草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

「士は武士なり。君下に武士を立てて衆人直耕の穀産を貪り、若し之れを抗む者あれば武士の大勢を以て之を捕縛す。是れ自然の天下を盗むが故に、他の己れを責めんことを恐れてなり」(安藤昌益)

 



「侍をして国中にあらしむべからず」(播磨土一揆)




「君民の共に重んずる所は社稷である。社稷を重ぜざる民は民ではない。社稷を重ぜざる君は君ではない。」

「君を主とするから、暴君政治の弊が起る。民を主とするから、賤民政治の弊が起る。」

「憲法即ちコンスチチューシヨンといふ語は、本質といふ意味である。國の本質は、社稷の外にはない」 (権藤成卿『自治民範』平凡社、一九二七年、二七八~二七九頁)。

 



ブロトピ:「ブログ更新しました♪」

 中国国家資本主義体制との軍拡競争は、中国国家資本主義体制に、さらに一層の軍備増強の口実を与えるという事実において、二重に犯罪的である。

 

・台湾や日本の労働する諸個人を危険にさらすという点。

 

・中国の労働する諸個人を支配・抑圧・搾取する勢力の軍事力を強化してしまうという点。

 

 さらに、ここにもう一つ付け加える必要があるかもしれない。

 

 軍事的均衡に人々の目を引き付けることは、結果的に、非軍事的手段をもって推進される侵略、例えば経済的侵略に対する、人々の警戒心を解くことにつながるという点である。

 

 経済的侵略を食い止める力は、どこにあるのか。経済的侵略の直接の主体が投機マネーや外資系企業、すなわち資本であることを考えれば、その第1の力、生産点で資本の活動を心ならずも支えている、自覚的・革命的な労働する諸個人であることは明らかだろう。

 

 もう一点、資本の侵略、支配・抑圧を特定の国籍と結びつけることもまた、ミス―リーディングである。資本は、その時々に、必要に応じて様々な国籍を身にまとう。しかし、資本はそれをいつでも脱ぎ捨て、装いを新たにすることができる。特定国籍だけをあげつらうのは、資本という本物の侵略者を隠匿する行為に他ならない。

 

 それはつまり、「外資」だけが敵ではないということでもある。「民族資本」なるものも、我々労働する諸個人にとっては、我々の「生活世界」を「植民地化」する侵略者なのである。諸個人の組織された運動が必要である。

 

     「嘆くな、組織せよ」

 最大の理由は、それが日本の風土や歴史になじまない借りものだと判断したからだろう。秋津洲には、秋津洲の自然と歴史に育まれた古意があるのだから、そちらを何よりも大切にすべきだということである。

 もっともな考え方である。問題は、宣長にあっては、以下の二者の区別があいまいだったのではないかという点である。

 私見では、漢意とは、秋津洲住人が中国文明にあこがれ、それを猿真似しようとする姿勢から生まれるまがい物の思想・文化とそれをありがたがる風潮に他ならない。それに対して、本来の中華文明は、――いわゆる「中華思想」(自民族中心主義)という救いがたい迷妄を含んではいるが――中国大陸独自の自然と歴史に育まれたもので、かの地の人々にとって崇高なものであると考える。

 世界のそれぞれの地域には、その土地と歴史にふさわしい、ヴァナキュラーな文化・文明がある。地域の独自性を無視して移植を試みても不適合が生じるのでないだろうか。

 しかし、その一方で、我々は、地球上の各地域のヴァナキュラーな文化・文明が、普遍人類的な価値を有する可能性も認めたいと考える。

 宣長は、明らかにある種の中華思想、自文化至上主義があり、大和には、古意さえあればよく、他地域の文明など顧みる必要はないという考えがうかがえる。我々と宣長の差異は、まさにこの点にある。

 文化の土壌となる自然や歴史的経緯を無視して、異文化を都合よく移植しようとするのは愚かな行為であるが、人間の生活圏域が、地球的規模に拡大しつつある今日、全地球的生態系の構成部分をなす地域的な自然環境とそこで紡ぎ出されてきた人々の経験の蓄積としての歴史は、全地球的な歴史の諸々の構成部分として、一つの人類史的な織物をなすものと考える。様々なヴァナキュラーな文化が、相補って全人類的な文化を構成するそういう可能性が今開かれつつあるのではないだろうか