今回も散歩のネタをどうする家康からいただきました。

 

どうする家康⑦「わしの家」と⑧「三河一揆でどうする」で登場した本證寺(ほんしょうじ)周辺を散歩して来ました。場所は愛知県の安城市です。

 

昨年の夏に一度安祥城から本證寺まで徒歩で往復しましたが結構疲れました。

 

今回地図アプリがエラーを出してうまく保存してくれなかったので地図がありません。確か距離は12km、時間は3時間ぐらいだったかと思います。

 

スタートは桜井駅からです。ここから周辺の城跡を巡りつつ、最後に目的地の本證寺に向かいます。

 

地図を見たら、近くに城山公園といういかにもなところを見つけたので、とりあえず行ってみたら・・・・・・・桜井城でした。

 

桜井城

3回目にも関わらず公園の名前を覚えていなかったため到着するまでわかりませんでした笑。

 

桜井城は桜井松平家の城です。三河一向一揆では、桜井松平家の松平家次が一揆側に付きました。どうする家康で本證寺で吉良義昭と談笑していた松平昌久は大草松平(幸田町)の武将のため桜井城の人ではありません。

 

入り口だけお城感があります。場所は少しだけ小高くなっています。北の安祥城の周辺が湿地帯だったということなので、桜井城も1kmぐらい東側など低くなっているところは湿地帯だったのかなと想像します。

 

本證寺とはご近所だったためか、松平宗家に従うのが嫌だったためか一向一揆側に付きました。しっかり旗も立っていました。

ここから真南に向かって道を2~3回曲がれば本證寺に行けますが、それではつまらないので少し東に向かってから南に向かいます。このあたりはお城の跡がたくさんあります。

 

姫城

このあたりに姫城という内藤氏の居城があったらしいのですが、家しかありませんでした。内藤氏のお墓がすぐ近くのお寺にあります。

 

誓願寺

先ほどの内藤氏のお墓があります。あと、この門が寺部城の移築門とのこと。

 

 

 

 

伝内藤重清墓

 

伝内藤清長墓

内藤重清 安城松平氏の初代松平親忠に仕えた。

内藤義清 松平信忠、松平清康(家康の祖父)に仕えた。石川数正正室の父。

内藤清長 三河一向一揆の際に一揆側に組し、後に幸田町荻城に蟄居。

内藤家長 三河一向一揆の際に家康側に組した。関東移封時に上総国佐貫城主となる。関ヶ原の戦いの前哨戦伏見城の攻防戦で討ち死。


内藤政長 大阪夏の陣時に江戸城の留守居役。

 

全然知らなかった・・・名門ですね。勉強になりました。

 

 

旧神屋跡、古道脇筋

???民家の入り口にありましたが、何でしょうね?

 

小河神社古宮?貴船神御神?

近くにこの碑もありました。

 

岩根城址

中部地方の中世城館によると岩根城は明応年間(鎌倉時代)に存在しており、城主は加藤掃部助正成。賤ヶ岳七本槍のひとり、加藤孫六(加藤嘉明)の出身地とも言われているみたいです。wikiには三河国幡豆郡永良郷(愛知県西尾市)出身と書かれています。永良郷がどこなのかがよくわかりませんが、岩根城の目の前の矢作川を渡れば西尾市なのでこのあたりの出身ということなのでしょうか?

この案内板は公民館みたいなところの横にありました。

 

地図を見ると岩根城は多分この公園の奥のあたり・・・かな?民家です。

 

 

寺領廃寺跡

 

 

奈良時代初期のお寺の跡。10世紀頃に廃寺になったのではないかということです。結構大きかったみたいなのにどうして消えてしまったのでしょうか?

