脱希少性経済の実現は容易ではないというご指摘は正しいと思います。しかし、小塩論文(「ソーシャル・エコロジーとムレイ・ブクチン」)で扱われている「脱希少社会」といわゆる「脱希少性経済」は、実は非常に大きな違いのある概念です。
後者は、労働の生産力の発展と欲望の過剰な煽り立ての抑制とによって「欠乏」(欲求の不充足)を克服した経済が実現可能であるという考え方で、こうした考え方の持ち主は、歴史上そう珍しくはありません。マルクスもいくつかの条件が満たされるなら、そうしたことが実現する可能性はあると考えていました。
これに対してイヴァン・イリイチが嚆矢とされる「脱希少社会」論は、むしろ逆とも言っていい考え方です。それは次のような考えです。「商品集中社会」=「産業化社会」(マルクスが資本主義社会と呼んだものをイリイチはこう呼びます)では、自然が資源として消費されて商品となることによって自然が絶対的に希少なものになる一方で、商品も、実際には大量に生産されているにも拘らず、欲望の煽り立てを通じて相対的に希少化する(際限なく膨張する欲望――これに購買力の裏付けがあるなら需要となる――に対して「不足」する)というのです。
言い換えれば、産業化社会の経済的成長のために、常に満たされない過剰な欲望が創出され、それによって商品の相対的な不足(希少化)が常に再生産され、経済の規模がどんどん拡大し、その結果、自然は、資源としても廃棄物の「最終処分場」としても絶対的に枯渇・不足していくことになるということです。
この状態から抜け出すことが「脱希少社会」への移行というわけです。脱出の方法は、〈自然を商品[i]に転化させないこと[ii]〉と〈欲望の膨張の抑制〉です。勿論、この点に関しては、希少性経済と同様、資本の利益に相反するため、簡単には実現できないでしょう。
「脱希少性経済」も欲望の膨張の抑制が必要であることを認めていますが、他方で、生産力の向上とそれを増産のために利用することを不可避とみなす傾向が強いといえます(マルクスのような例外もある)。
イリイチらの脱希少社会論、マルクスの脱希少性経済論、マルクス以外の脱希少性経済論を表の形で対照してみましょう。
生産力引き上げの必要性 |
生産力引き上げの目的 |
増産の必要性 |
|
イリイチらの脱希少社会論 |
不要[iii] |
なし |
不要 |
マルクスの脱希少性経済論 |
要 |
自由時間拡大 |
ほとんど不要 |
その他の脱希少性経済論 |
要 |
増産 |
まだまだ必要 |
現在の社会 |
要 |
増産 |
増産し続けることが至上目的 |
こういう粗雑な議論は、容易にペシミズムやナロードニキ的ロマンチシズムに結びつきます。そして真の改革方向を見失わせる。
当方は、そう言う状況からもマルクス的な産業構造論や再生産論の発展が急務だと主張しているんです。