貸出先である投資プロジェクトの成功と失敗の可能性を見積もる銀行家の算段は甘くなります。危険なプロジェクトに投資をしても、うまくいけば自分の儲けになり、たとえ失敗したとしても中央銀行が救ってくれるなら、銀行家は当然のことながら、失敗する可能性は高いけれど成功した時の実入りの大きいプロジェクトを選ぶようになります。

また、銀行が倒産する危険があれば、銀行にとっては経営状態の健全さが預金者を引き付ける重要な要素です。しかし、倒産に危機から守られていれば預金者は銀行の経営状態に注意を払わなくなります。銀行にしてみれば危険な貸付をしても預金が集まらないという心配はなくなります。


また、銀行が倒産の危機から守られていると、銀行同士の間での金の貸し借りの関係が密接になり、経営が思わしくない銀行にも他の銀行が金を貸すようになります。つまり、銀行同士の相互依存が高まります。その結果、一つの銀行が倒産の危機に陥ると、その銀行に金を貸している多くの銀行も同時に経営危機に陥るという共倒れが生じます。

銀行が中央銀行によって倒産の危機から守られていない場合には、投資家や預金者は銀行の倒産によって自分の投資や預金を失わないように、金を幾つかの異なる銀行に分散し、一つの銀行の倒産によって有り金全部をなくす危険を減らすようにします。従って、銀行に倒産の危険がある場合は、投資家や預金者は社会の全ての銀行が相互に依存しているような状態を許しません。しかし、中央銀行によって市中銀行が倒産から守られている状態では、投資家や預金者は相互に深く依存している銀行に有り金を託すことに不安を感じなくなります。共倒れの危機に陥っても中央銀行が助けてくれると思うからです。

そして、銀行の相互依存が高まれば、一つの銀行の経営危機で銀行業全体が共倒れに陥る可能性が高くなるのですが、銀行の共倒れが起ることを避けたい中央銀行は、銀行を倒産から守る努力を強化します。

それに倒産に危険がなくなると、銀行は成功が確実だが実入りの小さい小さな投資プロジェクトを一つ一つ手間暇をかけて選択するよりも、多額の預金を集めて、実入りが大きい大きい投資を行おうとします。こういうことが出来るのは大きな銀行であり、収益の大きな銀行は小さな銀行との競争に勝ち、さらに大きくなります。また、倒産の際の社会的影響が大きい大銀行は、倒産の危機に瀕したときにも救済される公算が高いので、預金者にしても、有り金の全てを銀行預金にしたり、また一つの大銀行に有り金全部を預けるようになります。

要するに、中央銀行のおかげで、社会の中で数少ない大銀行が社会の貯蓄と中央銀行からの借入金を集約することが可能になり、その集約した資金を、中央銀行によって下げられた金利で大規模かつ長期にわたる投資プロジェクトに危険を顧みることなく投資するようになるのです。結果として、多額の資金を投入したにもかかわらず期待しただけの消費者の購買が得られずに、投資としては失敗に終わるプロジェクトが生まれてきます。これが、低金利政策によって促進された企業投資が、社会の生産性の向上に貢献せずに無駄になることが多い理由です。


つまり、中央銀行は景気を回復させて失業を減らす目論見で金利を下げたのですが、低い金利で貸し出された資金は、消費者が求めていないものを生産するための無駄な投資に使われたのです。この無駄を正すには、失敗した企業の早期倒産を促し、無駄に使われている生産設備や人材などの資本が人々が求めるものの生産へ転換されなければなりません。

しかし、投資プロジェクトが大きければ大きいほど、失敗した時の影響が大きくなります。プロジェクトだけでなく、下請けや孫請けの会社も倒産し多くの人が失業します。失業した人が失業前に必要なものを購入していた店も買い手が無くなって倒産します。それに、投資を回収できなくなった銀行が経営難に陥るのですが、銀行同士が相互依存している状態では、一つの銀行を倒産させると銀行業全体が危機に陥ってしまいます。そうなれば、それらの銀行と取り引きをしている多くの企業の経営に支障を来たします。その結果、社会の広い範囲で倒産と失業がさらに増えます。つまり、失敗であることが明らかになった巨大プロジェクトの倒産を許すと、景気が後退する可能性が出てくるのです。

