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草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

自虐…それは資本の国家を愛すること。。。自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!
The Rising Multitude

《皆さん
 

国家社会主義は、素晴らしい主義だと思いませんか?社会主義は揚げないが資本主義の問題点を国家で解決して行こうという社会保障を充実させる政策を行う。そして民族としての共同体を創り国家は、独裁政治を行い国家としてのまとまりを持つ。

 

この主義は、素晴らしい物だと思ってます。しかし世界の風潮ではナチスを背景に世界初否定的です。確かにナチスはホロコーストを行ったかもしれませんですが国としては非常に豊かではありませんか、ヒトラーは国家社会主義の根本として貧困者を無くしたではありませか確かにナチス派過度で批判されるかもしれませんがアメリカだって原爆を落としましたし、あれは、一般市民の虐殺ではないでしょうか?。

 

皆さんは国家社会主義(ナチス含む)についてどう思っていますか
国家社会主義を最高の主義だと思う同士はいないでしょうか?
国家社会主義を最高の主義だと思っている私は異常でしょうか》

 
「民族」なんて幻想ですよ。

貴方は、「民族」とやらの外延を確定できますか?

それができないなら、「民族」なんてものは実在しないということです。そして、実際「民族」の外延は絶対に規定できません。所詮まやかし、それこそ正真正銘のフェイクです。

そんなものに依拠した国家などあの程度しか持たなくて当然です。そもそも、国家なんて長い人類史のなかで一時的に発症したがん細胞のようなものです。ある方が異常なのです。社会の養分を吸い取って肥え太る国家など、切除すべきです。

仮想敵をでっちあげて、資本と労働のラディカルな対立を糊塗・隠ぺいしただけのまやかしが国家社会主義です。ソ連の国家資本主義の方が長持ちしただけまだしもマシというのは、さすがに言い過ぎかもしれませんが、50歩100歩でしょう。

人間と自然とのあいだの物質代謝を意識的・協働的に制御するという人間の本性に根差しアソシエートする諸個人こそが、来るべき社会の主役です


https://blogs.yahoo.co.jp/assocy/37006689.html
 
 
 
 
直接的生産過程での必要物の自然からの摂取によって非有機的身体が提供され、それら非有機的身体の消費を通じて人間各自の有機的身体が維持・再生産される。
 
有機的身体の維持・再生産のためには、この有機的身体からの排出物と社会的な排出物(不要となった非有機的身体=物質的財貨)の処理が不可欠である。さらにそのようにして有機的身体のうちに再生産された労働力が再び非有機的身体の生産のために支出される。
 
こうして円環的な過程が形成され生産が反復されることによって、直接的生産過程が社会的再生産過程の一契機であったことが明らかになる。
 
〈社会的再生産〉は、次の4つの契機の統一である。(1) 人間一人一人の再生産…食事をして睡眠をとって,自分の生命を維持すること、(2)人間の世代的再生産…子どもを産んで育てること(これが(3)の基礎)。(3)社会システムの再生産…社会のしくみを維持すること、そして、(4)として以上の3契機で使用される物質的な諸手段の生産、すなわち直接的生産過程である。
 
 
 

《正統マルクス主義というスタンスからレーニン批判というのは私達が若い頃によく聞かされたものですが、ポストソ連の世界ではもう意味がないのでは?

資本主義=自由と競争、は社会エネルギーの基本ですが、それに対して民主主義政府は、共産主義的機能を持っています。これ二重構造です。日本ではこういった視点がまだ発達していないようですが、欧米ではこれが当然です。》
 
 
資本の政府が〈生活自己責任の原則〉を修正して,政府として労働する諸個人の生活に介入することを「共産主義的機能」ととらえる理解は,マルクス原理主義の立場とは相容れません。
 
