性描写における覚悟のなさが惜しい 「箱入り息子の恋」を観て | パンクフロイドのブログ

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キネカ大森 【ぴあフィルムフェスティバル(PFF)から世界へ!】 より


箱入り息子の恋 公式サイト



箱入り息子の恋1


製作:キノフィルムズ ブースタープロジェクト

配給:キノフィルムズ

監督:市井昌秀

脚本:田村孝裕 市井昌秀

撮影:相馬大輔

音楽:高田漣

出演:星野源 夏帆 平泉成 森山良子 大杉漣 黒木瞳

    穂のか 柳俊太郎 竹内都子 古館寛治

201368日公開


2013年に公開された映画で、気になっていたけれど見逃してしまった作品はいくつかあり、この映画もその1本です。併映の「かしこい狗は、吠えずに笑う」も同様の映画でしたのでこの2本立ては渡りに舟といったところです。まず、冒頭の数分で主人公の人と成りを観客に手際よく説明するテクニックで、この映画への期待が膨らみます。


市役所に勤務する天雫健太郎(星野源)は35歳になるのに、両親と実家暮らしをしており、一度も女性とつき合ったことがありません。無遅刻、無欠勤の真面目な勤務態度。市役所のデスクは常に整理・整頓されています。昼食は自宅に帰って食べ、5時の終業ぴったりに会社を後にして、家に真っ直ぐ帰る日々。ペットのカエルと格闘ゲームだけが趣味の男は、恋人はおろか友人の一人も作れない状態。


そんな健太郎を両親は心配して、息子に内緒で親同士が子どもの結婚相手を探す代理お見合いに参加するのです。しかし、面白味のない健太郎のプロフィールに誰も興味を示さず、唯一テーブルに来た今井夫妻も、天雫夫妻とわずかな会話を交わしただけで、別のテーブルに移ってしまいます。


今井夫妻の一人娘奈穂子(夏帆)は目が見えない事情があり、父親の晃(大杉漣)は経済力があり、障害者の現状を理解し、頼りになる男を娘の婿に求めています。健太郎は市役所に勤めているため、食いっぱぐれる心配はないものの、13年間勤務しているにも関わらず一度も昇進はありません。晃はそんな健太郎の性格や向上心のなさが気に食いません。一方、母親の玲子(黒木瞳)は娘の気持ちを尊重し、学歴や見てくれよりも、奈穂子を大切にしてくれる男を求めていました。


そんなある日、雨の中を母親の車を待つ奈穂子に、健太郎が傘を差し出したことから、二人の見合いのきっかけができます。健太郎は名前を名乗らずにその場を去るのですが、玲子が彼に辿り着くまでの過程が、この映画ならではの特徴を備えています。天雫という珍しい名前と健太郎の几帳面な性格を表す演出が隠し味として生きています。


傘に貼られていた名前に記憶のある玲子は、早速二人の見合いのセッティングをします。この見合い場面が前半のハイライトと言ってよいほど、ハラハラドキドキさせます。晃の健太郎への質問に、父親の寿男(平泉成)が全て答えてしまう軽い笑いを入れつつ、晃の不躾な物言いに、場の空気は次第に険悪になっていきます。母親のフミ(森山良子)は、晃の息子への侮辱に耐え切れず、席を立とうとします。


その直後に健太郎は負け犬の逆襲に相応しい行動を取ります。対人恐怖症気味の彼は、自分の言葉で相手に気持ちを伝えようとすることによって、閉ざしていた殻を破ろうとするのです。ちなみに、見合いの場で飲物の注文をとったり、飲物を提供したりする女性の出方が絶妙のタイミングとなっています。


見合いの場での屈辱に、健太郎は一時的に荒れますが、奈穂子との再会によって平常を取り戻します。そして、玲子に見守られながら、二人は晃に内緒で交際を始めます。健太郎は今まで現状を維持することに満足していましたが、奈穂子との結婚に向け、昇進試験を受ける気になり猛勉強を始めます。息子の変化に天雫夫妻は大喜びですが、その矢先に二人の交際が晃にバレてしまいます。



箱入り息子の恋2


世間からは例え無様に見えようとも、笑われようとも、35歳になって巡ってきた初めての恋を成就したい主人公の思いが響く映画です。その息苦しさが観客席にも伝染していき、知らぬ間に主人公と同化していってしまいます。後半に二度起きる事故はあざといと思えなくもありませんが、安易な方法で妥協せずに、紆余曲折を経る形によって丹念に話を進めて行く手法は好感が持てます。


また、息子に起きた事故によって、奈穂子に好意的だったフミが心を閉ざしてしまう描写も容赦ありません。障害を持つ者にとって居たたまれないキツい言葉を投げつけるのです。些細でありますが、こうした厳しい視線の積み重ねが物語を引き締めます。全般的に障害に寄りかからずに、35歳独身男の苦しい恋を描いたことに関しては大いに評価したいところです。


その一方、相変わらず性描写に関しては甘いと言わざるを得ません。日本の女優の脱がない問題に関しては、こでは触れませんが、70年代の映画だったら女優はありのままを見せていたでしょう。特に他人とスムーズな会話ができない男と目の見えない女、謂わば障害を抱えた者同士が、無防備な生身の体を曝け出して、ひとつに結ばれようとする重要な場面で、不自然な胸の隠し方は興醒めしてしまうのです。日本映画が性描写においてガラパゴス化しないことを祈るばかりです。