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草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

自虐…それは資本の国家を愛すること。。。自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!
The Rising Multitude

“私人間の諸々の条件の差異・格差に国家は介入すべきではない。これらの差異は、偶然的事情から生じたものものも含まれるが、大半は、各自の努力の多寡を反映したものである。また、成功者への資源集中は、資源を効率的に利用できる能力の高い者に資源をゆだねることによって、社会全体の資源の利用効率を引き上げ、ひいては社会的総効用(効用の社会的総計)を増大させるだろう。”
 
メリトクラシー(能力主義)の神話とでも呼ぶべきこの発想が、対立する2つの立場の一方である。これは、政治的解放を直ちにそれが人間的解放であると取り違える立場にも通じている。
 
しかし、このような神話が現実にもたらす帰結は、社会的総効用の増大のもとでの効用の偏在(より適切な指標を用いるならケイパビリティの偏在)、すなわち格差の拡大である。格差の拡大は、ケイパビリティが低下する層の社会的排除を生む。ケイパビリティの低下が、これらの層の社会への適応を妨げアノミー状態をもたらし、高ケイパビリティ層も含めた社会総体に社会不安が広がる。
 
それだけではない。ケイパビリティの低下がある限界を超えて社会的に広がるなら、労働力再生産の撹乱が生じることになる。この撹乱は、人口再生産の停滞という量的側面と労働技能向上の困難という質的側面の両面において現れる。それは、結果的に社会総体の物質的富の停滞や縮減へと至るだろう。
 
メリトクラシーの神話がもたらした社会の衰退そのものは覆い隠しようもない。ところが、それがメリトクラシーの神話によって齎されたことを隠ぺいするために、資本の勢力は、さらにもう一つの神話をねつ造する。「害国人」神話である。そこから「生活保護」などへの攻撃が生まれ、メリトクラシーは強化される。
 
出生、教育、職業の差異が、極端に大きな生活水準(ケイパビリティ)の違いや、そうした違いの固定化がもたらす場合は、この差異は、是正されるべきである。しかし、問題は、これらの差異はいかにして是正されるべきかということである。
 
メリトクラシー神話と対立するもう一方の立場であるコーポラティズムの思想と実践が、 コーポラティスト国家として具現化されている。しかも、それは私人間の差異と格差に対する公共的配慮の一形態と考えられている。
 
ところが、コーポラティスト国家は、あからさまな性別職域分離や男性正規労働者とそれ以外の労働諸階層との間の二重労働市場や福祉受給権おいて女性が男性に従属すること、家庭責任が専ら女性の肩にかかることなど、実は、諸々の格差を維持再生産する体制以外の何物でもない。
 
国家は、市民社会における差異と格差を自らが取り扱うべき問題と意識し、積極的にそれらの諸事情に介入し、それらの差異や格差を自己の管理下に置きつつ、それらの差異や格差を再生産している。国家とコルポラツィオーンの協働によるポリツァイ(福祉行政)の推進というヘーゲルの国家論の構図をここに見ることができる。
 
われわれの課題は、まさに、メリトクラシーの神話に代表されるネオ・リベラリズムと差異と格差の国家的再生産としてのコーポラティズムという対立する二つの傾向に対する二重批判である。その際、対立する2契機はまったく対等のものとして扱われるべきではないだろう。
 
ネオ・リベラリズムは、社会矛盾の国家による隠蔽・粉飾を排除し、矛盾の存在をあらわにさせることにおいて、コーポラティズムに対する優位を持つのである。
 
コーポラティズムのような国家的配慮は、確かに公共的配慮の一形態に違いないが、それは、「市民社会」の現実を覆い隠し、根源的な解決を先送りする作用を持っている。資本の国家が、市民社会の格差と差別に自分が示す配慮は、まやかしにすぎず、実効性を持たないことをあからさまに認め、もはや配慮などやめたと居直ることに他ならないネオ・リベラリズムの実践は、国家的配慮に代わる真に公共的な配慮の必要性を我々に指し示す点において、決定的に肯定的契機を含んでいる。
 
 

 

《所有権と環境問題との関連で,ハーディンの論文「コモンズの悲劇」(G.Hardin,Sience,162,1968)は,所有権を特定の個人に帰属できない財(大気や放牧地など)は,すべて劣化し,枯渇する運命にあるという衝撃的な議論を展開し,注目を集めた。ハーディンはその理由を「合理的な牛飼い」のアナロジーで説明した。それは,社会が平和で戦争や疫病による人口の減少が起こらないと,共有地ではその収容能力以上の牛が放たれることになり「悲劇」を生むとする。つまり,共有資源からの消費を拡大することによってもたらされる利益は,すべて個人に占有されるのに対し,共有資源の荒廃・減少というコストは資源の利用者全員で分割して負担される。したがって,個々人にとっては消費を拡大し続けることが,常に合理的な選択になるというジレンマが生ずるのであるという。この「悲劇」論は,漁業,森林,地下水など,あらゆる種類の公共的資源管理の分析に援用され,「共有」という管理形態は,公害や資源の過剰消費,貧困,技術的停滞など,多くの社会悪の元凶であると目されるようになった。政策的にもこの「悲劇」論は,ますます希少化した森林を政府が囲い込む科学的根拠として利用された。》
 
