どうする家康ではほぼスルーだった愛知の伊賀越えシーン。碧南市民が絶対に出ると思っていたと思われる三河上陸シーンは完全スルー、さらに最後の聖地巡礼コーナーもスルーでした。個人的にはすごく残念。

 

さてこのブログの前回の記事がいつの間にか①に変えられているのを気づいた方はいませんよね笑

前回の伊賀越え知多半島横断編で私の中で伊賀越え再現は完結しました。

続きはなし・・・のつもりだったのに・・・

 

何気に散歩ネタを調べてたらたまたま見つけました。

衝撃!!衣浦トンネルは歩ける!?

 

車からは歩道なんて見られなかったからないものだと思い込んでいました。

見つけてしまったからにはいかない理由はありません

 

いざ現代の伊賀越え再び!!(注:堺から伊勢は歩いていません・・・色んな意味で無理)

 

前回は愛知県常滑市の大野にある東龍寺から半田市にある常楽寺まで家康の逃走ルートを辿ってみました。で、、青山駅まで歩いたので、続きの青山駅から成岩城へ。

本能寺の変の発生で誰が敵か味方かわからなくなった混迷の時代に、カボチャ家康(私)が知多半島の東側の海が目の前にある(あった)成岩城からスタートし、船(海底トンネル)で三河に渡り大浜稲荷社に上陸し、羽城を目指す物語のはじまりはじまり。

 

ということでスタートは成岩城から!(青山駅の近くです)

成岩城は以前行きましたので石碑のざっくり写真だけ。

 

成岩城周辺も開発が進んでいて、石碑も移動しています。

 

家康の時代にはここ成岩城から船に乗って三河に渡りましたが(諸説あり)、今回は海底トンネルまで歩きます。まずは武豊から半田を通っているバイパス沿いを歩いて北上し進みます。地元の人ならわかると思いますが、バイパス沿いって歩けるの?と思いますよね。

歩けました。が、一人で歩くのはあまりおすすめではありません。うっそうとしている微妙な雰囲気の道です。

 

酷暑の中歩き始めました・・・

 

途中パフェで有名なシャンドール。深夜0時を回った瞬間に予約をしても13時頃の予約しか取れなかったことがあります。人気のお店です。朝9時30分ごろにもかかわらずもうこれだけの車が止まっています。冷たいパフェがうらやましい・・・暑すぎる・・・

 

青山のバイパスにつながるあのエグい立体交差を歩きます。

 

渡るとこんなところに出ます。

 

店も家もないエリアに出るので散歩とか以外には地元の人も来ることはないでしょう。この猛烈な暑さの中、業者さんが草刈りをしています。ご苦労様です。

 

水門。エイが泳いでいました。

 

新水門の工事中。

 

ここをひたすら歩いていくとバイパスに出ます。

 

バイパス沿いを歩いていると今となっては懐かしいカールのチーズ味の臭いがする・・・。道でこの臭いがすると微妙な気分になります。焼けるような暑さにさらされた木材のにおいもしてきました。ちなみに愛知県ではもうカールは売っていません。

 

途中の川を渡る歩道橋を降りたところ。この写真の反対側で釣りをしている人もいましたが、薄暗い感じで若干怖い道でした。

 

ここで右に曲がり、トンネルをくぐります。

 

海底トンネルに向かう道で唯一大繁盛しているお店、肉のびっくり市を通り越して、愛知県人なら誰でも歌える「何でも貸します近藤産興~♪」の脇を進みます。あのCMずーっとバブリーなままだよね・・・昔から気になっているけど本当にジェット機貸してくれるのかな?

 

海底トンネルの料金所のゲートを左脇に入ります。

料金所の事務所(この写真の左手前の建物)で海底トンネルの徒歩ルートを尋ねてみたらこのまままっすぐ進むと右手に建物があり、そこから入っていけるとご親切に教えていただけました。

なのでこのまま脇道をまっすぐ進みます。

 

塔みたいなものが見えてきました。ここに半田緑地公園という大きな公園がありました。

 

ありました。この道の右側にあるこの建物が海底トンネルの入り口です。

 

優雅にヨットが進んでいます。目指すは向こう岸です。

 

いざ海底トンネル!

