草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

「士は武士なり。君下に武士を立てて衆人直耕の穀産を貪り、若し之れを抗む者あれば武士の大勢を以て之を捕縛す。是れ自然の天下を盗むが故に、他の己れを責めんことを恐れてなり」(安藤昌益)

 



「侍をして国中にあらしむべからず」(播磨土一揆)




「君民の共に重んずる所は社稷である。社稷を重ぜざる民は民ではない。社稷を重ぜざる君は君ではない。」

「君を主とするから、暴君政治の弊が起る。民を主とするから、賤民政治の弊が起る。」

「憲法即ちコンスチチューシヨンといふ語は、本質といふ意味である。國の本質は、社稷の外にはない」 (権藤成卿『自治民範』平凡社、一九二七年、二七八~二七九頁)。

 



自己規律と自己制御の権利と義務を放棄して自己の身体、生命の処遇を他人の意思にゆだねることは、尊重されるべき個人としての資格を失うことを意味します。個人としての責任と義務を放棄する「左翼全体主義」を自己批判することなく、この考え方に無理やり「個人の尊厳」という考えを接ぎ木したらどうなるか、「個人」ではないもの、すなわち自己規律・自己制御の主体ではないものに「尊厳」を認めてしまうことになります。
 
自分で自分をコントロールする習慣を持たず、他人の言いなりになってきた人間、あるいは「人を尊重するということはその人のために自分を殺すことだ」と教えられてきた人間がそのまま偽の「個人」として「尊厳」を与えられてしまうとしたら、それは子ども染みた我儘を放任する結果になるのは必然です。
 
偽「個人」たちは、他者からの懲罰やら暴力による以外に、内省的に自分を抑えるすべを知らないし、「俺を尊重するってことは、お前が俺の犠牲になるってことだろう」と考えるでしょう。
 
外圧や暴力に支配されることなく自分の理性で自分を制御するように努力すること、そのような各自の努力を互いに尊重すること、つまり他人の自己制御の努力を妨害しないだけでなく、自分の自己制御の努力を放棄しないこと、これがまず称揚されるべき規範であり、これに反する「左翼全体主義」(滅私奉公)は、間違った思想として徹底的に批判されるべきなのです。
 
さて、僕は前々稿で「自己を肯定できない人間は他者を肯定・尊重できません」と書きました。これは僕の勝手な思いを書いたものではなく、教育心理学等で科学的に明らかにされている事柄なのです。
 
Self-esteem自己有用感(これはかなり意訳ですが、単なるナルシシズムや自己愛との区別のためにこの訳語を用いる人も少なくないそうです)がキーワードです。この自己有用感が確立していない人は、他人の価値も認められず、簡単に人を傷つけてしまう傾向などが強いといいます。
 
自己有用感の確立のためには、他人による存在承認が不可欠だそうです。「君がいてくれるだけで私は嬉しい」「あなたは私にとって他の人には代えられない存在意義のある人だ」という他者からの承認によって自己有用感は確立していきます。
 
しかし、こうした他者からの承認は、実際に他者に貢献し信頼を勝ち取る中でしか、受け取ることのできないものです。たいていの親はわが子に無条件にこのような承認を与えますが、それだけでは不十分で、親以外の他者からの承認が決定的に重要なようです。無条件の承認ではなくてやはり《個人》としての資格における承認、自己規律と他者への貢献による存在意義の承認が重要なわけです。
 
このように、「個人の尊厳を守りすぎたから、自己中心主義的な人間が増えた」わけではなく、むしろ《個人》の尊厳を口先では守ると言いながら実際にはないがしろにしてきたから、「個人主義」の表看板のもとに「サヨク私民主義」を実践してきたから、自己中心主義的な人間が増えたのです。
 
そしてこの「サヨク私民主義」は、他ならぬ「左翼全体主義」(「愛国心」と「集団意識」)の鬼子としてこの世に生まれてきたものなのです。
 
したがって、「サヨク私民主義」を根絶するには、まずその生みの親である「左翼全体主義」(「愛国心」と「集団意識」)を批判・克服しなくてはならないのです。
 
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「ゾウの檻」、囚われていたのは…本当に巨大な像でした。
 

 

the pillows - No Self Control (Live)

>虐待などが増えたのは、自己中心的
>な人が増えた結果です。
 
激しく同意です!
 
