”☆号外(1)マルクス経済学に対する《誤解①》/「社会主義の経済学である」という誤解” | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐…それは資本の国家を愛すること。。。自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!
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 一面的である。『資本論』の直接的な対象は、資本主義であって、脱資本主義の新しい社会ではない。これは、全くその通りである。しかし、『資本論』の資本の一般的分析には、資本主義の没落の不可避性の解明が含まれているし、資本の没落と同時に産み落とされる新しい社会の必要性と可能性の考察も含まれている。

 そして、『資本論』における将来に向けての歴史分析は、ポパーが批判するような「歴史予測主義」ではない。結果の予測ではなく、結果を左右するであろう諸要因の分析である。

 例えば、第1部第13章「機械装置と大工業」での労働過程の社会化と生産過程の科学化の議論がそれである。機械装置は、複数の労働者の協働と自然についての理論的認識の生産過程への適用とを技術的必然にする。この2つがなければ、そしてそれが十分に成熟しなければ、機械装置はその能力を十分に開花させることができないのである。問題は、このことが資本主義の将来にどのような影響を及ぼすのかということにある。

 労働過程の社会化は、資本主義的生産関係のもとでは、資本による労働への支配統制が強化される傾向を生み出す。しかし、それは、無制限に進むわけではない。資本による、機械装置を利用した協働の強制は、フォードシステムに典型的に見られるような労働者のモチベーション低下をもたらす。この限界を乗り越える方策として、ボルボイズム、オルフェウス・プロセスなどのシェアード・リーダーシップの導入が試みられることになる。これらの試みの共通点は、現場労働者への決定権の移譲、フォードシステムにおいて分離された構想と実行の再統合である。ここに、労働する諸個人が自主的協働として労働過程を遂行しうる可能性が拓かれるのである。

 資本は自らの手で、労働者に協働すること技術的に強制し、その結果として、その技術が持っている可能性を完全に引き出すためには、労働者に決定権を移譲せざるを得ない状態に陥っているのである。

 勿論、資本主義的生産関係のもとでは、権限の移譲にも制限がある。労働によって生産された剰余価値の処分権は、資本の側が保持し続けようとするだろう。しかしこれは、労働過程の自主的運営にとっての重大な制約である。

 剰余価値の処分権を現場労働者が掌握するならそれは、資本主義の終焉である。労働過程の労働する諸個人による自主的運用をより高度なものにするために、資本の決定権の完全放棄に進むか、現状にとどまるか、という体制選択問題を資本自身がそうとは知らずに提起している。しかも労働者もそのことに気付いていない。マルクスの分析はこうした事態の解明である。

 次に、生産過程の科学化に目を向けよう。機械装置は、自然についての理論的認識を生産に適用する手段である。機械装置の機能を十全に引き出せるか否かは、自然認識(科学)の精度に依存することになったのである。結果、資本主義において科学は急速に発展する。つまり、資本主義は、我々にこれまでになく広く深い自然認識をもたらしたのである。

 それにもかかわらず、自然破壊は進行している。自然認識の高度化に伴って自然破壊が進行していくのは何故か。自然認識が、個別資本の自己増殖という排他的利益追求の手段となっているからである。環境的自然と人間的自然の双方に適合的な生産のために、すでに高度に発達している自然認識(可能性)を活用することが求められている(必要性)。

 この目的転換を実現するためには、資本の決定権を覆す必要がある。その可能性については、労働過程の社会化の問題として述べた通りである。

このように『資本論』では、新社会への移行を左右する諸条件の考察が含まれている。

他にも移行の条件を取り扱っている箇所はあるが割愛する。