 

こんな感じの階段をひたすら下ります。さっきの事務所の方が言うにはビル5~6階分は降りるとのこと。

途中買い物袋を提げて向こうからくる方(どこにいくのか・・・)や大きな鳥かごを両手にもっているものの何故か鳥かごの上に大きなオウムみたいな鳥が乗っかったまま歩いている方・・・色んな人がいましたが、すれ違った人は3人でした。

 

ひたすら降りて地下11階

 

ついに底に到着。

 

トンネルの中は少しじめっとしているものの涼しい感じでした。外は灼熱だからここは天国。トンネル内はラジオが流れていて楽しく進めます。GLAYのBELOVEDが流れていたので歌いながら進んでいたら、いつの間にか後ろの方に人影が・・・汗。めっちゃ響くんですよね・・・恥ずかしい。

 

碧南に到着!さっきの塔が海の向こうに見えます。

 

目の前の地下から出てきている道が自動車用の海底トンネルです。

 

 

見えてきました。大浜稲荷です。

 

さっきスタートした成岩城から船に乗った家康はここ大浜稲荷社から三河の地に上陸したと伝わっています。

 

土用の丑の日だったのでうなぎ屋さんに行列ができていました。私はもちろんスルー泣

 

到着しました。羽城(大浜陣屋)です。

 

 

そしてUターンです。また青山まで帰ります・・・今度は肉のびっくり市の通り沿いを通らずに港沿いを歩きます。直射日光がすごい・・・人も誰もいません。

帰り道きつかった~暑かった~。

ということで無事帰還です。

 

最後に今回のルートです。

約18.9km 3時間30分

成岩城から海底トンネルを通って大浜稲荷。そのまま羽城まで行って、近くのドラッグストアで水に濡らして振り回すと冷えるタオルを買ってUターン。青山のドン・キホーテまで迎えに来てもらいました。

 

伊賀越えその②を無事クリアしてしまったので岡崎まで逃げてみようと思います!

が、伊賀越えルートって三河に入ってからの情報が出てこないんですよね・・・

今回は伊賀越え知多半島編をルートを勝手に決めてやってみました。

はっきり言って根拠全くなしのルートなのでエンターテイメントとして読んでもらえるとありがたいです。

聖地巡礼?と銘打ちましたが、どうする家康では描かれないと思われます。

 

「どうする家康」では本能寺の変が起き、家康はついに伊賀越えを行います。

家康は堺から伊賀を越えて三重の白子から船で知多半島方面に向かいます。

その後知多半島に上陸、横断して再び船で三河大浜に上陸した説やら、知多半島に上陸せず船で直接大浜に上陸した説など色々あるようで、2022年7月のはんだ郷土史だよりによると大河では知多半島上陸説は採用されない(冊子の言葉を借りれば知多とばし)との情報をキャッチしたらしく、このはんだ郷土史だよりではかなり熱く上陸説が語られています。

私のようなど素人には真偽はよくわかりませんが、こんな面白い伝承が知多半島にあるのなら!せっかくなのでなるべく古道を通って伊賀越え知多半島編をやってみようかと思った次第です。三方ヶ原に続いてまた徒歩で逃げます!!

 

今回の散歩で参考にしたのは↑のはんだ郷土史だより2022年7月号と、以前に何かで見た気がする(汗)大野から半田市の岩滑城経由で常楽寺に向かったというルートです。

 

大雑把に見るとこういうルート。昔の海岸線を考えるとほぼ知多半島横断です。

約17.2km 3時間22分です。(途中のコンビニスーパーの立ち寄り含む)

 

向きが変わって右が北になります・・・

スタートが常滑市大野の東龍寺です。

先に常滑の港に到着してそこから大野に移動したとされています。常滑競艇近くの港の前に正住院というお寺があり、そこに家康の腰掛石というものがあります。そのお寺の南方にある常滑城の城主だった水野氏の動きが不穏であったことから北にある大野の東龍寺に移動したそうです。どうでもいいですが、家康の腰掛石っていろんなところで見かけますね。正住院と常滑城はこの前行ってきたのでそのうちアップします(多分)

 

東龍寺

当時の住職が家康の従兄弟(家康の実母於大の妹の子)だったため知多半島内の安全地帯のひとつだった。

この案内板を見て驚いたのが、桶狭間の戦いの敗戦から逃れた時にも家康がここに逃げていたと書かれていること。うん、あとで見たらはんだ郷土史だよりにもしっかり書いてあった汗

 

