今回もどうする家康散歩シリーズです。前回の第8話最後の「どうする家康ツアーズ」で紹介されていた三河三ヵ寺のひとつ勝鬘寺に行ってきました。ついでに周辺のお城も中部地方の中世城館の本を見て歩いてみました。

場所は愛知県岡崎市の岡崎城より南の方面です。

 

歩行距離17km 3時間10分

中世城館調査報告書の地図が見辛すぎて場所がずれている可能性も・・・

GoogleMapも併用して行きました。

 

スタートは南公園です。以前小豆坂古戦場に行ったときもここからスタートしました。

 

 

勝鬘寺(しょうまんじ)

 

勝鬘寺は、いわゆる真宗三河三カ寺の一つ。永禄六年(1563)から翌年にかけておきた三河一向一揆の際、一揆方の拠点の一つとなった蜂屋半之丞ら百余騎が境内にたてこもり、ここから小豆坂上和田方面へしばしば撃って出て激しく闘った。

 

どうする家康ツアーズによると勝鬘寺は戦いの中で焼け落ちたみたいです。

 

 

永禄六年 三河一向一揆戦陣跡と掘られています。

 

北側の保育園の入り口ですが、門が見事でした。

 

 

柱城

 

このお堂しかありませんでした。

中世城館調査報告書によれば城主は神谷与四郎。他は不明。

 

井内城(井内八幡宮)

 

 

 

御由緒にはお城については書かれていませんでした。

中世城館調査報告書によると、城主は久世三四郎広宣・坂部三十郎広勝。遺構はなく、城というよりは土塁で囲まれた屋敷の集合体だったのではとのこと。

 

 

野畑城

お堂がありました。

中世城館調査報告書によると、佐野左馬助・黒柳彦助・佐野図書。遺構はないが、昭和末まで彫り後が残存していた?

 

 

下和田城

場所は常楽寺というお寺付近だと思われます。

上和田城があれば下和田城もありました。(場所は全然違います)

中世城館調査報告書によると、城主は松平親生。遺構はない。境内に案内板があるらしいですが気づきませんでした。

 

 

坂左右城(さかそうじょう)

民家しかありません。

中世城館調査報告書によると、城主は都築惣左衛門秀綱。遺構はない。

 

 

占部城

民家しかありません。これ以上は私有地に入りそうだったのでここまで。

 

 

永井城

碑がありました。

 

場所は福岡町字シケ畑、規模は70メートル四方の方形状の城郭。遺構は現存していない。

 

「三河二葉松」によれば、城主は永井村住人の山本小次郎と伝えられる。

 

今回巡ったお城の中では、遺構はなくとも碑があるだけでもありがたい城址です。

 

 

そして振り返ったら・・・・なんじゃ?

 

    !?

 

山本勘助之墓

えーと・・・どの山本勘助?と混乱するぐらい唐突でした。

 

天徳院武山道鬼居士

永禄四年(1561年)九月

川中島の戦いで戦死 六十

 

平成十二年五月吉日

清水家十三代当主 清水正幸建之

 

やっぱあの山本勘助のお墓みたいですね。

牛久保でもあるまいし・・・なぜこんなところにお墓が!?山本勘助ゆかりの地なのでしょうか?

 

 

三木城(みつぎじょう)

 

三木城は三木松平氏の本城として、松平康孝(松平信忠の子)、信孝(康孝の兄)などが在城した。信孝は松平清康の弟で、清康の子・広忠(家康の父)は甥にあたり、清康死後の広忠を支えるが、後に敵対し天文16年(1547)の「耳取縄手の戦い」(岡崎市明大寺町)で討死した。

主郭は東西30間(54m)、南北50間(90m)の長方形で、北には虎口曲輪も備えた立派な城であった。主郭跡は周囲により6尺(約2m)ほど高かったという。

「三木古城図(家山樵談)」による。

 

 

この碑は令和4年11月に建立となっていて、まだできたてのものです。新聞によると、現在この場所を使っている太田商店さんが「どうする家康」を見据えて作ったらしいです。御城印を作られておりここで販売されているようですが、日曜日は休みだったため買えませんでした。左下に鶏のマークがついててかわいいです。行く時は日曜を避けましょう。

南側は田んぼしかありません。

中世城館調査報告書の縄張り図をよく見てみたら北が上になってなかったため(地元民しか気づかないよね・・・)こうやって説明板があると非常に助かります。

 

GoogleMapで検索するときは「三ッ木城 岡崎」で調べたほうがいいと思います。三木城だと、かの三木の干殺しで有名な兵庫県のお城に飛んでしまいますし、三ッ木城だけだと埼玉県に飛んでしまいます。

 

 

在家城(ざいけじょう)

お堂がありました。

 

道の向こうにお寺もありました。

中世城館調査報告書によると、城主は石川大隅守。かつて養楽寺の南側に土塁囲みの屋敷地があり、そのどれかが在家城だったと思われるとのこと。

 

 

土井氏一族の発祥地(社宮司社)

 

幕閣で大老として活躍した土井利勝は、この地に住み、早乙女性を名乗っていましたが、地名をとって土井に改姓しました。子孫は下総古河、越前大野城主として活躍しました。

 

 

本多豊後守秀清・早乙女一族墓所

 

本多秀清は、松平長親に仕え、功あって明応六年(1497)、碧海郡土井村を賜ります。同七年九月に没していますが、清重・信重・広孝と続く家系が本多豊後守家です。

早乙女一族は、土井利勝の先祖である早乙女一族の墓であるといわれています。

と書かれています。土井利勝は、父は水野信元・母は不明?庶子とされています。(庶子・・・妾の子)先祖といっても血のつながりはなさそうなのかな?

 

1564年の田原城攻めで本多豊後守家は田原城に移ったようです。そのあと土井城に入ったのが土井彦左衛門となっていますが、中世城館調査報告書によると、城の存在時期が1564年までとなっており、本多豊後守家が田原に移ってから土井城が存続していたのかがよくわかりません。

 

 

土井城A

ここもこの先は私有地ぽかったのでここまで。さっきの墓所の区画あたりからこの辺までの一帯が城だったと思われるみたいです。

 

土井城があったのはあの辺かな?土井城Bも近くにありましたがいきませんでした。Bの方は本多氏の居館のようなもののようです。

 

 

本当はもう少し北にある上和田城や南公園の南側にある土呂寺内町にも行きたかったのですが、距離をちょっと甘く見ていたため断念。このコースでも結構疲れました。最後の三河三ヵ寺の上宮寺を含めてまた今度歩いてみたいと思います。来週はAWCで本證寺を歩くので再来週以降に・・・。再来週は常滑でお城EXPOか・・・。いつになるかな汗そうこうしているうちに大河では次回予告でお田鶴さんが鎧着てたので、いよいよ舞台が浜松に移ってしまうかな~。