お金と貝の話 | 古典的自由主義者のささやき

古典的自由主義者のささやき

経済の問題は、一見複雑で難しそうに見えますが、このブログでは、経済学の予備知識を用いずに、日常の身の回りの体験から出発して経済のからくりを理解することを目指します。

以前のコラムで貨幣の誕生について考察したことがあります。その中で「タカラ貝が貨幣として使われていた社会があるそうですが、この社会は、近くの海辺に行けば、タカラ貝がわんさか転がっているようなところではないはずです。」と書きました。先日、ある本(1) の中でメラネシアでお金として使われていた貝の話に偶然出会いました。長くなりますが以下に話の全文を引用します。

「安田徳太郎氏の書かれたもののなかに「貝のインフレ防止策」という一節がある。
 メラネシアのヨーク公島では貝のおカネが通用している。だが、この貝のおカネの材料であるムシロ貝は、このヨーク公島ではとれない。それは海上はるか遠いナカナイの海岸でとれる。ところがおもしろいことに、このナカナイの原住民が使うおカネはこのムシロ貝ではなく、自分の島ではとれないベレという貝であり、これは逆にヨーク公島でとれるものなのだという。
 年に一度、海がなぐ季節がくると、ヨーク公島の住民は一番大きい丸木船に乗り、品物と一緒に自分のところでとれたベレの貝を持って、一ヶ月以上もかかってナカナイの海に近づき、海上で物々交換を行い、ナカナイのムシロ貝を受けとって帰ってゆくという。
 自分のところでたくさんとれる貝は、自分の島での貨幣にはならない。もしそんなことをしたら、たちまち購買力が爆発して物の供給が追いつかず、インフレになってしまうだろう。そこで自分の島ではとれない貝が貴重であるゆえに貨幣になり、互いに交換することによって、絶えずその増加が抑えられ、コントロールされ、インフレにならず、経済の安定が保たれている。」

今回はこのメラネシアの貝の話から初めて、どういう条件を満たす「もの」を人間が貨幣として選択するのか、また人間が貨幣に求める役割とは何かを考えてみます。

 私がヨーク公島の住民であれば、周囲の島民が価値を置くムシロ貝をナカナイというところまで行って沢山獲って帰ってきます (2) 。そうするとヨークの島民が生産する物やサービスを大量に購入出来て私は豊かになれるからです。ヨーク公島やナカナイは我々の住むような高度に産業化された社会ではなくとも、そこに住む人々には我々と同じような「欲」があるはずです。つまり、島民も私と同じ事を考えるに違いありません。

島民の多くが私と同じことをしてナカナイからムシロ貝を沢山持ち帰ってくるとヨーク公島ではムシロ貝という貨幣の量が増大します。ヨーク公島では物やサービスの全てに「ムシロ貝何個」という価格が付いているはずですが、生産される物やサービスの量が増えないのに流通するムシロ貝の量だけが増えると、物やサービスの「ムシロ貝の数で表された価格」が上昇します。逆に言うと、供給の増えたムシロ貝の価値が下がるのです。これは林檎の供給量が増大すると林檎一個の価値が下がるのと同じです。

要するに、島民が競ってナカナイからムシロ貝をどんどん持ってくると、物価が上昇を続けるインフレーション(インフレ)が起ります。たとえ自分たちの島で獲れない貝であっても皆んなが一斉に貝を獲りに行ったならインフレは防げません。ヨーク公島にはムシロ貝を貨幣として使わなければならないという法律はないでしょうから、ムシロ貝で貯蓄をしていても貯蓄の価値が目減りするので島民はムシロ貝を放棄して、何か他のもっと「長い間価値を維持するもの」を求めます。そうして、インフレが起ることによってムシロ貝は貨幣としての地位を失います。