ここからは「古地図散歩」アプリを使い、できるだけ昔あった道を歩いて半田市に向かいます。

一番古いのが1900年頃の地図だったのでその道を参照しました。

今見直すとちょっとこのルートどうよ!?というところがチラホラありますがご容赦ください。正確な大野道がわかる方がいらっしゃいましたら教えてください。

 

歩いていると冷凍焼きいもなる気になる旗を発見。

 

青海グラウンドの横の道を北に向かいます。

見えにくいですが、ここのグラウンドの敷地に高速道路の高架が作られるみたいです。いらない・・・

 

メインストリートから外れて集落の中の道を歩きます。高いところにあります。

 

人も車も通らない薄暗い道を進みます・・・

 

現在大野方面から半田市に抜ける大きな通りにぶつかりそこを進みます。

が、右も左も歩道は草がぼうぼうなので車道を歩かざるを得ません。

ここだけは結構危険ですので、あまりこの散歩ルートはおすすめできません。

 

草ぼうぼうの道をなんとか無事に抜けて半田市に入りました。

確か平井(平和?)という地名だったと思います。

歴史を感じる建物や神社なども出てきました。

 

知多半島道路に古道が分断されていたため現在の道を通り知多半島道路を渡ります。

橋にはキツネのモニュメントがついています。かわいい。

 

そしてやっと新美南吉記念館に到着しました。

ここ愛知県半田市は「ごんぎつね」などの作者新美南吉の出身地です。

私がここに来たのは記念館見学のためではなく・・・

 

 

中山城

現在童話の森という公園になっているところは昔中山城というお城でした。

遺構はありませんが、街道を見下ろす形で小高い丘になっているのが特徴かと思います。

新美南吉の童話「ごんぎつね」の中に中山の殿様が登場するらしいです。(昔教科書で読んだのに記憶がない・・・)

 

岩滑城方面に向かいます。

岩滑城に行く前に矢勝川沿いに向かいます。

 

お殿橋

桶狭間の戦いのときに、ここから北にある坂部城(家康の実母於大の方の再嫁先の久松氏の城。どうする家康だとリリーフランキーさん。)に逃げていた家康がここの橋を通って岩滑城を経由して常楽寺に向かったとされているようです。小さく諸説ありますと書かれています。

 

岩滑城(常福院)

家康の叔父の中山勝時によって創建されたお寺。

伊賀越えの際に大野に上陸した家康の元に馳せ参じて護衛したという話もあります。(他所のブログなどを参照)

この話ははんだ郷土史だよりには書かれていませんでした。

 

新美南吉の生家

この辺の観光名所になっている新美南吉の生家です。

ここから南に向かうと常楽寺に行けます。

 

すぐ近くにこんなものが・・・

あまり読めないけど、右半田もろさき 左かめさき三州と書かれているようです。

ここは南の常楽寺方面に進みます。

 

古地図を見ると裁判所のあたりから今のメインストリートの道が無くなっています。

南に行きたければ名鉄の線路の東側を南に向かうか、白山神社の方の山を登りつつ迂回するかになります。

疲労度の関係で東側の道路を進むことにしました。ここからはざっくりと進みます(;'∀')

 

モスバーガーのすぐ東にある目立つお地蔵さん。油樽地蔵と呼ばれ地元で親しまれているようです。

 

知多半田駅の東側を適当に進みます。

 

この先の交差点を右に曲がり南に向かいます。

 

成岩砦のあたりを西に曲がるとやっと常楽寺に到着です。

 

常楽寺

ここも常楽寺と同じで徳川家康の従兄弟が住職でしたので安全地帯です。

家康はここで休息をとり、近くの成岩城から船で三河大浜まで渡ったということです。

徳川家康から賜った鎧と鞍があるとのこと。

 

ということで無事ゴールしました。

本当ならここから成岩城までいくところですが、足がかなりきつかったのでここでゴールにしました。

このあと青山駅まで歩いたから成岩城も近かったんですけどねぇ・・・家康も常楽寺でゆっくり休んだことでしょう!

 

知多半島横断説ありじゃない!?というのが実感です。

常滑の矢田あたりで山賊がでそうでしたが(笑)東龍寺付近の勢力も味方につけれたでしょうし、街道の東側を抑えていたであろう中山氏の助力もあれば東も安全。

AWCのときに影武者も含めてどのルートを通ったかわからないように分けて逃げたって考え方もあるという話を聞いてなるほどと思いました。仮に本物の家康ではなかったとしても本当知多半島越えはあった話だと思います。

 

同じように知多半島横断しようと思う方がいましたら、夏はやめましょう。どこから蛇が出てくるかわかりません。草ぼうぼうの道の草は現在さらに成長しています。もはや歩道とは呼べませんのでご注意ください。

 

名鉄と半田市と常滑市が協力して家康逃走のルートの案内板立てて道を整備(草刈り)すれば盛り上がるんじゃないかな!?名鉄も河和線の駅と常滑線の駅の利用につながるから儲かりそうですよ!

