「合理的な愚か者」


マルクスの宗教疎外揚棄論がスターリニズムによって歪曲された宗教弾圧に利用された結果、マルクス主義者全般に誤った宗教観が蔓延しています。
マルクス本来の立場からすれば、宗教への依存の必要性を無くすために社会環境を改善することが本旨です。また、それぞれの宗教の内容についても全否定するものではなく、類的本質の発現という積極面を認めています。
そして、この点は、マルクス自身は余り触れていないようですが、この積極面にこそ、様々な宗教の共通性があります。
1. マルクスの宗教疎外揚棄論とその本旨
マルクスの宗教観は、フォイエルバッハの宗教的疎外論を継承しつつ、唯物論的視点から発展させたものです。彼の有名な言葉「宗教は民衆の阿片である」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)は、宗教が社会的不平等や抑圧による苦しみを和らげる幻想であると同時に、人間の疎外された本質の表現であることを示しています。マルクスの本旨は、宗教そのものを直接攻撃することではなく、宗教への依存を生み出す社会経済的条件(資本主義的搾取や階級社会)を変革することで、宗教的疎外を「揚棄」(Aufhebung)することにあります。揚棄とは、単なる否定ではなく、宗教に含まれる人間的本質の積極面を保存しつつ、その疎外された形態を克服するプロセスを指します。マルクスは、宗教が人間の「類的本質」(Gattungswesen、種としての本質)の疎外された表現であるとみなし、愛、連帯、倫理といった人間的価値が宗教的形態で現れることを認めています。この積極面は、宗教が単なる幻想を超えて、人間の社会的・倫理的欲求を反映している点にあります。したがって、マルクスの立場は、宗教の内容を全否定するものではなく、その根底にある人間的欲求を解放し、物質的・社会的な現実に還元することを目指しています
本来、区別と差別はそれこそ区別すべきものですし、その理由については、多くの方が説明済みですが、問題は、「区別」という言葉の使われ方です。
「区別によって一方のグループが高い頻度で不利益をこうむる場合や差別、分類自体に根拠が乏しく偏見による疑いが強いものは差別」というご回答があり、僕もそれに賛同するものですが、質問者の方が指摘してくださっているのは、不利益をこうむる側からの異議申し立てに対して、「これは区別だ」とする開き直りがあるという問題なのです。
差別ではないかという申し立てには、「自分たちが高頻度で不利益をこうむっている。」、「いくつかのグループの一部に利益が集中している、逆に不利益が集中している。」…こう言う主張が含まれているのですから、差別であることを否定するためには、そのような利害の偏りのないことを証明しなければなりません。
ところが「『区別』なのだから問題はない」と主張する人の多くは、しばしば、この努力を怠りただひたすらグループ分け自体には問題がないと、まぁ、それ自体は当たり前のことを、争点とは違うことを言い募るばかりなのですから、これはまったく質問にあるとおり、開き直りであり差別であるといわなければなりません!
つまり、言葉の意味の一般的な検討として、区別と差別の関係を論じる場合には、勿論「区別」と「差別」とは同じではないという説明は正しいのですが、差別に対する異議申し立てにおける争点は、グループ分けそれ自体の是非ではなく、分けた結果利害の偏りが生じたかどうかですから、差別に対する異議申し立てに対して、この争点を逸らして、「分けるだけなら問題ない」としか言わないのは、やはり差別なのです。
他方、各々の具体的労働が実行される各生産過程において、個別労働者の労働行為が資本主義的生産関係の資本・賃労働関係としての側面によって媒介されて資本の下での結合労働 へと編成されている。そして、結合労働は、個別資本の社会的労働の生産力担い手である。このような個別生産過程内部での労働の生産力と生産関係の照応関係が、個別資本の生産過程における生産様式である。
《ソ連邦の経済と政治における矛盾した過程は、プロレタリア独裁の基礎上で展開されている。社会体制の性格は何よりも所有関係によって規定される。国有化された土地や国有化された工業の生産・交換手段、国家の手中にある外国貿易の独占、これらはソ連邦の社会制度の基礎をなしている。10月革命によって収奪された諸階級が、新しく形成されたブルジョア分子として、また官僚のブルジョア的部分として、土地や銀行や工場や鉄道その他において私的所有を再建することは、反革命的変革によってしか不可能である。階級関係の基礎にあるこの所有関係によって、われわれはソヴィエト連邦の本質をプロレタリア国家として規定するのである。》
http://www.marxists.org/nihon/trotsky/1930-1/se-hatten.htm
(A) acts to (B) as (C1 or 2)
ただし、 A=C1 or B=C2
(A) acts to (B) as (C1)
⇒ (A)は、(B)に対して、自分自身が(C1)であるとして働きかける
(A) acts to (B) as (C2)
⇒(A)は、(B)に対して、(B)が(C2)であるとして働きかける
(A) acts to (B) as (C2) as (C1)
⇒(A)は、(B)に対して、(B)が(C2)であるとして、自身が(C1)たる態度で働きかける
Every working individual(A) acts to their means of production(B) as their non-organic body(C2), as a free individuality(C1).労働する諸個人(A)は、生産手段(B)に対して、生産手段が自分の非有機的身体(C2)であるとして、自由な個体性(C1)たる態度で働きかける。
《ソヴィエトの所有関係は、諸階級の政治的相互関係と同様、議論の余地なく次のことを物語っている。すなわち、ソヴィエト体制の歪曲や中間主義官僚の破滅的な政策にもかかわらず、ソ連邦は労働者国家のままである。》