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草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

自虐…それは資本の国家を愛すること。。。自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!
The Rising Multitude

 
『エコロジー経済学: 原理と応用』エヌティティ出版 (2014/3/25)
 
ハーマン・E・デイリー ,ジョシュア・ファーレイ (著)
 佐藤 正弘 (翻訳)

 
マルクスは,絶対的過剰人口が人類にとって無視できない問題であることが理解できなかったという趣旨。
 
実際には,マルクスのマルサス批判は,第1に,マルサスのような自然的人口論では解決できない社会的な要因が生む,相対的過剰人口の問題があるという指摘であり,第2に,二つの問題は別個の事柄であり,マルサスの議論は,後者を前者に解消して,事実上後者,すなわち社会的要因による相対的過剰人口の問題を隠ぺいすることになるという指摘である。 
 
確かに,当時の先進資本主義国の状況のもとで,マルクスは,社会的要因による相対的過剰人口の問題を,絶対的な人口過剰よりも喫緊の課題であると捉えていた。
 
問題は,マルクスが,そのような認識の妥当性をどこまで普遍的・一般的なものと考えていたか,である。常に無条件に,絶対的な人口過剰よりも相対的過剰人口が重大な問題であるとか,ほとんど同じことであるが,絶対的な人口過剰などとるに足りない偽問題だとか,彼が考えていたとしたら,それは確かに誤りである。それは,二つの異なる問題をいずれか一方に解消してしまうという点で,マルサスと逆方向ではあるが,同等の誤りであるといわざるを得ない。
 
しかし,マルクスは,相対的過剰人口が,絶対的過剰人口とは別個の問題であることを指摘したうえで,さらに,両者の関係についても言及している。労働者,農民,手工業者など下層諸階級の貧困(相対的過剰人口はその要因の一つである)が,かえってその生物学的な人口増を後押しする傾向があるという指摘(生存率の低い動物ほど出生数が多いという例を引いての叙述)である。つまり,相対的過剰人口の在り方が,絶対的過剰人口の在り方に影響を与えるという指摘である。この認識は,近年の人口動態学の知見とも合致しているものではないだろうか。
 
このことは,人口問題への医学,生理学,生態学的アプローチと並んで,社会的・経済的アプローチが必要かつ有効であることを示している。
 
デイリーのように,マルクスのような,人口問題への社会科学的アプローチを人口問題への無理解として片づけるような態度は,極端に一面的なものの見方ということになるだろう。
 
 
 
 
 
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 個人主義の2類系を厳格に区別する必要がある。


 ひとつは、私的個人主義である。個人を孤立的・排他的存在と捉える立場である。皮膚の内側と意識を以て個人とする立場と言ってもよいだろう。

 今ひとつは、媒介的個人主義である。個人の身体を他人の身体や意識、周辺の事物への働きかけの起点として捉える立場である。また、この働きかけを通じて各個人の意識が発生する捉える立場でもある。

 私的個人主義においては、周辺の事物は、各自の排他的占有物として分割される。有機的な連関の中でしか十全に機能し得ないものまでそうされる。

 他方、媒介的個人主義の場合は、同じ一つの事物が同時に複数の個人の非有機的身体となっている可能性が認められている。そこに個人間の協調の実在的な基盤が見出されるのである。

 マルクスによれば、ロックは、自然の共有の下でも個人の自立が可能なのはなぜかという問題に答えようとしていたという。ロックは、当に媒介的個人主義の立場に立っていたのである。

 結束主義や全体主義は、私的個人主義の必然的な分泌物である。

 私的個人主義は、個人間の協調の実在的基盤を分解して排他的に支配しようとする傾向を助長する。その結果は、言うまでもなく、万人による万人に対する闘争である。

 私的個人主義の立場から、この事態を回避しようとする場合、方法は2つしかない。一つは、各自が自己の排他的自立の権利を放棄して絶対権力に帰依することである。今一つは、より抽象的な価値観や理念の共有を拠り所にして各自が自己の権利を自主規制することである。