 

パソコンが壊れて以前の写真が読めないときがあり更新が停滞しています。

たまに正常に動くので機会をみてブログを更新しようと思います。

散歩しててもスマホカメラの調子が悪かったり、夏は火傷レベルの熱を持ちカメラが起動しません。

新しいスマホ欲しい・・・

今回はどうする家康 第10回「側室をどうする!」の最後に流れた紀行巡礼で紹介された場所の一部と、「本多平八郎忠勝討死」のセリフが強烈なインパクトを残した第3回「三河平定戦」にまつわる聖地巡礼になります。プラス大河ドラマ「麒麟がくる」14回「聖徳寺の会見」でも描かれた織田信長が初めて戦で鉄砲を使ったといわれている「村木砦の戦い」関連の史跡も巡る盛りだくさんな散歩です。

 

どうでもいいことですが、何故か「どうする家康」はうちの古いテレビだと連ドラ予約ができず毎回録画設定しています。なのでたまに録画できていません。職場の人も同じことを言っていましたがそういった方もほかにいるのかな?

 

では参ります。今回の散歩は愛知県刈谷市、東浦町です。

 

第10回の紀行巡礼では家康の生母於大の方を演じている松島菜々子さん自らが於大の方ゆかりの地を巡りました。

 

約16km 約3時間

 

 

刈谷城(亀城公園)

地元では桜の名所として知られている亀城公園。ここがスタートです。刈谷城は水野氏の居城で、どうする家康では水野信元(寺島進さん)のお城です。

 

第3回で「顔もいいがおつむはもっといい」大久保忠世の策でこの城から水野信元を石ヶ瀬川におびき出し戦いました。石ヶ瀬川の戦いです。場所は大府市と東浦町の境と言われていますが、あまりはっきりとしないようです。3回ほどこの戦いがあったようです。

 

地元の人間でも多くの方が知らないであろう合戦が登場して思わず声が出てしまいました。桶狭間の戦い後も戦っているところを見ると、ドラマのように桶狭間後にもしばらくの間松平は今川に組していたのでしょうかね?(無知ですいません)

 

(2020年11月に撮った写真。確か石ヶ瀬小学校付近の石ヶ瀬川沿いで撮ったような・・・)

 

適当に歩きまわりながら石ヶ瀬川古戦場(GoogleMapにある場所のこと。↑の案内板の場所ではありません)に向かいます。

 

 

椎の木屋敷

刈谷城の駐車場から左に曲がり、すぐの細い路地を南に向かうと小高い丘の上に椎の木屋敷が現れます。ここは松島さんも訪れていましたね。

椎の木屋敷は、家康の実母の於大の方が岡崎の松平広忠と離縁した後に刈谷に帰されてからしばらく住んでいた場所です。

 

 

 

 

於大の方の像は岡崎城の家康を見守るようにその方向を向いているとのこと。阿久比町の坂部城の久松俊勝に再嫁するまでここにいたようですね。久松利勝もどうする家康にしっかり出ています。甲斐でぼこぼこにされていた人質のお父さんですね。今は上ノ郷城の城主になっていて松平姓に変わっていましたね。

 

刈谷古城(付近)

現刈谷城から南に進むと少し小高い丘の上に刈谷古城跡がありますが現在は住宅地となっていますので外から眺めるだけです。水野貞守が築城し、1533年に水野忠政が現刈谷城を作りこちらは廃城となりました。

 

 

楞厳寺(りょうごんじ)

於大の方は椎の木屋敷にいたころこの楞厳寺に度々参拝していて、水野家の菩提寺になったようです。

乾坤院も菩提寺じゃなかったかな?菩提寺っていくつもあってもいいものなのかしら?