 

 

松韻寺

 

 

素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)

 

松韻寺にも素盞鳴神社にも名前が出てくる長松寺。さっきの寺領廃寺跡が長松寺なのかな?と調べてみてもはっきりしてないぽいです。3つとも近い場所にあります。案内板の書き方をみても寺領廃寺跡=長松寺ぽいのは限りなく黒に近いグレーといったところなのかな?裏づけ資料がでるまでは廃寺という名前のままなのでしょうか?付近は住宅も多いので、裏づけのための発掘も難しいのでしょうかね。
 

 

木戸村古城

道と住宅しかありませんでした。この写真の左側にあったようです。すぐ隣に長因寺というお寺があります。

 

 

 

木戸観音堂

 

木戸古城から西に数十メートルぐらいのところにありました。

2つ文章の書いた碑がありました。

 

全然読めませんでした。

 

こちらは少し読めました。

観音堂の創立は年代悠久にしに知んに由なきも中ころ能見松平氏●族楫金(全?)平勝志の持仏観世音菩薩を●亡安置せるものなり伝へ云ふ勝忠の老母年来観世音を信仰せしか或時一老翁の示現により観世音●尊像を授●らる老母いたた(??)感激し愈(?)尊崇の誠を盡し(つくし?)之を勝忠に授く勝忠乃一守本尊とし二寸時も離さず戦場に臨むや毎に甲冑に納めた●も●●●と其主本多平八郎忠勝に犀(?)し勇戦奮闘戦へ●●不勝ち身に一創痍●も當(?)らざりしは一に此尊像●霊験加護に因りしも●と云ふへし
楫氏の子孫相伝へに崇敬意(思?)ら(を?)さりしか明治維新●除従僕(?)主右衛門●●も●楫氏●意を奉しに平岩(?)一族の尊奉し来れる堂宇に安置せしものな●●に其由来の概略を記し皆人の大慈大悲の應護を仰くよすかとすと云ふ
(よめなかったところやスペースぽいところは●、自信のないところは(?))

楫氏(かじし)の勝忠が観音像を持って本多忠勝の下で戦って全く怪我をしなかったことから、楫氏が霊験あるこの観音像この地に祭って伝えられているということでしょうか?

 

南西のひらけた方に進み藤井城に向かいます。

 

藤井城

 

指・・・

藤井城は藤井松平氏の居城です。時期は永正年間~天正18年(1590年)。城主は松平利長、松平信一。松平利長は桶狭間の戦いの際の丸根砦攻めで戦死している。子の信一は三河一向一揆の時には家康側について武功を上げたみたいです。後に常陸国土浦藩の初代藩主となりました。

 

安正寺

 

藤井城から秒で行けます。

松下円平綱親が本證寺の空誓上人に従って1600年頃長円寺(後の安正寺)に入山したと書いてあります。三河一向一揆のときはなかったということでしょうか?

安城生涯学習まちづくり企画人さんのHPによると、松下円平綱親は松下加兵衛の孫とのこと。松下加兵衛ってどっかで聞いたことあるなぁ・・・と思ったら・・・

 

これだ。浜松の元城町東照宮。

浜松城のすぐ西にあった踊っているように見える像。この豊臣秀吉が最初に仕官したのが松下加兵衛でした。若いころに秀吉は松下加兵衛のお供として元城町東照宮(引間(曳馬)城)に訪れていたといわれています。

 

 

熊野神社

 

藤井城から木戸城に向かうときにありました。松平利長や松平信一より守護神とされていたらしい。

 

堤防の上を歩いていきます。何となく春を感じました。(この日はすごく寒かったですが)

 

 

春日神社(木戸城)

堤防から撮りましたが、歩道がない部分がありますので堤防からいくルートはおすすめしません。先ほどの熊野神社から堤防をあがらずに東に進んだほうがいいです。

 

 

時期は1471年。松平親忠の家臣であった成瀬直庸(なるせなおつね)が城主です。成瀬氏というと犬山城で有名ですね。あとは成岩城にも成瀬氏の名前が出てきていました。その成瀬氏の何代か前の人になります。

神社の周りには土塁ぽいもの、堀(枯れた池?)ぽいものがありました。

 

本證寺外堀跡

いよいよ本證寺へ向かっていると、たまたま通りかかりました。本證寺がいかに広かったかがわかります。どうする家康⑧「三河一揆でどうする」の最後に放送される紀行でも紹介されていましたね。これも蓮かな?ここからまっすぐ進むと・・・