消費者が求めていないものを作るための設備の建設と維持は出来るだけ早く停止する必要がありますが、倒産は失業という苦しみを伴います。この苦しみを先送りするために、中央銀行はさらに金利を下げて、成功の見込みが既に無くなった投資プロジェクトの延命を図ります。これは苦しみを先送りすることで将来の苦しみを増大させる「迎え酒政策」です。経営難に陥った企業は、銀行からさらに低金利になった融資を受けてとりあえず倒産を免れます。しかし、金利がさらに下げられたことで、それまで採算の見通しが立たなかった他の危険なプロジェクトにさらに投資がなされるようになります。その中には、やはり消費者の需要を獲得できない失敗プロジェクト候補が含まれています。その結果、さらに多くの資本が社会の生産性を上げることなく無駄になるのです。

この状態で大きな投資プロジェクトや大銀行が、天災などの要因が引き金になって破綻すると、その影響が社会全体に波及し、景気が急激かつ大幅に後退する恐慌が引き起こされる可能性があります。要するに、景気の後退を避けようとする低金利政策と中央銀行は、社会の生産性向上を妨げるだけでなく、大きな景気後退の原因でもあるのです。


繰り返しますが、中央銀行の低金利政策によって多くの資本が無駄な投資に使われた後には、生産性の向上が再開されるためには、これら多くの資本が消費者が望むものを作るために社会の中で再編成される必要があります。そのためには、生産設備や原材料、労働力などの資本が、現在の無駄な使用目的から解放される必要があります。

つまり、多くの企業が倒産し、多くの工場や工作機械が売りに出されて価格が下がります。くず鉄にしかならず永久に無駄になる投資もあるでしょう。また失業者が一時増加して、限られた数の職をめぐって失業者が争う結果、賃金が一旦下がることは避けられません。倒産と失業者が多い時に、財布の紐のかたくなった消費者が望むものをどうすれば安く生産できるかを考えるのは容易ではありません。しかし、資本の価格が下がっていると、つまりデフレーションが起っていると、新しく起業するのが比較的容易になります。多くの人がアイデアを出して投資家の賛同を得た上で企業を起こし、さらにそれらの企業の中で一部が生き残り、残りは倒産するという過程を通じて初めて消費者が望むものが消費者の望む価格で生産されるようになるのです。

顧客を掴むことに成功した企業は成長を続け雇用を増やします。失業者が減り始め、賃金の下降が停止します。職を得た人の消費で他の企業の収益も上がり、さらに雇用が増え賃金が上昇を始めます。これが景気の回復です。

景気の大幅な後退が起こる前に既に金利がゼロ近くまで下げられていると、中央銀行はこれ以上金利を下げることは出来ません。この場合、低金利政策は景気回復策としては無効となります。たとえ、まだ金利を下げることが可能であっても、低金利は単に社会全般に渡って投資を刺激し、成功失敗に関係なく投資事業を無差別に延命するだけで、生産性を上げる投資だけを選りすぐる機能はありません。消費者が望むものを望む価格で提供するという困難な仕事は、進取の気性と倒産を覚悟の上で起業する人のみが成し得ることです。中央銀行の低金利政策は、この困難な仕事の肩代わりをする「魔法の杖」にはなり得ません。


中央銀行の低金利政策は、景気の後退を食い止めることによって失業と賃金の下降を防ぐという建前のもとに実施されるのですが、上で検討したように、低金利政策こそが景気の大幅な後退の原因なのです。景気が落ちこんだ後でさらに実施される低金利政策は、社会の資本が無駄に使われることを助長し、社会が生産性を高めるのを妨げる「迎え酒」です。法定通貨の制度は取引の自由を制限することで、中央銀行が金利を操作することを可能にしています。低金利政策は、経営難に陥った企業や投資プロジェクトを延命することで、社会の生産性が下がるのを防ぐ「倒産という歯止め」を取り除いているのです。

シリーズ最終回の次回は公共投資を扱います。


以前のコラムも合わせてご覧下さい。
「貯蓄・銀行・中央銀行 (1) - 貯蓄と経済成長」
「貯蓄・銀行・中央銀行 (2) - 銀行の役割」
「貯蓄・銀行・中央銀行 (3) - 貨幣水増しの初期症状」
「貯蓄・銀行・中央銀行 (4) - 貨幣水増しの中期症状」
「貯蓄・銀行・中央銀行 (5) - 貨幣水増しの末期症状」
「貯蓄・銀行・中央銀行 (6) - 有害な中央銀行がなぜ存在・存続するのか?」
「GDPの誤謬 (1): GDPは何を何のために測っているのか?」
「GDPの誤謬 (2): データ崇拝主義」



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