煙草と唾液の混ざった匂い。
ずっと嫌いだった煙草の匂い。
自分では吸わない。
「体力が落ちる。」と、
まわり中の友達が吸い始めた時も自制した。
「煙草は嫌い。」と、
付き合う男の人にも容赦なく言っていた。
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たぶん、はじめは「きゃね」、かな。
学生の頃、代官山のモンスーンカフェで出会った。
背が低くて、とてもお洒落な同い年の男の子。
付き合う気はなくて、だけどすごく惹かれた。
きゃねも、私に抱いていたのは恋心ではなく、
「仲間意識」みたいな親近感だったと思う。
何度か一緒に寝た。
時々キスもした。
きゃねは、いつも煙草の匂いがした。
彼の銘柄は覚えていないけれど、
「煙草は絶対にやめらんねえよ。」と笑っていた。
灰を落とすとき、煙草をくるくると回して、
先を鉛筆みたいに尖らせる癖があった。
私はそれが気に入っていた。
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憧れていたのかもしれない。
都心で生まれ育って、
有名なカフェで働いて、
お洒落な服を着て、
野心も夢もあって、
一本筋の通った男の子。
「煙草はやめない」と、
笑いながら言うきゃねがひどく好もしく思えたし、
それを否定するのは、
彼自身を否定することのようにも思えた。
それから、
煙草の後のキスが、好きだった。
煙草と唾液の混ざった匂い。
体のずっと奥のほうを、
かすかに刺激される、甘い匂い。
今は、「煙草を吸わない男の人とは付き合えない。」
なんて、言ってみたりする。
自分では吸わない。
健全な体を保つことは、
愛する人と、その人の子供を守るための、努め。
だから、煙草のけむりは今でも嫌い。
煙草の、匂いは好き。
煙草と唾液の混ざった匂い。
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恋人の煙草を取り上げ、煙を吐かせて。
それからキスをしたくなる。
マルボロメンソールの甘い味。
影響されやすい、私。
不本意ながら2日もかけて、
スラムダンクを久しぶりに通し読みした。
相変わらず、笑いあり、涙ありの、歴史に残る名作。
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「お前は、加藤先生のもとに戻って、指導者をするべきだ。」
と、大学の追いコンの席で、ひとりのOBさんに言われた。
真剣にやれば、3年で日本一のチームをつくれるはずだと。
就職先も決まり、名古屋への引越しを目前にしていた私は、
あまりに真剣な顔で投げられた進言に、
困ったような笑顔を返した。
だけど嬉しかった。
素直に、心から、嬉しかった。
大学時代は、自分が強くなることよりも、
チームを強くすることに一生懸命だったから。
どんな練習がいいか。
どんなペアがいいか。
どんな言葉が適切か。
いつも、そんなことばかり考えていた。
だから、認めてもらった気がした。
「指導者になれ。」と、
その30歳も後半になろうかというOBさんの言葉は、
最高の誉め言葉だった。
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スラムダンクを読み終えて、本気で考えてみた。
本当に私に、日本一のチームが作れるだろうかと。
加藤先生は笑うだろう。
「もうお前は勝負師の顔じゃないな。」と笑った、あの日のように。
全国のライバルだった皆は言うだろう。
「大学で消えた選手のくせに。」
だけど、想像しだすと止まらなかった。
「お前のキャプテンシーは天性だ。」と加藤先生は言った。
「先輩は、今までのどの先生よりも、私を強くしてくれました。」と若菜は言った。
「資質がなくもない」
と、こころひそかに思っている私。
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浅はかにも、眠りにつく前にこんなことを思った。
単純で気まぐれな自分。
ああ、テニスがしたい。
もう汗のかきかたすら忘れてしまった。
隣を歩く人。
「今日、最後のアポイントがそっちの駅なんだけど、一緒に帰る?」
と、出社してすぐ、彼からメールが来た。