 

松島さんも訪れていて、於大の方(伝通院)ゆかりの品を見ていましたね。(非公開)

 

 

水野家廟所だと思われますが、閉まっていたのでこれ以上は覗いたりはしませんでした。

 

ぶいぶい婆の墓

その名前がインパクト大だったためまた寄ってみました。

 

ここに来るまでに水野氏の居城緒川城を見ながら北上しようと思ったのですが・・・いつの間にか通り過ぎていました。

 

村木神社

 

さて、急に織田信長に関する史跡に変わります。村木砦の戦いは、今川が知多半島に作った村木砦を潰すために織田・水野の連合軍がこの砦を攻めた戦いです。色々と逸話があって興味深い戦いです。日本の城攻め砦攻めで初めて鉄砲が使った戦いと言われています。

その村木砦攻めのときに織田信長が本陣を置いたのがここ村木神社とのこと。当時はここから村木砦が丸見えだったと思われます。

 

 

飯喰場(いくいば)

桜を見つつその奥に飯喰場が見えます。

 

現在は公園になっています。

 

飯喰場は、村木砦の戦いに勝利した織田信長が休憩を取った場所です。この場所の近くに首塚があると書いてありますが見つけられませんでした。

 

 

石ヶ瀬川古戦場

(とGoogleMapに書いてある場所)

やっと到着しました。

巨人の槇原投手の出身校の大府高校の川を挟んで向かいの場所です。

何もありません・・・笑

このあたりで松平元康と水野信元が3回も戦ったんですね。

 

むかしからずーーーーーっと気になっていた大府高校のグラウンドから石ヶ瀬川沿いをさらに進む堤防の道。どうなっているのか見たかったので進んでみました。(南方面)

 

反対側の堤防に高そうな自転車がおいてあるのが見えました。

肝心の堤防の道ですが、JRの線路のところで行き止まりで引き返さざるを得ないのでここを行くのはやめておきましょう。

 

 

そして村木砦です。これは刈谷側(かつての海側)から見た村木砦です。JRの線路が縄張りを分断するように走っています。私が歩いたあたりは戦国時代は衣ヶ浦という海だったようです。現在の陸地を見ると信じられないですね。

 

村木砦を裏から眺めつつ(大手がこっち側だから表か?)刈谷城(亀城公園)に戻りゴールです。

 

刈谷市歴史博物館に寄ってみたら、亀城公園桜祭りもやっていたためか、どうする家康効果なのか、とても混んでいました。私も何度も行っていますがこんなに混んでいるのを見たのは初めてです。(独占状態で見学したときも何度も・・・)

そして気になるイベントの応募もしていました!!ゲストは水野信元役の寺島進さんです!!刈谷に寺島さんが来る!

めちゃくちゃ楽しみです!当たるといいな!!

今回はここまでです。

 

 

 

いつものやつ・・・

どうする家康のイベントにはとことん縁がないですなぁ・・・泣

この日はAWCでの本證寺周辺のお城散歩です。

 

南桜井駅からスタート

 

本證寺の道を挟んだ斜め向かいあたりに「そとぼりはし」があります。2週間前に来たときは気づかなかったところです。

 

堀跡があり、そこの横の歩道のとこになりますので橋って感じではありません。

 

堀の中に石碑があります。「そとぼり」と書いてあります。

 

いきなりメインディッシュの本證寺。

 

 

南側は工事中。

 

 

境内にはどうする家康の中の三河一向一揆の場面で象徴的に拝まれていた阿弥陀如来像がみられました。ドラマに出ていた像はここの像にそっくりでした。

 

南側の堀跡

 

臨時駐車場からここを通って本證寺に入れます。

 

以前はこのあたりに太子堂という建物があり、そこまで西から東に向けて堀が入り込んでいました。

 

相変わらずの高低差のある堀と土塁。反対側(北向き)の堀は、2週間前は入れたと記憶していますが(だったかな汗)この日は入れなくなっていました。

 

 

 

このまえ偶然見つけた外堀跡。

 

ここの堀から鉄砲玉が見つかったらしいです。

 

藤井戸跡。

この井泉は、碧海台地の南の端、大戸と藤井の間にできた開析谷(かいせきだに)の奥に、自然に湧き出た清水の井戸です。

澄んできれいな清水であったことから、藤の花のようだというので、藤井と呼ばれるようになりました。

そのため、古井、桜井、浅井と並んで名水となり、三河国の四井の一つに数えられるようになりました。

藤井という地名も、この井泉が起りと伝えれています。

 

 

 

三河四井の一つ、桜井、古井、浅井と共に由緒ある名井として世に知られてきました。その昔倭姫命によって穿かれたと伝えられ湧泉の水面に藤の花影が映りて風雅な紫色をなしたことにより藤井の名水として里人に親しまれやがて地名の起源となりました。

