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草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

自虐…それは資本の国家を愛すること。。。自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!
The Rising Multitude

 
 

「合理的な愚か者」

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 1976年までには、センは、経済理論の行動の基盤に対して、それを慎重に吟味することからさらに進んで、むしろそれを嘲笑するような態度を示すようになっていた。オックスフォード大学での、「合理的な愚か者」とタイトルをつけられた、彼の有名なハーバート・スペンサー記念講義では、センは人々が常に自己利益に即して振舞うという仮定を論破した。彼は、人々が純粋に自己利益だけを考えて振舞うならば、どれほどばかげた生活になるのかについて明らかにしている単純な例でその不合理性を描出することによって、それを行なった。
 
 
 「駅はどこです?」彼は、私に聞きます。「そこですよ」と、郵便局を指して、私が言います。そして、「途中で私のためにこの手紙を投函してもらえますか?」と頼むと、「はい」と、彼が言います。しかし、彼は、封筒を開けてそこに価値ある何かが入っているかどうか調べる魂胆なのです。
 
※ つまり、新古典派の仮定の通りの世の中であったとしたら誰も他人の親切に期待することなどできないと言うこと。
 
彼はさらに、この講義の中で、共感とコミットメントの区別を論じ、人間行動を純粋に利己的なものと理解する理論にとっては、彼はコミットメントに基づく振る舞いの方が共感に基づく振る舞いよりも多くの解決すべき理論問題を含んでいると主張した。
 
誰かが拷問を受けていると知って、あなたが病気になるならば、それは共感のケースです。同じことを知ってもあなた自身が何かひどい状況になるわけでもなく、しかしそれにもかかわらず、それが間違っていると考え、自分はそれを止めるために何かしらのことをすることができると思うのであれば、それはコミットメントのケースです。
 
 ※ 共感(sympathy)…他人の幸福状態の悪化を見て、自分自身の感情が傷付けられるなど、自分自身の幸福状態も悪化するような場合をいう。もちろん、逆の場合もある。つまり、他人の幸福状態の改善を見て、自分自身も満足を得る場合である。
 
コミットメント…自分の幸福状態がなんら改善されないか、ひょっとしたら悪化するもしれないことを承知の上で損得とは別の善悪などの基準に照らして、ある行動を選択することをコミットメントという。
 
共感のケースでは、アムネスティ・インターナショナル[1]への募金も利己的な行為と解釈することもできる。しかし、コミットメントのケースでは逆の解釈となる。募金者は自分のために利用できたかもしれない別の選択肢−すなわち自分は寄付をしないで、その代わりに他人の寄付にただ乗りするという方法--よりも自分にとっては損失の大きい選択肢を選んだと解釈できる。
 
“合理的な愚か者”があっという間に評判になったことは、自分の個人的損失をも辞さないコミットメントからでて来る行動を「善き市民」がしばしばとると感じている人々や、反対に経済学の仮定に対して憤慨している人たちの気にしている事柄を、センが的確に表現したことを示している。経済学理論が、“他人のコミットメントにただ乗りして最大限利己的に振舞うのが善き市民だ”と教えているということが、これらの人々をさらに苛立たせていたのである。センが新古典派との戦いで形勢逆転に成功し、新古典派に合理的な愚か者のレッテルを貼ったとき、多くの人が大歓迎したのは、それほど驚くべきことではないと、ロビン・ハーネルは述べている。
 
[1] 《「アムネスティ」は大赦の意》投獄された政治犯・思想犯の釈放、待遇改善、死刑廃止などを目的とする国際的な人権擁護組織。1961年設立。本部はロンドン。1977年、ノーベル平和賞受賞。
 
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ロビン・ハーネルについて。彼はParecon(参加経済学)の提唱者として知られています。現代アナキズムの経済理論家と捉える人もあるようです。
 
“Parecon”でYoutubeを検索すると沢山ビデオがヒットします。
 
※ マイケル・レボウィッツは、センに関する章の執筆者ではありませんでした。
 

マルクスの宗教疎外揚棄論がスターリニズムによって歪曲された宗教弾圧に利用された結果、マルクス主義者全般に誤った宗教観が蔓延しています。

 

マルクス本来の立場からすれば、宗教への依存の必要性を無くすために社会環境を改善することが本旨です。また、それぞれの宗教の内容についても全否定するものではなく、類的本質の発現という積極面を認めています。

 

そして、この点は、マルクス自身は余り触れていないようですが、この積極面にこそ、様々な宗教の共通性があります。

 