 

本證寺

三河一向一揆の3寺のひとつ本證寺。先週どうする家康で話の舞台となっていたためか、この日は30~40人ぐらい人がいたと思います。昨年来たときは10人もいなかったかな?未確認ですが、南西の方に臨時駐車場ぽい広場もありましたね。

 

 

時期ではないので枯れていますが、ここは蓮で有名です。

昨年の8月7日に訪れたときはこんな感じ↓でした。もう少し早い時期に来ると蓮の花が見事だと思います。

 

 

 

現在ガイドさんが本證寺の説明をしてくれます。何人もいるので、みなさん説明を受けることができると思います。おすすめです。

ガイドさんがぼやいていました。私は地元の吉良が好きだけど、ここに見学に来る人はドラマをみてくる人だから家康が好きなんですよね。家康好きと言わないとガイドができない。(家康が嫌いとは言っていませんでしたけど)はっと思いました。確かに私も家康の活躍を見に来ているわけですが、本證寺は家康と敵対したお寺ですからね。家康憎しでもいいと思います。勝てば官軍的な見方は気をつけないといけないなと思いました。

このガイドさん声も大きくて聞こえやすかったし、いろんなぼやきみたいなのが面白かったです。いろいろと勉強になりました。ありがとうございました。

矢作川の新流と旧流?が交わったところから矢を射たらここに落ちたのでここに本證寺をつくったという伝承をガイドさんが教えてくれました。あんなところから矢を射てこんなところまで届くわけないんですよ。でも神話ってそういうもんなんですよ。という話もしていました。このガイドさん好きだわ。おもしろい。

お寺の宗派が多くて覚えられないという人もいますが、宗派は13、仏像は4種類。一ヶ月で覚えられます。勉強してくださいとも言っていました。ちょっと勉強してみようかなと思いました。そんなに少ないのね。

 

お寺の北側に行くと、堀や土塁の跡が残っています。ここをじろじろ見るか見ないかでお城をかじっている人かどうかがわかりました。(ガイドを受けてる15人中3人が見てました)

「北側が手薄です!!」とドラマで言っていましたが、年月を経て埋まった掘や、削られた土塁が現在でも4m近い高さを保っています。ドラマを見ながら「北側は無理です」と思いました笑

 

 

以上本證寺でした。左側で犬がチョンマゲのヅラを被せられていましたが、いやだったのかちょっと駄々をこねていました。

3/11にAWCでまた行く予定ですので、私の素人目では気付けなかったことを勉強してみたいと思います。

 

周辺に史跡が多くて、思いのほか楽しめました。みなさんも本證寺を訪れた際は周辺の史跡も巡ってみてください。

大河ドラマ「どうする家康」毎週の楽しみになっています。城散歩のネタ探しもありますが、どんどん面白くなっていっていると思います。

 

個人的には私の中では超マイナーな戦いの「石ヶ瀬川の戦い」が出てきたことで頭の中が大フィーバーしました!!一度吉川城から石ヶ瀬川を歩いたことがあります。グーグルマップでは大府高校の対岸あたりとなっていますが、入ってはいけなさそうだったので入りませんでした。そして無知のため松平が刈谷城を攻めたことも知りませんでした。ただ、あの顔もよいが頭もよい大久保忠世の紙芝居の苅谷城と村木の間が細い川が流れているように描かれていましたが、衣ヶ浦をドカンと書いてほしかったです。

 

ともあれ、なんで松平は水野と戦ってるの?ってずっと思ってたので、理由がわかってよかったです。

 

さて、今回は瀬名救出作戦で上ノ郷城攻めが行われるとのことで、上ノ郷城へ行ってきました。何気に蒲郡は行くのが大変なイメージなんだよなぁ・・・なんでだろう?

 

どうする家康散歩シリーズその2かな?