 

藤井松平氏の藤井城跡。

 

公園から木戸城が見えます。

 

木戸城の堀跡。今でも結構そこそこ深く残っていました。前回自分で来たときには気付きませんでした;

 

加藤嘉明の出生の地とも言われている岩根城。

 

これも前回見落としていましたが、岩根ちびっこ広場の看板に「このあたり一帯は、鎌倉時代半ばに築かれた岩根城の跡地です」としっかり書いてありました。

 

 

ここの路地は↓の真ん中の大手にあたるとのこと。

 

志貴野荘園時代の碑。全然気付きませんでした。

 

大浜騒動護法有志之墓参道

 

小川城主下野権守石川政康公之墓所。石川政康は小川城を築城した人。徳川家康の家臣石川数正のご先祖様。石川家は真宗であったため三河一向一揆では一揆側として戦いましたが、石川数正は改宗して家康側につきました。

 

 

公園の中にこっそりとある小川城跡の説明板。ここは以前来たことがあります。

 

前回も訪れた誓願寺。

 

お寺の前の更地になっている部分には少し前まで掘跡があったとのことです。awcに参加されている方はさすがに詳しいです。写真も見せてもらいました。現在は写真のように埋め立てられてしまっています。もったいないです。

 

しかし、お寺の裏側に回ると土塁と堀跡が残っています。このあたりは一人ではなかなか気付けないのでありがたいです。

 

そして最後はおなじみの桜井城。

 

桜井松平氏のお墓もあります。

 

前回一人で回っては見たもののやはり気付かないところが多いですね。しかも適当に選んで散歩しているので知識が圧倒的に不足しているので大変勉強になりました。この日はawcの中では結構歩いた気がします。

 

次の勝鬘寺は痛恨の申し込み忘れでいけませんでした泣

来月のは忘れないように申し込みます。

今回もどうする家康散歩シリーズです。前回の第8話最後の「どうする家康ツアーズ」で紹介されていた三河三ヵ寺のひとつ勝鬘寺に行ってきました。ついでに周辺のお城も中部地方の中世城館の本を見て歩いてみました。

場所は愛知県岡崎市の岡崎城より南の方面です。

 

歩行距離17km 3時間10分

中世城館調査報告書の地図が見辛すぎて場所がずれている可能性も・・・

GoogleMapも併用して行きました。

 

スタートは南公園です。以前小豆坂古戦場に行ったときもここからスタートしました。

 

 

勝鬘寺(しょうまんじ)

 

勝鬘寺は、いわゆる真宗三河三カ寺の一つ。永禄六年(1563)から翌年にかけておきた三河一向一揆の際、一揆方の拠点の一つとなった蜂屋半之丞ら百余騎が境内にたてこもり、ここから小豆坂上和田方面へしばしば撃って出て激しく闘った。

 

どうする家康ツアーズによると勝鬘寺は戦いの中で焼け落ちたみたいです。

 

 

永禄六年 三河一向一揆戦陣跡と掘られています。

 

北側の保育園の入り口ですが、門が見事でした。

 

 

柱城

 

このお堂しかありませんでした。

中世城館調査報告書によれば城主は神谷与四郎。他は不明。

 

井内城(井内八幡宮)

 

 

 

御由緒にはお城については書かれていませんでした。

中世城館調査報告書によると、城主は久世三四郎広宣・坂部三十郎広勝。遺構はなく、城というよりは土塁で囲まれた屋敷の集合体だったのではとのこと。

 

 

野畑城

お堂がありました。

中世城館調査報告書によると、佐野左馬助・黒柳彦助・佐野図書。遺構はないが、昭和末まで彫り後が残存していた?

 

 

下和田城

場所は常楽寺というお寺付近だと思われます。

上和田城があれば下和田城もありました。(場所は全然違います)

中世城館調査報告書によると、城主は松平親生。遺構はない。境内に案内板があるらしいですが気づきませんでした。

 

 

坂左右城(さかそうじょう)

民家しかありません。

中世城館調査報告書によると、城主は都築惣左衛門秀綱。遺構はない。

 

 

占部城

民家しかありません。これ以上は私有地に入りそうだったのでここまで。

 

 

永井城

碑がありました。

 

場所は福岡町字シケ畑、規模は70メートル四方の方形状の城郭。遺構は現存していない。

 

「三河二葉松」によれば、城主は永井村住人の山本小次郎と伝えられる。

 

今回巡ったお城の中では、遺構はなくとも碑があるだけでもありがたい城址です。

 

 

そして振り返ったら・・・・なんじゃ?