 後者を結束主義、前者を全体主義と呼ぶことにしよう。

 私的個人主義者は、互いの排他的闘争を抑制したい場合、結束主義と全体主義のどちらを選んでもよい。だが、結束主義は、往々にして全体主義に帰着する。

 抽象理念の自発的共有は、共有の実在的基盤が欠けている場合には、その維持が極めて困難である。解釈の違いが分岐を生み、それを阻止しようとして異端狩りが始まる。異端が駆逐されるか、服従させられるかすれば、全体主義への移行の完了である。
 

https://blogcircle.jp/commu/11/topic/3

 

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草莽崛起 (The Rising Multitude)

人権は「私」権、自己決定権は独断の権利と思い込んでいては、私的に振舞う諸個人を共同体を代表する何者かが外から権威と強制によって統制するしかないと考えざるを得なくなるのは当然です。
 
実際の人権は、社会関係を結ぶ当事者同士が相互に承認しあう社会形成能力です。自分の能力を相手に認めてもらうだけでなく、相手の能力を自分の方でも認めてやることが必要です。相互にその能力を認め合うためには、実際に相手に対して何らかの貢献を行なうことが必要です。自分の利益のみを考え独断的に振舞っていては、相互承認は成立しません。
 
しかし、今日のように交通手段や通信手段が発達し人の動きや物流が広範囲に広がり、経済活動の規模も大きくなっている状況下では、、当事者間の関係にとどまらず、当事者を越えて成立してしまう関係への配慮・想像力を持てるかどうかも各人の社会形成能力に対する評価を下す上で、非常に重要な着目点となります。
外在的な権威や強制は当事者能力を衰退させ、社会の空洞化を促進します。人々は社会の代表者を僭称する支配者(権威)と自分との関係以外のものを徹底的に無視するようになるからです。
 
コネとゴマすりが幅を利かすようになり、そうした大衆の迎合主義は、「独裁国家には仮想敵が必要」と石原慎太郎氏が喝破したように僭称者の専制に利用されるのがオチです。北朝鮮の金体制。中国の愛国心教育や文化大革命。ネオナチ、キリスト教原理主義、イスラム原理主義、シオニスト*etc.の排外主義。こうした例は無数にあります。
 
自然の驚異や生産力の低さから来る飢饉の恐怖など、より大きな「著しい精神的・肉体的苦痛」を避けるために「精神的・肉体的苦痛を伴」う「同調」を選択せざるをえなかった状況が伝統的な共同体――人格的依存関係にもとづく共同体を支えていましたが、そのような状況は今日では消滅しています。
 
それにもかかわらず人格依存的な共同体もしくはそれに似たものを形成しようとすれば、その共同体は成員の忠誠を調達するために共同体に同調しきれない者に対する暴力的抑圧に頼らざるをえないでしょう。「同調」よりも大きな苦痛を人為的に作り出し、その苦痛よりは同調を選ばざるを得ないように仕向けることになるのです。
 
このように作り出される「同調」は、自発的で自由な連携・協同に比べてはるかに弱い個人間の結びつきにしかならないでしょう。あるいは、共依存的に「同調」が強化される結果、集団の内圧が高くなりすぎて、構成員個々人が押しつぶされる結果になるかもしれません。
 
自己決定権の剥奪や外からまたは上からの抑制ではなく、相互干渉的、もしくは相互交渉的な自己決定へと、自己決定のあり方を私的・排他的なそれから転換させること(自己決定の公共化)、これが必要です。
 
*2025年10月13日加筆(今頃加筆する自分をつくづく情けなく思います)
 

1.〈成長〉とは?