ところが、上記のお話ではヨーク公島のインフレは抑制されています。なぜでしょうか。まず、上に引用したお話の中に、一年に一度、海が凪ぐ季節に一ヶ月もかけてヨーク公島の住民がナカナイに行くとあります。つまり、ナカナイに貝獲りに行こうにも、まず海が凪ぐ季節でないと時化にあって命を落とす可能性が高いのでしょう。どうやら凪の季節に二ヶ月かかる往復の旅は一度しか出来ないようです。それに丸木舟での二ヶ月の船旅は大変な労力です。ナカナイまで行くと二ヶ月ヨーク公島を留守にするあいだの稼ぎも諦めなければなりません。

要するに、ナカナイから持って帰って来た貝で、少なくとも二ヶ月島に残った場合に得られたであろう稼ぎの分や二ヶ月間の食費を超える量の物やサービスと交換出来ないと、わざわざナカナイまで行く意味がないということになります。ヨーク公島の住民がこぞってナカナイに貝を獲りに行かないのは割が合わないからに違いないのですが、それでも一回ナカナイに行って船一杯のムシロ貝を持ち帰ることが出来るならば、割が合わないということはあり得ないはずです。ということは、ナカナイまでわざわざ行ってもムシロ貝の大量入手が難しいのだろうと推察出来ます。

ナカナイに行ってもムシロ貝の大量入手が難しいということは、原産地のナカナイであってもムシロ貝は採取が難しい珍しい貝だということです。ムシロ貝がナカナイでありふれているならば、ナカナイの住民が大量に獲ってヨーク公島の住民に売りつけるはずです。もちろんそうなれば上記の通り、ヨーク公島でのムシロ貝の価値が暴落するのですが、現実にはムシロ貝の価値の暴落が妨げられているということは、ヨーク公島とナカナイが遠く離れているだけでなく、ムシロ貝は原産地でも希少な貝であるに違いありません。

恐らく、一年に一度訪れることが分かっているヨーク公島民と交換するためにナカナイの住民は日頃からせっせとムシロ貝を集めているのでしょう。したがってナカナイの住民はその労力をかけて集めた珍しい貝を手放す時に、ヨーク公島民に代わりに多くの品物を要求してくるでしょうから、ナカナイまで出向いてもムシロ貝を安く手に入れるのは困難なはずです。

つまり、一度に持ち帰ったムシロ貝は全部で「船を漕いだ人数全員の二ヶ月の間の食費、彼らが島を留守にした間犠牲にした稼ぎ、さらにナカナイでムシロ貝の交換に使った品物の量の総和」にちょうど相当する物やサービスと交換されているはずです。そして、ヨーク公島の住民が私のように欲深かったとしても、経済的に割に合わなければ、ナカナイまでの船旅に住民の多くは出ようとはしません。恐らく冒険好きで体力に自信のある島の若者は二ヶ月の船旅に乗り出すけれども、普通の島民はたいして儲かりもしない危険なナカナイ行きに興味はないでしょう。


ところがヨーク公島の経済が如何に小さくても、生産される物やサービスの量には多少なりとも変動があるはずなのでムシロ貝の流通量が一定であってもムシロ貝の価値は変動するはずです。ところがムシロ貝の価値は以下の機構で安定して保たれます。

島の生産量が上がって、交換手段としてのムシロ貝が引っ張りだこになると、ムシロ貝の価値が上がります。すると二ヶ月かかるナカナイまでの船旅の利益が増すので、わざわざナカナイまで旅する島民が増えます。また、価値の上がったムシロ貝の採取にせいをだすナカナイ人も増えます。結果として、ヨーク公島に持ち帰られるムシロ貝の量が増えて、貝不足を防ぎます。しかし、そうやってムシロ貝の供給量が増えすぎると、今度は逆にヨーク公島で貨幣として流通するムシロ貝の価値が下がり始めます。ムシロ貝の価値が下がってくると、ヨーク公島からナカナイまでわざわざ貝を交換しに行く人も減るので、一時的に上昇した貝の価値は二ヶ月の船旅の費用と交換に要した品物量に見合うところまで下がり安定します。