それこそが、「戦後左翼思想」のもう一つの側面と深く結び付いています。この側面はいわば、「私民主義」と呼ぶべきものです。さきほどの「左翼全体主義」がコミンテルン由来なのに対して、アメリカ由来のものです。
 
あなたは、「私民主義」の解毒剤として「愛国心」「集団意識」(事実上「左翼全体主義」と同じもの)が有効だとお考えです。しかし、歴史的な経緯は逆です。戦前、戦中の日本は「愛国心」「集団意識」(「左翼全体主義」)に毒されていました。「愛国心」「集団意識」(「左翼全体主義」)が対米戦争への機運を助長したと考えたGHQは、自国文化の柱である《個人主義》を日本に植え付けることにしたのです。
 
しかし、日本に定着したのは、本来の《個人主義》とは異質なものでした。口では「個人の尊厳を尊重する」と言いながら、実際には個人の尊厳を踏みにじる「私民主義」が生まれ、そのまま定着してしまったのです。
 
「自己中心主義」である「私民主義」がなぜ、個人の尊厳を踏みにじることになるのか説明しましょう。
 
「個人の尊厳」という場合、それはただ一方的に「この俺を尊重しろ」と他人に要求する権利を意味しているわけではありません。それはまさに、《相互承認》として実現するものなのです。「個人」としては何人も同じ資格と責務を持つということ、そのことを互いに認め合うということを意味しているのです。
 
これは、逆に、他人の尊厳を脅かす者は、直ちに、尊重されるべき「個人」としての資格を失うということでもあります。
 
「個人の尊厳」を分析してみましょう。
 
個人=人格=自己規律的主体、自己制御主体
 
尊厳=至上性=拝跪・崇拝の対象としての相応しさ
 
ここでの「個人」は、単なる個体や自意識一般(自我)ではありません。自己規律的・自己制御的主体としての人格です。他人に隷属していないと同時に、自己の放縦を制御できること、自己自身の主催者であること、外的刺激によってかきたてられた欲望・衝動等々の奴隷ではないこと、そのような意味で「個人individuum(in不可-dvid分離)」であることが、すなわち自己の一貫性・一体性を放棄することなく保持し続けていることが、「尊厳」(=至上性=尊重に値する存在であること)には含まれているのです。
 
ところが、戦後日本においては、このような「個人」としての資格を問われることなく、単なる人間個体や自我が無条件に「尊厳」をもつかのような誤解が蔓延してしまったのです。
 
いったいそれはなぜでしょうか?
 
長らく「左翼全体主義」におかされていた我々には、社会性、公共性とは、自己の個体性や自我をより上位の者に預けること、自己制御、自己規律の義務と権利を放棄すること(「滅私奉公」)だという考えがしみついてしまっているのです。
 
しかし、この「左翼全体主義」の精神は、内容的にはほとんど批判されないまま、臭いものにふたと言わんばかりに、神棚に祭り上げられて、大多数の日本人からは、批判されないまま無かったことにされただけでした。
 
しかし、如何に我々が忘れたふりをしても実際には我々の体に染みついています。
 
自己規律、自己制御の習慣があまりない我々は、そのままでは、個人の尊厳を尊重し合うには、少々未熟なところから出発したのです。それでも、そのことを認め合って、「左翼全体主義」の責任放棄主義、事大主義、権力迎合主義を自己批判して、自己制御と当事者間の相互承認、当事者自治の自覚的訓練を積むことができていれば、私民主義が生まれるようなことはなかったでしょう。
 
しかし、実際に我々がやってきたことは、「左翼全体主義」の自己批判を忌避して、事実上放置し、ただ忘れたふりをすることでした。誠意ある人たちは、そのことこそが問題の根源だと気づき、いまようやく声をあげました。「愛国心と集団意識(左翼全体主義)を思い出そう。忘れてしまってはいけない。あれは立派な志だ!」と。
 
「左翼全体主義」の忘却が、戦後の頽廃、自己中心主義蔓延を助長したのだというご指摘は、正しいと思います。しかし、「愛国心」「集団意識」(「左翼全体主義」)に誇りを持つことによっては、自己中心主義(「サヨク私民主義」)を克服することはできません。
 
なぜなら、述べてきたように、「左翼全体主義」と「サヨク私民主義」は、まさに相互補完的な関係にあり、表面的にはたがいに敵対しつつも、深部においてたがいに支えあっているからです。
 
「左翼全体主義」の無視や忘却こそ、戦後の頽廃を助長したものだという正しい直感を生かすためには、「左翼全体主義」(滅私奉公)の自己批判から始めなくてはならないのです。
 
もちろん、ほとんど同時に「サヨク私民主義」への批判も開始されなくてはなりません。ってぇか、「左翼全体主義」と「サヨク私民主義」は、表裏一体ですから、一方を批判することは必然的に同時にもう一方を批判することになります。
 
☆To Be Continued !
 