 一般的な意味で「成長」という時その内容は極めて多義的である。だからそのような曖昧(あいまい)さを残したまま「脱成長」や「反‐脱成長」を唱えるのは混乱の素でしかない。

 脱〈成長〉の〈成長〉は、GDPの増大に限定してとらえるべきである。ここに技術革新や生産力の向上・発展,人間の知的能力の伸長などを紛れ込ませてはならない。これらを紛れ込ませてしまえば,「脱成長」の中に「技術革新や生産力の向上・発展,人間の知的能力の伸長などの否定」が含まれてしまうからである。しかし,実際にはGDP増大の抑制or停滞が必ずしも「技術革新や生産力の向上・発展,人間の知的能力の伸長などの否定」をもたらすわけではない。J.S.ミルの「ステイショナリー・ステイト(停止状態)」論は,「脱成長」論のように人間が意図的に成長を止めるのではなく,資源枯渇や人口減少などによりGDPの規模が一定水準で固定されてしまう可能性を論じたものであるが,その場合でも技術の進歩や知性の発展は否定されていない

 「反生産力・反科学」的な「脱成長」論堀江・柿埜のような「反‐脱成長」論(「『成長』無条件肯定主義)は、実は同じ立場に立っている。両者ともに「脱成長」の〈成長〉に技術革新や生産力の向上・発展,人間の知的能力の伸長などを紛れ込ませている。両者の違いはその先にある。「反生産力・反科学」的な「脱成長」論は,GDPの増大とともに技術革新や生産力の向上・発展,人間の知的能力の伸長まで否定してしまう。他方,堀江・柿埜流の「反‐脱成長」論は,技術革新や生産力の向上・発展,人間の知的能力の伸長とともGDPの増大を無条件に――内容を問わずに――肯定する。事実上,「GDPの増大はいつでもどこでも環境破壊の抑制に有益だ」と主張している。どちらも間違っていることは言うまでもない。

 2.〈成長(GDPの増大)〉も〈技術革新や生産力の向上・発展〉もその内容が問われるべきである。

 (1)GDPの増大一般を無条件に肯定することはできない

 GDPの増大が一般的に,無条件に環境負荷を増大させるわけではない。環境負荷は主に資源の浪費と廃棄物の種類と量の増大によってもたらされるが,それはGDPの増大が不可避的にもたらすものではない。しかし,このことは同時に次のことを意味する。ある条件の下ではGDPの増大は環境負荷を増大させるのである。問題は,GDPの増大が環境負荷を増大させたりさせなかったりする条件は何かということである。それは,一つには資源効率性(エコ・エフィシエンシー)との関係である。技術革新によって資源効率性に優れた技術が生まれ、これを導入することによりある量の使用価値をより少ない資源から生産できるようになれば,生産量の増大がそのままダイレクトに資源の消費増大に繋がらないようにできる可能性が生じる。しかし,他方では,資源投入の減少による価格低下が消費を刺激して消費量が増え、結果的に資源消費が増える場合がある(リバウンド効果)。これを防ぐためには,上記のような生産過程での資源効率性の向上に加え,消費の在り方において物質的財貨に依存した効用の追求から資源節約的な効用実現への転換サービス経済化)が図られる必要がある。さらにそれらのサービスを消費者自身がサブシステンス(自給的経済活動)として自己調達するなら,GDPの増大に依存することなく環境負荷の低減と効用の増大が両立できる可能性がある。つまり,GDPの規模の大小からは環境負荷への影響がどのようなものになるか判断できないのであり,GDPの構成内(この場合は,物財なのか,サービスなのか)こそが,それを左右するものであることがわかる。

 GDPの構成内容としては,次のよう区別も重要である。同じ物財の中でも生産財なのか消費財なのかという区別である。ある消費財の需要が増大した時期に増設された設備が、その後の需要の停滞や後退の中で稼働率が落ちそうになった時、資本主義的な生産関係の中では,設備の稼働率を上げたい,最低でも維持したいという欲求が働きやすい。そもそも個々の資本が事業規模拡大を基本目的としている資本主義においては,GDPの構成内容が生産財中心になりやすい。追加投資のための生産財への需要が少なくとも潜在的には常に存在していて,これを実現するための資金形成(減価償却費の積立)を不断に進行させる衝動が働いているからである。GDPのかなりの部分が過剰設備や原材料の過剰在庫となっているとしたら、それだけで資源が浪費されていることなるし,環境負荷が増大する可能性が高い。さらにそれらの稼働率や利用率を高めるために不要不急の消費が増えていくとしたらこれも資源の浪費と環境負荷増大につながる。