14km 2時間45分

北を上にしたので地図が横を向いています。上之郷城になってしまっていますが、上ノ郷城です。下之郷城も下ノ郷城です。

 

上ノ郷城

 

上ノ郷城は今川方の武将鵜殿長照が守っていたお城です。妻が今川義元の妹であったためか、桶狭間合戦後も今川についています。今川から離反した松平元康は瀬名姫(築山殿)を奪還するべくこの上ノ郷城を攻めます。なかなか落ちない上ノ郷城に甲賀忍者が忍びこみ火を放って落城に至ったという話があります。鵜殿長照はここより東にある鵜殿坂で討死したようです。鵜殿長照の子供を捕縛した松平は、今川に人質交換を要求し瀬名姫と嫡男竹千代・亀姫の奪還に成功します。今川が安祥城攻めして竹千代を織田から奪還した話に似てますね。

 

上ノ郷城の裏手から上りました。

 

主郭

 

主郭からの眺め。竹島も見えます。

 

上 ノ 郷 城 という看板の裏に色々なものが貼ってあります。

 

このマップは必ず撮影しておきましょう。非常に参考になりました。

 

 

主郭から下に降りられます。

 

下の曲輪から下を見てみると空堀のようなものが整備されているように見えたのですが中には入れませんでした。

 

堀跡ぽい川にはみかんがたくさん。

 

さっき他の人が別の場所(裏手以外のところ)から現れたので、もう一度周囲を歩いてみたら途中に看板があった・・・。土塁探してたら見逃してしまった。

 

 

碑の横の木をくぐって中に入ると祠がありました。様子から見て忘れられた祠のような感じ。木が進入を拒んでるように見えました。

 

鵜殿長照墓碑

上ノ郷城を後にして鵜殿長照のお墓を探していたら、こちらが何も言ってないのに地元の人が親切に教えてくれました。「看板ないからねぇ」って。道沿いに墓地があるので、そこに行くとわかります。

 

なぞの石があり、その向かいに鵜殿長照のお墓があります。

 

そこから北に進むと正行院があります。が、少し寂しい感じのお寺になってました。

 

鵜殿落城男女諸精霊之墓

本堂の横にありました。

 

裏に平成7年11月吉日 鵜殿勝昭と書いてありました。鵜殿家の末裔の方ですかね。

 

鵜殿坂

ずーっと東に進みます。上ノ郷城から割と離れたところに鵜殿坂と呼ばれる坂があります。特に看板などはありません。上ノ郷城の看板の裏のマップを見て確認をしましょう。

鵜殿長照はここで捕まり殺害されたと上ノ郷城の周辺案内図には書かれていました。ここの坂で転ぶと傷の治りが遅いという言い伝えがあるそうですが、この坂の両脇には保育園や小学校があるのがなんとも。両脇は坂じゃないからいいのか。

「どうする家康」では上ノ郷城で自害していましたが、果たしてどちらが本当なのかな?

 

安楽寺

立派な山門の安楽寺。あまりにも立派だったので思わず寄ってしまいました。かつては家康の実母の於大の方が再嫁した久松俊勝の菩提寺です。平成27年に火事で本堂などが焼けてしまったらしいです。そのときに於大の方の位牌も焼けてしまったとのこと。門の奥に新しい本堂がちらりと見えますが、そういう事情があったのですね。雰囲気がかなり違うので別の建物かと思ってしまいました。

 

 

 

久松佐渡守宝篋印塔

久松俊勝というと知多郡阿久比町にある坂部城主のイメージでしたが、上ノ郷城攻めでの武功によりこの地に移ってきました。どうする家康では鵜殿を見て逃げていきましたが笑

 

蒲形城(下ノ郷城)

鵜殿坂からひたすら南下すると着きます。蒲形城(かまがたじょう)、別名下ノ郷城

です。上ノ郷城があれば下ノ郷城もあります。現在は駐車場です。見る影もありませんでした。グーグルマップはここを指していますが、「中部地方の中世城館」の本を見ると↓の写真の左側のコンビニあたりになっています。他のサイトをみるとこの写真の真後ろ辺りにある蒲郡高校が紹介されています。

 

関係ないかもしれませんが、駐車場の裏手あたりにこんなところもありました。

 

竹谷城

竹谷城(たけのやじょう)は竹谷松平氏の居城です。グーグルマップで調べると北側を案内されて↓に到着します。

 