逆に、ヨーク公島での生産量が何らかの理由で下がって、流通しているムシロ貝の量にだぶつきが出てムシロ貝の価値が下がると、わざわざ危険な丸木舟にのってナカナイまで行く人がいなくなるので、ムシロ貝の補給が止まります。貝は磨耗したり破損したりするのでヨーク公島の貨幣量は徐々に減少するはずです。その結果、しばらくするとムシロ貝の価値はまた上昇を始め、二ヶ月の船旅の費用と交換に要した品物量に匹敵する価格に再度落ち着くはずです。このようにヨーク公島の貨幣であるムシロ貝の価値は島民の損得勘定によって安定的に保たれるという訳です。

しかしながら、ヨーク公島の島民が丸木舟でなく発動機の付いた船を利用出来るようになると、ナカナイへの船旅の費用が激減します。そうなると、多くの島民がこぞってムシロ貝を求めてナカナイに向かうことになり、結果として多量のムシロ貝がヨーク公島にもたらされインフレが引き起こされます。上記のお話が何時の時代のことか明記されていないのですが、ミクロネシアに発動機付きの船が導入されて既に久しくなるので、貝を貨幣として使う習慣はとっくの昔に消滅しているはずです。


ムシロ貝がヨーク公島の貨幣として使われるようになったのは、ムシロ貝が遠くのナカナイに産する珍しい貝というだけではないはずです。珍しい貝ならムシロ貝の他にもあるでしょう。ヨーク公島でムシロ貝が貨幣として使われるようになったのはムシロ貝の交換価値が島民の交換活動にちょうど都合がよいからです。

ムシロ貝の価値が低すぎて魚一匹の支払いにムシロ貝150個が必要だと、貝を持ち運ぶのも取引のたびに数えるのも不便です。逆に、ムシロ貝の価値が高すぎて、魚一匹の支払いにムシロ貝0.15個必要となると、今度は貝を分割する必要が出てきます。貝のどの部分が0.15個に相当するのか判断が難しいし、また正確に貝を分割するのも手間がかかります。要するに、貝の価値が高すぎても低すぎても貨幣としては不便です。

長年の試行錯誤の結果、周囲に生息する多くの貝の種類の中でナカナイのムシロ貝が貨幣として定着したのは、一回にナカナイから持ち帰られる総量が「船を漕いだ人数全員の二ヶ月の間の食費、彼らが島を留守にした間犠牲にした稼ぎ、さらにナカナイでムシロ貝の交換に使った品物の量の総和」に相当するこの貝の価値がヨーク公島での商取引にちょうど便利だったからでしょう。ヨーク公島の島民による淘汰の結果、ナカナイのムシロ貝が貨幣として生き残ったのです。


ナカナイのムシロ貝は希少種で且つヨーク公島で価値のある貨幣として使われているにもかかわらず、なぜ絶滅しないのでしょうか。ムシロ貝が絶滅に瀕しないのはヨーク公島の経済は変動はしても長い間成長し続けるということがなかったからでしょう。貨幣として出回っているムシロ貝の量が変わらないにもかかわらずヨーク公島の経済が成長を続けてムシロ貝を使った商取引の量が増大するとムシロ貝の価値が上がり続けます。そうなると、ムシロ貝を求めてナカナイまで行くヨーク公島の島民の数も増え続け、ムシロ貝は乱獲されるはずです。

上で引用したお話では一年に一度定期的にムシロ貝がヨーク公島に補給されていますが、これが可能なのはムシロ貝の乱獲が起きるほどヨーク公島の経済が大きく成長し続けることがなかったからです。むしろ時折経済の落ち込みが起こってムシロ貝の価値が下がり、ナカナイでのムシロ貝の採集が停止する期間があり、その間にムシロ貝の生息数が回復していたのでしょう。