1. マルクスの宗教疎外揚棄論とその本旨

 

マルクスの宗教観は、フォイエルバッハの宗教的疎外論を継承しつつ、唯物論的視点から発展させたものです。彼の有名な言葉「宗教は民衆の阿片である」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)は、宗教が社会的不平等や抑圧による苦しみを和らげる幻想であると同時に、人間の疎外された本質の表現であることを示しています。マルクスの本旨は、宗教そのものを直接攻撃することではなく、宗教への依存を生み出す社会経済的条件(資本主義的搾取や階級社会)を変革することで、宗教的疎外を「揚棄」(Aufhebung)することにあります。揚棄とは、単なる否定ではなく、宗教に含まれる人間的本質の積極面を保存しつつ、その疎外された形態を克服するプロセスを指します。マルクスは、宗教が人間の「類的本質」(Gattungswesen、種としての本質)の疎外された表現であるとみなし、愛、連帯、倫理といった人間的価値が宗教的形態で現れることを認めています。この積極面は、宗教が単なる幻想を超えて、人間の社会的・倫理的欲求を反映している点にあります。したがって、マルクスの立場は、宗教の内容を全否定するものではなく、その根底にある人間的欲求を解放し、物質的・社会的な現実に還元することを目指しています 
 

 

 

 

本来、区別と差別はそれこそ区別すべきものですし、その理由については、多くの方が説明済みですが、問題は、「区別」という言葉の使われ方です。



「区別によって一方のグループが高い頻度で不利益をこうむる場合や差別、分類自体に根拠が乏しく偏見による疑いが強いものは差別」というご回答があり、僕もそれに賛同するものですが、質問者の方が指摘してくださっているのは、不利益をこうむる側からの異議申し立てに対して、「これは区別だ」とする開き直りがあるという問題なのです。



差別ではないかという申し立てには、「自分たちが高頻度で不利益をこうむっている。」、「いくつかのグループの一部に利益が集中している、逆に不利益が集中している。」…こう言う主張が含まれているのですから、差別であることを否定するためには、そのような利害の偏りのないことを証明しなければなりません。



ところが「『区別』なのだから問題はない」と主張する人の多くは、しばしば、この努力を怠りただひたすらグループ分け自体には問題がないと、まぁ、それ自体は当たり前のことを、争点とは違うことを言い募るばかりなのですから、これはまったく質問にあるとおり、開き直りであり差別であるといわなければなりません!



つまり、言葉の意味の一般的な検討として、区別と差別の関係を論じる場合には、勿論「区別」と「差別」とは同じではないという説明は正しいのですが、差別に対する異議申し立てにおける争点は、グループ分けそれ自体の是非ではなく、分けた結果利害の偏りが生じたかどうかですから、差別に対する異議申し立てに対して、この争点を逸らして、「分けるだけなら問題ない」としか言わないのは、やはり差別なのです。

産業・業種別の、すなわち社会的分業の諸分肢たる、諸々の具体的労働を資本主義的生産関係の商品生産関係としての側面が媒介し、社会的総労働へと編成している。そして、これらの具体的諸労働は、当該社会のその時点での社会の生産力すなわち生産諸力の社会的総体の担い手のである。このような資本主義的な社会構成体総体における社会の生産力と生産関係の照応関係が社会総体的な資本主義的生産様式である。
 

他方、各々の具体的労働が実行される各生産過程において、個別労働者の労働行為が資本主義的生産関係の資本・賃労働関係としての側面によって媒介されて資本の下での結合労働 へと編成されている。そして、結合労働は、個別資本の社会的労働の生産力担い手である。このような個別生産過程内部での労働の生産力と生産関係の照応関係が、個別資本の生産過程における生産様式である。

 
所与の社会の生産力[自然と人間の間の物質代謝を制御する力量]に規定された生産関係が形成される。それが種々の労働の生産力を個別的生産過程において媒介・編成し、それらの種々の労働の生産力が、また、社会的総労働の諸分肢として生産関係によって媒介されて社会的分業の総体へと編み上げられていく。生産力と生産関係の統一とは、このように成層的な構造を持つ。
 
 
 
 
 