 

The Oblivians "What's the Matter Now?"

 
>個人の尊厳を守りすぎたから、か
>えって「思いやり」が廃れ…僕はそれ
>を極めて嫌う為に、個人の尊厳と対
>立する「愛国心」「集団意識」を大切
>にしようと考えている
 
大変素直な考え方です。しかし、それが「戦後左翼思想」なのです。より正確に言うと「戦後左翼思想」の「戦前左翼思想」(コミンテルン由来)から継承された側面です。
 
北朝鮮の金体制や中国の共産党独裁や連赤の同志殺し等々は、全てこのような思想と結びついています。組織や集団の目的のために個人を生贄にしてよいという考えです。
 
学生時代に友人から『革命的青年の手本』という本を渡されて「すっげぇ、笑えるから読んでみろよ」と言われました。革命中国の青年の日記という体裁なのですが、なぜか日本語で書かれていました。
 
内容は、ある中国奥地の村へ下放で送られた都会のインテリ青年が毛沢東の命令に従って農業支援等下放政策を実行することが中国の明日を拓くと信じて、時にインテリとしての自分のひ弱さを自己批判しつつ懸命に働く姿が描かれています。
 
最後の部分は忘れることができないエピソードで締めくくられています。
 
そのころ中国では、電化事業が推進されていました。といってもいきなり電力網をということではなく、まずは電信・電話の全国普及をということで通信電柱の設置が大規模に進められていたのです。
 
例の青年が送られた村でも、近くの川に電柱用の丸太を何本も浮かべ工事に備え準備が進められていました。
 
そんなある日、村を大洪水が襲いました。
 
下放青年は、川べりへ、丸太を心配してやってきました。ロープで岸につなぎとめられた数十本の丸太は、増水した川の激しい波に洗われ、いまにも流れ去ってしまいそうです。
 
彼が心配そうに丸太を見ながら、仲間の青年たちに言います。「あの電柱は、ただの電柱ではない。毛主席の声を、中国中の村という村、町という町に送り届けるための大切な電柱なのだ…」。
 
そうこうしているうちについに丸太をつなぐロープの一部が切れ、丸太が一本、また一本と流され始めました。それを見た主人公の青年は、上着を脱ぎ捨て、「みんな俺について来い!」と叫ぶと危険を顧みず、荒れ狂う濁流の中に身を投じました。
 
電柱に使おうという大きな丸太が数十本濁流にのまれて流れていくのです。生身の人間が飛び込んで素手で何をしようというのでしょう。単なる無謀な自殺行為です。
 
しかし、そのような愚かな行為がこの本では『手本』とされているのです。
 
もちろん、毛沢東個人のために身を投げ出せとは、中国共産党も言わないのです。その代わりに、毛沢東は中国人民の星、毛沢東は人民の象徴で、毛に尽くすことは人民に尽くすことだというのです。
 
「個人の尊厳と対立する『愛国心』『集団意識』を大切にしよう」
 
これは「左翼全体主義」と同じ考えです。
 
あなたは、「戦後左翼思想」のある一面に反対するあまり、同じ思想のもう一つの側面に取り込まれてしまっているのです。
 
☆ To Be Continued
 
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Neil Sedaka - The Diary (1958)

 

マルクスは利潤の源泉は搾取であり、搾取のない公平な社会の実現を目指したようですが、その場合って雇用主は自分の給料無くないですか?

まず雇用主という存在について正確に理解する必要があります。

取締役など役員報酬という形で所得を得ている人達は、一応、被用者に属します。ゴーンさんとてルノーや日産に雇われていたわけで、故にへまをすれば解雇されることもあるのです。

真の雇用主は、企業利潤を山分けして配当として受け取っている出資者達です。アソシエーション社会では、このような経済的役回り(純然たる出資者)は無くなります。既にご指摘下さった方があるように労働能力と就業意志のある人は、原則的に労働参加によって生活の糧を得ることになります。つまり労働せずに配当金だけを受け取ることはできなくなります。出資は労働者達が協力して行ないます。したがって企業は、国家の所有物ではなく、その企業の全従業員の協同所有物です。雇用主は居なくなるのであって国家が雇用主になることも一時的例外措置としてあり得ても原則的には認められません。

インフラについては、当面は国有という形態を取ることになりますが、アソシエーション社会では、いずれ国家は死滅するのでその時には、国有以外の所有形態に移行することになります。

役員としてのマネジメントも、一般従業員から互選で担当者を選ぶとか、輪番で行うとか、少人数の職場であれば全員の合議で行うとか、いずれにしても従業員が協同で担うことになります。

 

 

Kemuri - Minimum Wage

 

 

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