ここまでの検討で、ヨーク公島でナカナイ産ムシロ貝が貨幣として機能していたのは、ナカナイまでの船旅の費用が下がらないこと、ヨーク公島の経済が成長を続けないこと、さらにナカナイでのムシロ貝は増えすぎもせず絶滅することもなく希少種であり続けることという三つの条件が満たされていたからであることが分かります。この条件の一つでも満たされなくなるとムシロ貝はヨーク公島で貨幣として機能しなくなってしまいます。


最後に、ヨーク公島のムシロ貝と世界の多くの文明で貨幣としての地位を獲得した金(きん)とを較べてみましょう。持続的な経済成長がなかったと考えられるヨーク公島と異なり、世界は過去何百年の間継続的に経済成長を続けています。生産消費される物やサービスの量が増大したのに人間の手許にある金の量が不変であれば、金の物やサービスに対する相対的な価値は増大します。そうなると新しい鉱山を開いたり、地中深く金を採鉱するための投資が割りに合ってくるので金の採鉱量が増大します。ムシロ貝は採りすぎると絶滅する危険がありますが地殻に眠っている金は実際上無尽蔵です。金の採鉱量を制限しているのはその絶対的な埋蔵量ではなく、各時代での人間の金採鉱の技術的な限界です。しかし、技術投資に見合うほど金の価値が上がると、採鉱技術は向上します。つまり今まで手が届かなかった地中の金に手が届くようになり、金の採鉱量が増大します。

しかし上記の貝の例のように、あまりに金の供給が増えると今度は金の価値が下がります。すると、割高である鉱山の経営は難しくなり、それらの金山の閉鎖が始まります。結果として、社会への金の供給が減少します。金の供給が減少したにもかかわらず経済が成長を続けると、金の価値が再度上昇し始めるので、また金山が開いて金の採鉱が活発になるのです。人間はこれを繰り返してきました。十五世紀の末期から現在に至るまで、人間の手許にある金の総量に対する金の新規供給量は年間5パーセントを超えることはなかったそうです (3)。要するに、金を採鉱することで儲けようとする人間の欲が常に存在するがために、金の価値が上がれば金の採鉱が増え、金の価値が下がれば金の採鉱が減るという具合に、世界の経済が成長を続けても金は安定的に供給されてきたのです。

それに、地中の金がなくなることはありませんが、発見と採鉱が困難である以上、金が珍しい金属であることには変わりありません。一攫千金を夢見て金鉱山を探している人は常に存在しますが、金の鉱脈は安易に見つかるものではありません。人類が錬金術を編み出さない限り、金は地中から堀り出さねばならず、採鉱には莫大な費用がかかります。金の価値は長い期間にわたって安定しているのですが、これはナカナイ産のムシロ貝と同様に金の入手にかかる費用も安定しているからです。価値が安定している金は貯蓄に最適です。金もムシロ貝と同じように、世界の人々の淘汰によって様々な「もの」の中から貨幣として選択されてきたのでしょう。

以上、ヨーク公島で貨幣として使われていたナカナイ産のムシロ貝から初めて、ある「もの」が貨幣としての役割を果たすのに必要な条件と人間が貨幣に求める役割とを考えてみました。人間は自分が交換した物やサービスの価値を保存する手段として、長期間にわたって交換価値を保ち続けるものを貨幣として選択します。以上の考察から、欲深い人間がどんな工夫を凝らしたとしても、彼らをもってしても入手に多額の費用がかかる「もの」が、何時の時代にも長期間安定して交換価値を保つことが出来る貨幣として人々に利用されてきたのです。


(1) 伊東光晴 (1971)「現代の資本主義」筑摩書房, pp. 75-76.

(2) ヨーク公島 (Duke of York Island) はニュージーランド領のトケラウ (Tokelau) 群島を構成する島の一つで、現在アタフ (Atafu) 島と呼ばれています。ナカナイはラバウルのあるニューブリテン島の北岸のホスキンス (Hoskins) 半島にあるそうです。アタフ島とナカナイとの直線距離は約 4,200km です。

(3) Skousen, Mark, 1990, The Structure of Production. New York: New York University Press, p. 269.




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