その機能は,晩期資本主義に固有の機能です。将来社会に引き継ぐ必要性も可能性もないものですから,「共産主義的機能」と呼ぶことは不可能なはずです。
 
なぜ引き継ぐことが不可能かといえば,将来社会では,この機能の担い手である政府は死滅するからです。
 
なぜ引き継ぐことが不要なのかといえば,この機能は,その内容からして,労働する諸個人から生活を自主管理する権利と能力を奪うものでしかないからです。
 
ただし,生活自己責任の原則の修正を実現した社会的規制力の中には,政府の介入権力とは区別されるべき労働する諸個人自身の規制力があります。これは断じて〈政〉〈府〉の機能ではありません。
 
労働する諸個人の,この自主的な社会的規制力こそが,将来社会に引き継がれ,真の「共産主義的機能」の担い手となります。
 
なお,資本主義政府の規制機能と,労働する諸個人の自主的規制力を混同することは,いわゆる「現存社会主義」体制の性格把握に失敗する原因の一つでもあると考えます。
 
☆本エントリーにトラックバックされた記事もご参照ください。
 
P.S
愚考を彫琢する機会となるコメントをいただきましたことに感謝いたします。
 
 
 
 
 
 
 
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大東亜戦争」について、“あれは「侵略戦争」だからいけないのだ“という議論がありますが、僕はそのような考え方には与しません。

あの戦争にそのような側面があったことは事実ですが、他方で、当時の日本の経済システムと政治体制の維持のためにはあの戦争は避けられなかったことも事実であって、その限りでは「自存自衛の戦争」という主張も一定の根拠を持つと思われるからです。

そして“侵略だからいけない“という主張は、言下に暗黙のうちに“自衛なら許される“という思想を潜ませているように思えます。僕はこの“自衛ならよい“とする考え方にそもそも反対です。「自存自衛」といってもそれはいったい誰が自分を守り自分の存続を図ることなのでしょうか?

あの戦争の場合には、日本帝国主義、そういって悪ければ日本資本主義の「自存自衛」の戦争だったことは明らかです。

日本資本主義は侵略抜きには存立不可能なまでに爛熟しているのです。帝国主義政策は資本主義発展の必然的産物です。僕は、このような帝国主義やその土台であるところの資本主義の存続を図ることやその防衛に努めることに反対です。

労働する諸個人は、資本の国家=〈搾取者の共同体〉の防衛に一切手を貸すべきではありません。労働する諸個人が守るべき祖「国」は既存の資本の国家ではありえません。

結論。僕が「大東亜戦争」を許すべからざる愚考と判断する理由は、あの戦争が「侵略戦争」だったからではなく、資本の国家の防衛戦争だったからです。
 
前回掲載時に頂いたコメントと、リプライ。
失礼します。

幕府山事件でコメントしている者です。
正直申しまして、スレ主様の歴史観がよく判りません。

私の持論を申しますと、「大東亜戦争」は「日本の資本主義」を守るための戦争ではありません。大きく言えば、1つは、「亜細亜の植民地支配を解放する」こと、もう1つは、アメリカが中心に行った「ABCD包囲網」や「ハル・ノート」に対しての外交的問題を解決するための手段だったのです。(後は、当時の蒋介石を支援していた英に対しての報復もあったでしょう。)

日本の戦争史を理解する上で、世界史的観点も必要です。私も勉強中ですが、幅広く物事を観るようにする必要があると思います
 
「アメリカが中心に行った「ABCD包囲網」や「ハル・ノート」に対しての外交的問題を解決する」=<日本資本主義の防衛>

ですね。

「亜細亜の植民地支配を解放する」=<後発帝国主義である日本資本主義が生存領域を確保するために先発帝国主義列強を排除する>

ですね。

それにもかかわらず、僕の歴史観がわからないということは、あなたはあなた自身のお考えが理解できていないということにほかなりませんね。
 
 
 
 
 
今の日本で、反グローバリズムを掲げる人の多くは、どうやらグローバリゼーションを単なるコスモポリタニズムの実践と捉えていて、国家の存在意義を強調することが、反グローバリズムの実践だと信じているようだ。しかし、実際のグローバリゼーションは、国民経済間の相対的自律性とそこから生じる格差を利用するシステムである。国民国家こそグローバリゼーションの道具なのだ。