前山和繁Blog

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てきとうな読書記録その他。勝手にどうぞ。引用などは作法を守っているのであれば、ご自由にどうぞ。

このごろ、過去に書いた記事の誤っている箇所が気になり始めてきた、直したい箇所もいくつかあるが、なかなかできないでいる。

英語学習の記事も書くつもりでいる。

このブログは読書感想文及び埋め草によって構成されています。

ところどころに間違っている箇所があります。間違いについてはなるべく直したいとは思っていますが、このブログ内のすべての間違いを修正することは無理ですのであらかじめご了承ください。

てきとうに読んでください。

 

 

再読2019年8月19日『テレビ消灯時間1』ナンシー関

 

遅まきながら、ナンシー関のコラムがなぜ面白いのか、そしてなぜTV関係者はナンシー関を嫌うのかに気づいたのでその説明をすることにする。

 

誰でもわかっていることに過ぎないがTV番組の大部分はスポンサーが宣伝するために、おまけとして作られているにすぎない。つまりTV番組の作り手の方は視聴者に対して何も伝える気がないのに、ナンシー関は観察した番組や芸人について読者に正確に伝えてしまうのである。

 

読者からすれば、ナンシー関の観察が書かれたコラムを読めばTV番組や出演している芸人について正確に知ることができるから面白いが、TV番組の制作者からすれば正確に番組の内容や出演者について説明されてしまうと、手抜きがあらわにされてしまうので腹が立ってしまうのだろう。

 

ナンシー関は堅気の感覚というのかTV番組の制作も出演者の立ち振る舞いも労働であるはずだという信念を持っているが、TV番組制作者はスポンサーからどれくらいお金が投入されているか以外に意識が向きにくいから、手抜きが当然になる。たかがTVに過ぎないのである。

 

まずタイトル。「はなまるマーケット」(朝8時30分)に「素敵なあなた」(午後3時)。テレビ番組のタイトルなどどれも安直でベタなのばかりであるとはいえ、この二つの「何を伝える気もない」感じはかなりのものである。(110頁)

 

こんな簡単なことに気づくまでかなり時間がかかってしまったが私はTVを見なくなってからかなり長い時間が過ぎてもいるし、どうでもいいことであった。

 

 

再読2019年8月18日『お父さんのバックドロップ』中島らも

 

この『お父さんのバックドロップ』は1989年12月に学習研究社から単行本が出版され、93年6月に集英社文庫で出版された。私がこの本を読んでいたのは、記憶が判然としないが96年か97年の頃だったかもしれない。

 

字数が少ないうえに改行が多く10歳未満の子ども向けのつくり。しかしそれでも中島らもが本来備えているお笑いのセンスは十分に伝わってくる。

 

80年代には中島らものような型破りの作家でも子ども向けの作品も書ける出版社の度量があったのか、それとも今でも型破りな作家に執筆の依頼をする出版社があるのか、なんとなしに気になったが、面倒で確認する気はない。

 

日本のどこかに住んでいる子どもがこの『お父さんのバックドロップ』を読んで次に『今夜、すべてのバーで』を読んだりしたら、その子どもの教育にいいのか悪いのかなどとどうでもいいことが頭に浮かんだが、昔から活字の世界には子どもの教育に良くないような本が多くあった。それは多くありすぎて全部書くことなどできないが三島由紀夫の『仮面の告白』などもそうであろう。どこかの子どもが意図的に『仮面の告白』を読むかどうかは分からないが文庫なら子どもの小遣いでも買えるわけだから、子ども向けでない作品に不意打ちされるように当たってしまうということならありうることである。

 

中島らもは10歳になるくらいまでは偉人の伝記や漱石を読むような子どもだったのが、その後、山田風太郎に夢中になり、灘校でボードレールやシュルレアリスムの文学を読むようになっていったという。

 

結局、小説や詩というものは絵空事に過ぎないのだから、子どもの時に何を読んでいようともその子どもに悪影響が及ぶということも特にないのだろう。

 

子どもにこんな本を読ませたくない等と考えるのは、いつの時代も大人の方であり子どもが絵空事が書いてある本ごときを読んだところで特に問題にはならない。気にしすぎなのは大人の方なのである。

 

*

 

「お父さんのバックドロップ」には所詮、見世物に過ぎないプロレスよりも政治や経済の方には本当の勝ち負けがあるといった意見が出てくるが、実は政治や経済の方が誰が勝って誰が負けるかあらかじめ決まってしまう、やらせの要素だらけなのである。それは日本だけというわけではないが政治献金や様々な団体の活動によって選挙の時に大規模に票が動いてしまったり、経済学者にしても経済について真実を伝えるよりも自分が米国株を持っているからというので円安やインフレは良くないと本音をむき出しにするような意見を公表してくる人が少なからずいる。他にも日本は戦後一貫して米国の属国状態であり米国の要求には逆らえない状態であり日米外交はやらせ以外の何物でもないのである。そう考えると、見世物を超えることがないプロレスの方が、商売として良心的な気がしてくる。しかし、子どものうちに以上のことが考えられる子どもというのはまれにしかいないような気がする。

 

 

再読2019年8月16日『何をいまさら』ナンシー関

 

ナンシー関は、あとがきに

 

私は、よく人の悪口(自分ではそう思っていなかったりする場合もあるのだが)を書くわけだが、あまりクレームをいただいたことがなかった。クレームなんてものは、来やしないもんだとさえ思いかけていた。しかしここ1年程、私はめっきり怒られることが増えた。(191-192頁)

 

と書いている。ナンシー関はTV番組の制作者やTVカメラが向けられている芸人その他の個人への好き嫌いという気持ちはあるし、それもコラムに書いてもいるのだが、しかし基本的な部分でTVへのあこがれのような気持ちがなかったのだろう。

 

つまりナンシー関には、TVはよきものという発想が全くなく、TVに登場してくる個人がどんなふうに映し出されているのかを、コラムの読者に対して報告することに徹していたのであった。

 

そして、私の解釈に過ぎないが、おそらくはTVの制作者や芸人、ミュージシャン、俳優等の人々のなかには、賞賛されたり、ちやほやされたいという気持ちがどうしても消しきれない人々がかなり多く含まれていたのであろう。

 

そういった人から賞賛されたい気持ちのあるTV界の住人のような人々が、TV界の住民を称賛するつもりが全くないナンシー関に観察されコラムを書かれてしまうと、悪口を書かれてしまっているように感じられてしまっていたのであろう。

 

TVの主要な視聴者層は高齢者、主婦、そして子どもであり、それは昔から今に至っても変わっていないはず。しかし、TVは誰にも見られてしまう大規模なメディアでもある。そして日本のTV制作者は、誰にどんな見られ方をされてしまうか、あまり自覚していないという未成熟さを抱えているのが、ナンシー関によって明らかにされてしまっていたのである。そう考えるとナンシー関が2002年に早世してしまったのは非常に惜しいことであった。

 

TV番組というものは誰にどんな見られ方がされているのかが制作者の側がある程度予測ができないと、予想外の苦情に晒されるといったこともありうるのである。ナンシー関がTV番組や出演者をこんな風に見えていますよと逐一報告していたのだから、どんな見え方がしているのか教訓にすることができればTV番組の質を上げることもできたかもしれない。