 

 (2)技術や生産力にもいろいろある

 資本主義においては、各個別資本(企業)がそれぞれ任意の技術を各々の目的に照らして開発・採用する。そうした技術の中には,環境負荷を高めるものもあれば,環境中立的なものも,環境負荷の軽減や環境修復に役立つものもあるし,それが利用の仕方次第で変わる物もあれば,利用の仕方如何かかわらず左記のいずれかの性質が絶対的に表れるようなものもある。問題は,それら多様な技術の全体的な組み合わせによって発揮される「社会の生産として現れる質料変換を制御する能力資本主義の自然生成的(成り行き)な社会的分業――個別資本によるそれぞれ任意の技術選択の根拠――には全く不十分にしか備わっていないという事実である。総額としてのGDPの増大=〈成長〉この種々の技術の全体的な構成やそれがもたらす社会の生産力(質料変換の制御能力)を向上させる保証はどこにもないのである。

 むろん,GDPの増大を抑制すれば,環境にプラスの技術が生まれるという逆の保証もあるはずがない。「1.〈成長〉とは?」で述べたように〈成長(GDPの増大)〉は,技術革新や生産力の向上・発展とは別の事柄であり,前者に後者を依存させて「成長無くして革新なし」と思い込んだり,「技術発展をあきらめなければ成長によって環境負荷が増大する」と考えたりするのは,どちらも間違いである。

 各経済主体のそれぞれ任意の経済行動に任せていては労働の生産力の質料変換の制御力としての側面(資本主義においては「社会の生産力」として現れる)発達しな環境保護運動やそれがもたらす行政権力による環境規制が必要となるゆえんである。環境クズネッツ曲線のターニングポイントの出現もそれによって後押しされた可能性がある。環境クズネッツ曲線には一般的な妥当性がなく,条件次第で妥当性が変わる理由がそこにある。

 

莽崛起(The Rising Multitude)

福祉制度は、そのような不完全競争市場をそのまま受け入れたうえで補完するものでしかない。福祉国家論は、新自由主義に比べはるかにリアルに現実を捉えているが、それゆえに、逆に現実に追随することになる。こう考えてみると新自由主義が愛国保守の人々からある種の「反保守主義」とみなされ、[新自由主義者]自らも「改革」を標榜し「守旧派」との対決を強調するのも故なきことではない。ただ、その「改革」の真の意図と表向きのプロパガンダは全く異なる。新自由主義も愛国保守(左翼福祉国家論を含む)も、そこからは資本主義の延命作以外のものは出てこないのである。

前々回のエントリーで上のように書いたが、深見氏の議論も同様の限界持つ。深見氏は、市場における「平等・公平」の追求なり確保なりが市場における「効率・公正」を補完すると論じる。事実その通りであるが、そのような「平等・公平」は、「市場」の枠組みにとらえられた歴史的限界を持つ「平等・公平」でしかない。また、深見氏は、経済学が追求すべき自由は、「市場における選択の自由」という狭いものではなく、「個性の自由や人間発達の促進を意味する自由であるべき」だと主張する。しかし、結局は、「市場における選択の自由はこれを達成するための前提である」としてしまう。

 

こうした議論は、市場の揚棄という課題の放棄に帰着する。市場が揚棄不能だとすれば、それは資本主義からの脱出自体も不可能だということになる。それは、大谷禎之介が、『21世紀とマルクス』の第10章などで明らかにしているとおりである。商品市場がある限り、労働市場も存続ないしは再発生する。商品生産と賃労働こそ資本主義の要件なのだから、商品市場が揚棄できなければ資本主義も揚棄できないのである。市場が人間発達の前提だということになれば、資本主義にしか人間発達を実現することはできないということになるのである。

 

 

Fairport Convention - Percy's Song (1969)