 ハーディンのモデルでは,共有の放牧地で自由に個人が自分の牛を放してよい場合,共有地の管理コストは,全員が平等に負担しながら,その土地からの利益は,自由に取得できるので,皆が競って利益を得ようとして多数の牛を放牧地に放そうとする結果,牧草地は急激に枯れると,結論される。
 
 ところがその後,ハーディンのモデルは,「コモンズ」(共有地,共有資源)の実際の在り方とかけ離れたものであることが指摘されるようになった。実際の伝統的なコモンズでは,上の例でいえば,放牧者は自由に牛を放すことはできず,一軒の農家が放せる牛の数や,放せる期間の長さが必ずルール化されており,利用は管理されていたのである。ハーディンが想定しているのは,そうしたコモンズではなく,むしろ,所有者がまだいない資源(無主物)の競争的利用(オープンアクセス)に他ならない。
 
 ハーディンの議論は,むしろ環境保全に役立ってきた伝統的コモンズに対する過小評価をもたらす点で問題がある。伝統的コモンズを資源利用の適正な管理システムとして再評価して,現代的に活かしていく視点が必要である。マルクスは,『資本論』第1部の「本源的蓄積」や第3部の「地代論」でコモンズの解体によって「市場経済」が拡大していく様子を詳細に論じ、第1部の「歴史的傾向論」では,「個人的所有[1]の再建」という言葉で,コモンズのバージョンアップされた内容での復活・再建の必要性を論じている。バージョンアップとは、科学化された労働過程や社会化された生産過程という生産力発展の諸成果を踏まえたコモンズの展開を意味する。また,伝統的コモンズの解体は過去の出来事ではなく,現在も進行中であることを忘れてはならない。
 
[1] マルクスの〈個人的所有〉概念は,私的所有を意味するものではなく,私有であるかどうかにかかわりなく,労働主体が自分が労働するうえで利用する生産諸手段を自分の身体の延長(非有機的身体)として取り扱うことを指す。
 
 
 
 
 
 
 
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 一面的である。『資本論』の直接的な対象は、資本主義であって、脱資本主義の新しい社会ではない。これは、全くその通りである。しかし、『資本論』の資本の一般的分析には、資本主義の没落の不可避性の解明が含まれているし、資本の没落と同時に産み落とされる新しい社会の必要性と可能性の考察も含まれている。

 そして、『資本論』における将来に向けての歴史分析は、ポパーが批判するような「歴史予測主義」ではない。結果の予測ではなく、結果を左右するであろう諸要因の分析である。

 例えば、第1部第13章「機械装置と大工業」での労働過程の社会化と生産過程の科学化の議論がそれである。機械装置は、複数の労働者の協働と自然についての理論的認識の生産過程への適用とを技術的必然にする。この2つがなければ、そしてそれが十分に成熟しなければ、機械装置はその能力を十分に開花させることができないのである。問題は、このことが資本主義の将来にどのような影響を及ぼすのかということにある。

 労働過程の社会化は、資本主義的生産関係のもとでは、資本による労働への支配統制が強化される傾向を生み出す。しかし、それは、無制限に進むわけではない。資本による、機械装置を利用した協働の強制は、フォードシステムに典型的に見られるような労働者のモチベーション低下をもたらす。この限界を乗り越える方策として、ボルボイズム、オルフェウス・プロセスなどのシェアード・リーダーシップの導入が試みられることになる。これらの試みの共通点は、現場労働者への決定権の移譲、フォードシステムにおいて分離された構想と実行の再統合である。ここに、労働する諸個人が自主的協働として労働過程を遂行しうる可能性が拓かれるのである。

 資本は自らの手で、労働者に協働すること技術的に強制し、その結果として、その技術が持っている可能性を完全に引き出すためには、労働者に決定権を移譲せざるを得ない状態に陥っているのである。

 勿論、資本主義的生産関係のもとでは、権限の移譲にも制限がある。労働によって生産された剰余価値の処分権は、資本の側が保持し続けようとするだろう。しかしこれは、労働過程の自主的運営にとっての重大な制約である。

 剰余価値の処分権を現場労働者が掌握するならそれは、資本主義の終焉である。労働過程の労働する諸個人による自主的運用をより高度なものにするために、資本の決定権の完全放棄に進むか、現状にとどまるか、という体制選択問題を資本自身がそうとは知らずに提起している。しかも労働者もそのことに気付いていない。マルクスの分析はこうした事態の解明である。

 次に、生産過程の科学化に目を向けよう。機械装置は、自然についての理論的認識を生産に適用する手段である。機械装置の機能を十全に引き出せるか否かは、自然認識(科学)の精度に依存することになったのである。結果、資本主義において科学は急速に発展する。つまり、資本主義は、我々にこれまでになく広く深い自然認識をもたらしたのである。

 それにもかかわらず、自然破壊は進行している。自然認識の高度化に伴って自然破壊が進行していくのは何故か。自然認識が、個別資本の自己増殖という排他的利益追求の手段となっているからである。環境的自然と人間的自然の双方に適合的な生産のために、すでに高度に発達している自然認識(可能性)を活用することが求められている(必要性)。

 この目的転換を実現するためには、資本の決定権を覆す必要がある。その可能性については、労働過程の社会化の問題として述べた通りである。

このように『資本論』では、新社会への移行を左右する諸条件の考察が含まれている。

他にも移行の条件を取り扱っている箇所はあるが割愛する。