2017年7月16日、福岡出張中の休みに敢行した、酷暑の佐賀市街地自転車彷徨。
この日のネタで記事にしているのは、本番前の立ち寄りである赤坂川橋梁と、開運橋、川原町の鋼製水管橋、恵比須橋。
今宵ご紹介するのは、それらよりも後…熱中症寸前だった地獄の時間帯(笑)に巡り会った橋。正直、暑さが一番記憶に残っている(爆)。
時刻は14時9分。思えば、一日で最も暑い時間帯じゃないの。そりゃあ意識もトぶわ(笑)。
ああ失礼。これがファースト・コンタクトだった。
地図はコチラ。西側からのアプローチ。
お名前は
「思案橋」。いい名前だ。
左の親柱には
「市道牛島町線」。結局反対側にも河川名はなかったので、河川名を差し置いて路線名が掲げられるのは珍しい。
で、最初に目を引いたのは、この高欄。
それ自体は古いものではなさそうだったが、決しておざなりでなく、周囲の風景への調和や橋そのものへのリスペクトを感じる造り(個人の感想です)。
その名前もあいまって、実は歴史ある橋なんじゃないか、と思った。なにしろここまでに、橋における「佐賀クオリティ」を見せつけられてきていたからね。
橋上から見る、(たぶん)下流側。
川の名前は(これまたたぶん)紺屋川。
で、直観を裏付けようと橋下を覗き込んで見ると…
ビンゴ。石の橋脚。
てことは、おそらく桁も石なんだろう。すなわち石橋だ。さすが佐賀、やっぱ佐賀。
で、コチラ上流側。
この橋の欠点は、サイドアングルがないところだ。いや、やろうと思えばなくはないが、不審者すぎる(笑)。
渡って、東側より。
石橋だとわかって観察すれば、「しかも(ゆるいながらも)太鼓橋やん!?」ということがすぐさま判明するわけで。
ああ、下から眺めたかったなあ~。
親柱には、こんな表記。
「昭和五十八年三月高欄改築」。それほど最近でもなかったな。
親柱にこんなふうに
町名看板が付けられてるのって、ありそうでないなあ。しかもご丁寧に旧町名のまで。
真夏の炎天下、ここで
「気力、体力の…限界ッ…!」(byウルフ)
を感じたわたくし、食事がてらに商業施設「モラージュ佐賀」へとエスケープ、長い休憩を取ったのだった。いやいや、マジヤバかったよ。
まあ回復した後は、さらに徘徊を続けたわけだが…(笑)。
さて、帰ってから調べたらこの橋、土木学会選近代土木遺産Bランク物件だった。マジか。
そして、佐賀の橋のことで毎度お世話になっているサイト「さがの歴史・文化お宝帳」によると、この道は長崎街道。案の定この橋の歴史は古く、江戸時代からこの場所に架かっているようだ。
(以下同サイトより引用)
当時、材木町は武家屋敷諸用達を務める商家町で、昔の唄に『思案橋の名物は、蔦屋の一粒金、釜屋のビンツケ、野中烏犀圓現金掛け値なし』とか歌われていたようである。蔦屋では一粒金の他にも文房具.紙.うるし.金箔などを売り、釜屋(西村油屋)ではビンツケ(日本髪を結うときに使うもの)の他ろうそく.元結い油を売り、松永呉服店や野中烏犀圓等町民の生活物資を売る店で賑わっていた。
…とのことで、往時の雰囲気が手に取るように伝わってくる。改めて地図を見ると、橋の西に今も「蔦屋商店」の名が。三枚上の写真奥のブルーの建物の位置がそれのようだが。
で、橋名の由来についてふたたび同サイトより引用させていただくと…
橋の名前の由来は、いろいろあったようだが、ひとつは、舟で直ぐ近くの遊里にいくか、はたまた土産には何を買うか、いずれにせよ懐具合を考えて、いろいろ思案したのでこの橋の名が付いたようだ。
なるほど、これは文化的背景の積み重なった素晴らしい橋だ。高欄と橋面は改修されたわけだが、下部工はもしかして江戸期からのオリジナルだったりするんだろうか。なんか胸アツ。
最後に、佐賀記事のお約束である、当日の訪問物件プロット図。
あぁ、また行きたいなあ、佐賀。
以上。