しかし上ってみるとみかん畑があり、私有地だったのが分かったのでこれ以上進むのはやめました。

 

少し小高くなっています。

 

「竹谷松平四代五輪塔」というのをグーグルマップで見つけたのでそちらに向かっていたらたまたま竹ノ谷城跡という看板を見つけました。こちらが入り口だったようです。

 

竹谷城というだけあって竹だらけです。

 

竹の道を進むと碑に到着。

 

隙間から覗いてみると先ほどのみかん畑が見えました。

 

碑の裏に少し何かが書かれています。

松平信光ノ子 守家 来リテ此地ニ住シ 其ノ曽孫清善ニ至リ城ヲ築キ 子孫竹谷松平ト称ス 天正十八年家清武蔵八幡山ニ移ル

 

竹谷松平四代五輪塔

竹谷城から大通り沿いに西に進みぐるりと回りこんでみたら、中学校の入り口に行きそうになってしまったので、戻ってこのアパートの横の道を上がってみたら到着できました。

 

初代守家、2代守親、3代親善、4代清善のものです。(四代??)

 

竹谷松平家は、宗家の松平元康に倣い今川から離脱したため、今川氏真は竹谷松平家の人質を吉田城外のお寺で殺したと書いてあります。どうする家康では描かれていませんでしたが、ここにも悲劇の一族がいたのですね。

 

上ノ郷城からみたら近所のお隣のお城。周りはみんな今川の味方だったはずなのにいつの間にか周りは敵だらけ。一門のはずの下ノ郷城すら敵に回ったという状況を考えると、鵜殿長照が可哀想になりました。長照は今川義元の妹を嫁にもらってるので裏切るわけにはいかなかったといわれています。こんな状況で、松平元康が忍者使って中から攻めないときつかったという話を聞くと、鵜殿長照ってすごいなと思います。地元の人(私に鵜殿長照のお墓の場所を案内してくれた人)は、自分は朝お参り済ませてあるからと言っていたので、地元では好かれているのかなという印象も受けました。

 

次は三河一向一揆ですかね!?

桶狭間の時矢作川を渡って逃げる際の家康が鹿に救われたというエピソードはすっ飛ばされてしまったので、三河一向一揆のときに家康が洞窟で鳩に助けられた伝承の残る山中城(岡崎市)裏の神社は出てきてほしいです。

 

私が行ったときは上ノ郷城には5人ぐらい人が来ていました!!私が散歩してると此の手の城は大体誰もいません。大河ドラマ効果だと思います!今週末はもっと人がくると思います。皆さんも気をつけて楽しんでください!!

 

ちなみに竹谷城は0人でした・・・

 

今回は愛知城巡りウォーキングクラブ(AWC)参加です。

 

榊原康政生誕の地、豊田市にある三河上野城とその周辺の史跡を歩きました。

 

榊原康政といえば、「どうする家康」でも先日登場しました。大樹寺で木の上で昼寝していたり、家康に厭離穢土欣求浄土は死ねって意味ではありませんとかいってた人ですね。通称小平太です。

 

出発は上之郷駅です。駅前の看板にいろんな史跡が書いてありました。

裏には解説も。

 

最初に来たのが、三河上野城の南に位置する「榊原康政生誕之地」の碑その①です。

レンズが汚れていたのか、この日の写真は変な光が入っています汗

 

続いて誓願寺。戸田氏のお墓があります。戸田宗光といえば、これもどうする家康の幼少期の回想のシーンで出てきましたが、家康が今川に人質に出されるときに織田に売り払った人物ですね。その後安祥城を今川が攻略し織田信広を捕縛し、竹千代との交換が成立するわけですが・・・歴史はおもしろいですね。

 

上野城です。ここには榊原康政生誕地の碑その②があります。なぜ二箇所にあるのかというと、この地域の出身ですよということをいっているとのこと。家康生誕の地岡崎という旗が町中にあるのと同じような感じですね。

 