 

    !?

 

山本勘助之墓

えーと・・・どの山本勘助?と混乱するぐらい唐突でした。

 

天徳院武山道鬼居士

永禄四年(1561年)九月

川中島の戦いで戦死 六十

 

平成十二年五月吉日

清水家十三代当主 清水正幸建之

 

やっぱあの山本勘助のお墓みたいですね。

牛久保でもあるまいし・・・なぜこんなところにお墓が!?山本勘助ゆかりの地なのでしょうか?

 

 

三木城(みつぎじょう)

 

三木城は三木松平氏の本城として、松平康孝(松平信忠の子)、信孝(康孝の兄)などが在城した。信孝は松平清康の弟で、清康の子・広忠(家康の父)は甥にあたり、清康死後の広忠を支えるが、後に敵対し天文16年(1547)の「耳取縄手の戦い」(岡崎市明大寺町)で討死した。

主郭は東西30間(54m)、南北50間(90m)の長方形で、北には虎口曲輪も備えた立派な城であった。主郭跡は周囲により6尺(約2m)ほど高かったという。

「三木古城図(家山樵談)」による。

 

 

この碑は令和4年11月に建立となっていて、まだできたてのものです。新聞によると、現在この場所を使っている太田商店さんが「どうする家康」を見据えて作ったらしいです。御城印を作られておりここで販売されているようですが、日曜日は休みだったため買えませんでした。左下に鶏のマークがついててかわいいです。行く時は日曜を避けましょう。

南側は田んぼしかありません。

中世城館調査報告書の縄張り図をよく見てみたら北が上になってなかったため(地元民しか気づかないよね・・・)こうやって説明板があると非常に助かります。

 

GoogleMapで検索するときは「三ッ木城 岡崎」で調べたほうがいいと思います。三木城だと、かの三木の干殺しで有名な兵庫県のお城に飛んでしまいますし、三ッ木城だけだと埼玉県に飛んでしまいます。

 

 

在家城(ざいけじょう)

お堂がありました。

 

道の向こうにお寺もありました。

中世城館調査報告書によると、城主は石川大隅守。かつて養楽寺の南側に土塁囲みの屋敷地があり、そのどれかが在家城だったと思われるとのこと。

 

 

土井氏一族の発祥地(社宮司社)

 

幕閣で大老として活躍した土井利勝は、この地に住み、早乙女性を名乗っていましたが、地名をとって土井に改姓しました。子孫は下総古河、越前大野城主として活躍しました。

 

 

本多豊後守秀清・早乙女一族墓所

 

本多秀清は、松平長親に仕え、功あって明応六年(1497)、碧海郡土井村を賜ります。同七年九月に没していますが、清重・信重・広孝と続く家系が本多豊後守家です。

早乙女一族は、土井利勝の先祖である早乙女一族の墓であるといわれています。

と書かれています。土井利勝は、父は水野信元・母は不明?庶子とされています。(庶子・・・妾の子)先祖といっても血のつながりはなさそうなのかな?

 

1564年の田原城攻めで本多豊後守家は田原城に移ったようです。そのあと土井城に入ったのが土井彦左衛門となっていますが、中世城館調査報告書によると、城の存在時期が1564年までとなっており、本多豊後守家が田原に移ってから土井城が存続していたのかがよくわかりません。

 

 

土井城A

ここもこの先は私有地ぽかったのでここまで。さっきの墓所の区画あたりからこの辺までの一帯が城だったと思われるみたいです。

 

土井城があったのはあの辺かな?土井城Bも近くにありましたがいきませんでした。Bの方は本多氏の居館のようなもののようです。

 

 

本当はもう少し北にある上和田城や南公園の南側にある土呂寺内町にも行きたかったのですが、距離をちょっと甘く見ていたため断念。このコースでも結構疲れました。最後の三河三ヵ寺の上宮寺を含めてまた今度歩いてみたいと思います。来週はAWCで本證寺を歩くので再来週以降に・・・。再来週は常滑でお城EXPOか・・・。いつになるかな汗そうこうしているうちに大河では次回予告でお田鶴さんが鎧着てたので、いよいよ舞台が浜松に移ってしまうかな~。