私は何だか少しはしゃいだ気分になった。
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仕事が終わってから、会社で少し待った。
それから電話が鳴ったので、ビルを降りた。
電話でお互いの場所を探りあいながら、大きな交差点まで出た。
「今、珈琲館の前まで来たよ。」と彼が言った。
私がいる場所のちょうど斜め向かいの角に、珈琲館はあった。
私は彼を見つけた。
「ここだよ。ここ。向かいっかわにいるよ。」と、携帯電話で言っても、
彼はてんで違う方を見ている。
…何だっけ、こういうの。何て言うんだっけ。
「トイメン!トイメンにいるよー。」と、
私はほとんど音だけで覚えた言葉を、使ってみた。
多分こういう位置取りのことだったはず…。
といめん、と、たどたどしく発音した私を、彼は笑っていた。
彼がこっちを向いたので、大きく手を振った。
彼が私を見つけたことを確認してから、横断歩道をひとつ渡った。
外で待ち合わせるなんて久しぶり。
私はやっぱり浮かれていて、顔が笑ってしまう。
携帯電話が鳴った。
彼からだった。
「おい、またトイメンにいるぞ。トイメンに。」
彼は笑っていた。
見ると、また、一番遠い角に彼が居た。
馬鹿みたいに、2人して同じ方向に横断歩道を渡ったらしく。
いっこうに距離は縮まっていない私たち。
「お前は動くな。」とぴしゃりと言われ、しゅんとする私。
でも本当は、コントみたいで面白くて、
彼を待ちながらひとりで笑っていた。
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串焼きとおでんを食べて、
少しお酒も飲んで、
それから2人で歩いて帰った。
地下鉄2駅ぶんのその道は、
広い歩道をただただ真っ直ぐに進むだけで家に着く。
他愛のないおしゃべりをしながら歩いた。
仕事帰りのスーツの彼と、
堂々と歩けることがすごく嬉しい。
仕事のテンションが抜け切らない、
少しぱりっとした彼は、大人びた笑い方をする。
ひどく賢そうな、落ち着いた笑い方。
それが私はすごく好きなのだけど、
ちょっと呆れてしまう。
いつもは、「男爵芋のうた」とか、歌ってるくせに。
あっという間に、家に着いた。
もっと歩いていても良さそうな夜だった。
私の隣を歩む人。
同じ場所を目指す人。
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家の前の角を曲がる時、金木犀の匂いがした。
大人買い。
「読まないと勿体無いよ。歴史に残る名作だよ?」
と、私が付き合い始めた当初からしつこく言っていたら、
彼が大人買いしてきた。
スラムダンク全巻。
しかも愛蔵版ではなく単行本で。
で、二人でソファに並んで読書。
もう寝なきゃ。寝なきゃ。
とか思いつつ。
不安と、焦燥と、安心と、上昇。
「プロが10だとすると、はじめはゼロやったけど、今は3くらいには来ましたね。」
と、言ったのは、「王子」と呼ばれる私の上司。
オーラが王子だから、王子。
肌と髪がきれいで、いつもいい匂いがする。
王子はよくお菓子をくれるから好き。
3、は言いすぎだと思う。
多分、実質は1にも満たない私のスキル。
それでも、嬉しかった。
本当は、自分でも、
確実に、着実に、色々覚えているという自覚はある。
だけどスタートラインが低すぎて、
お給料をもらいながら学ばせてもらっている身なので、
大きな声では言えない。
おそろしく長い時間を使って仕事をこなしている私。
本当なら3時くらいには終わるだろう仕事が、
定時の6時にも間に合わない。
一日に、だいたい3回くらい山場があって、
(山場と言うのは自分の中でのトラブルのこと。)
本当なら15分でできることに1時間以上かかったりする。
黙々と、時間を使う。
だけど、多分これでいいのだと思う。
仕事が進まなくても、覚えたことは沢山ある。
急がば回れ、ということで、
教わるとおりにただこなすよりも、
ソフトの能力をきちんと理解することのほうが、
きっとこの先大切なのだと思うし。
一生懸命やろう。
ともかく。
へんに力まずに、
求められた仕事をきちんとしよう。
頑張れば、出来る子なんだから、と。
自分に言い聞かせたりして。
本当は今日、少し泣きそうになったけど。