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《ソ連邦の経済と政治における矛盾した過程は、プロレタリア独裁の基礎上で展開されている。社会体制の性格は何よりも所有関係によって規定される。国有化された土地や国有化された工業の生産・交換手段、国家の手中にある外国貿易の独占、これらはソ連邦の社会制度の基礎をなしている。10月革命によって収奪された諸階級が、新しく形成されたブルジョア分子として、また官僚のブルジョア的部分として、土地や銀行や工場や鉄道その他において私的所有を再建することは、反革命的変革によってしか不可能である。階級関係の基礎にあるこの所有関係によって、われわれはソヴィエト連邦の本質をプロレタリア国家として規定するのである。》
http://www.marxists.org/nihon/trotsky/1930-1/se-hatten.htm
 
ここに、トロツキーの最大の弱点が示されている。スターリニストの理論的魂である「生産関係の基礎としての所有」論の克服につい到達しえなかったという弱点である。ここでは全くトロツキー自身が「生産関係の基礎としての所有」論の観点から、国有化を私的所有の揚棄の形態だと誤認している。
 
しかし、実際には、プロレタリアートによる生産手段の掌握は、以下で説明するような生産関係における関係行為を内容とし、それが社会的承認を受け取ることによって成立する。
 
まず、この関係行為の一般的構造を示せば次のとおりである。
 
(A) acts to (B) as (C1 or 2)  
ただし、 A=C1 or B=C2

(A) acts to (B) as (C1)  
⇒ (A)は、(B)に対して、自分自身が(C1)であるとして働きかける

(A) acts to (B) as (C2)
 ⇒(A)は、(B)に対して、(B)が(C2)であるとして働きかける
 

 

以上の2つの関係は、一つにまとめることができる。
 
(A) acts to (B) as (C2) as (C1)
 ⇒(A)は、(B)に対して、(B)が(C2)であるとして、自身が(C1)たる態度で働きかける
 

 

そして、プロレタリアートによる生産手段の掌握、すなわち個人的所有の再建では、主体(A)は、「労働する諸個人」、(B)は、「生産手段」である。そして、労働する諸個人は、この関係行為において生産手段の自分の身体の延長、第二の身体、非有機的身体として、また自身は、非有機的身体に自分の意思を宿す自由な個体性として振舞う。
 
これをこれまで見てきた文章構造に当てはめれば、以下のようになる。
 
Every working individual(A) acts to their means of production(B) as their non-organic body(C2), as a free individuality(C1).
 
 
労働する諸個人(A)は、生産手段(B)に対して、生産手段が自分の非有機的身体(C2)であるとして、自由な個体性(C1)たる態度で働きかける。
 
 つまり、労働する諸個人が自分自身の自由な意思で、生産手段を自分自身の肉体と同様に、自在に取り扱え、それが社会的な承認を受け取っている場合にだけ、プロレタリアートによる生産手段の掌握、再建された個人的所有が存在しているのである。
 
所有が真に私的所有を揚棄しつつあるものとなっているかどうかは、所有の法律的形態によって決まるものではなく、生産過程における労働する諸個人の生産手段に対する働きかけの在り方に、つまり生産様式の実際の運動状況によって決まるのである。
 
労働者が名目的に、名義上、生産手段の所有者として法的に登録されていようとも、彼らが賃金と引き換えに自分の労働力を官僚組織という他人の意思(国家計画)を実現するために消費するならば、彼は、生産手段の所有者ではなく、賃金労働者である。あとは、生産手段の側に自己増殖する価値としての性格が確認されさえすれば、官僚組織と労働者の関係は、まぎれもない資本・賃労働関係であるということになる。
 
《ソヴィエトの所有関係は、諸階級の政治的相互関係と同様、議論の余地なく次のことを物語っている。すなわち、ソヴィエト体制の歪曲や中間主義官僚の破滅的な政策にもかかわらず、ソ連邦は労働者国家のままである。》
 
トロツキーが言う「ソヴィエトの所有関係」とは、国家所有のことに他ならない。しかし、上で見たように労働者自主管理という内実がないなら、国家所有は、労働者所有ではあり得ないのである。つまり、国家所有の主体は、労働者ではない、労働者でないものが所有主体となっているということである。
 
ソ連における生産手段の現実的な所有者である国家官僚は、国有化された生産手段の「人格化」であり、労働者は彼らに購入される労働力商品の「人格化」である。それが、資本主義であるかどうかは、生産手段が資本としての自己増殖運動の一契機となっているかどうかに依存しているが、少なくともそれが再建されるべき個人的所有とは全く異なる所有関係であることだけは、はっきりしている。
 
そこに労働者所有はなく、官僚の手中に落ちたソ連はもはや労働者国家ではない。
 

 
旧タイトル;トロツキー「ソ連邦の発展の諸問題」を読む