少しだけ小高いところにあるとはいえ、平坦地に作られている城ですが、登ってみると下からの高低差を感じられます。東に川が流れていますが、絵図には載っていないとのこと。しかし、東側は低地になっており湿地帯であったようです。

ちなみにニッポン城めぐりのリア攻めをしたい人は、上野城の奥の戦争慰霊碑の辺りで城攻めすれば取れます。お城の場所で攻めても取れません。

 

そして東へ。上野城がよく見えます。

 

隣松寺。三河一向一揆の際に敵に回った先ほどの上野城を攻めるときに家康が本陣を置いた場所です。他にも松平広忠が安産祈願をし竹千代が生まれたとの言い伝えもあります。そのためか瓦は徳川葵がみられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

細川家の墓もあります。細川護熙元首相のご先祖さまのものらしい。

 

松平忠吉の墓があります。関が原の戦いのときに井伊と共に抜け駆けして一番槍を入れたものの鉄砲傷をうけて、後に亡くなってしまった人です。

 

 

隣松寺の北東側に向かいます。○○松平氏というのが色々あって私もよくわかっていませんが、ここは鴛鴨松平氏の墓所です。おしかもと読みます。

 

 

榊原氏は伊勢の国の榊原村に住んでいたため榊原姓になったようです。

 

 

於美津の墓。松平忠吉の養母だった人です。鴛鴨松平氏の娘だったので隣松寺に忠吉の墓があるんですね。

 

ここから東名・新東名をくぐって進むと鴛鴨城があります。いつも通っている高速を下から見てもわけわからないですね。

 

 

 

今回のAWCはここまででした。

私はこの後徒歩で上之郷あたりまで戻ったので全部で8kmの散歩でした。

 

やっぱりひとりで歩いていると気づかないことが多いです。上野城も2回来たことがありますがいつも新鮮な気分で参加できます。これからも楽しみにしています。

 

さあ、ついにどうする家康が始まりましたね。

 

早速第1話「どうする桶狭間」を見て思いました。「散歩のネタに事欠かないのでは!?

毎週どこを歩こうかネタに困っているのでこれはいい。当分岡崎の話であればそこを巡るだけでも復習できるしちょうどいいのでは?(ちょっと駿府まではいけないけど)

 

桶狭間を巡るときのスタートはいつも大高緑地公園からです。今回は大高緑地の南側あたりから大高道を通って、ドラマのように丸根砦に戦を仕掛け大高城に兵糧を入れ、堀に下りて脱出して海岸線で本多忠勝にボコられるまで行ってみたいと思います。(本当は大高道をがっつり歩きたいところですが、時間がなかったので割愛)

 

最初に断っておきますが、いつもどおりの下調べなしのノープランで行っておりますのでルート等は全くの行き当たりばったりでエレガントさの欠片もありません。この右往左往を参考にしてご自身でプランを立てて行く事を強く推奨しますので悪しからずご了承ください。

 

今回は13km、2時間23分(迷子時間込)スタートから東方向に8の字ルート

 

今回巡った主な場所

大高緑地公園(砦前交差点付近) ⇒ 大高道(東から西へ) ⇒ 丸根砦 ⇒ 大高城 ⇒ 氷上姉子神社 ⇒ 熱田神宮末社元宮 ⇒ 大高観光案内所 ⇒ スタート地点へ 

 

大高緑地公園をスタート。

スタート地点からもう丸根砦が見えています。交差点の名前も砦前です。

真ん中の家の裏に木の生えている所が丸根砦です。

 

園内を東に向かい散歩。展望台があると書いてありましたので、松平軍行軍の物見ができるやも!?と展望台まで行ってみることに。

 

東山のタワーが見える

 

名駅のビル群も見える

 

東方面周辺

 

 

 

確かに見通しはいい。ただ、桶狭間の場所がわからない。戦いが起こって煙が上がってればワンチャンわかるかもしれません。割と東側を撮りましたが、もうちょっと南が桶狭間古戦場ぽい。仮に物見がここから様子を見ていたとしても桶狭間での勝敗とか戦の状況とかはわからないと思います。私の頭ではスマホを駆使してもどれがおけはざまやまかは判別できませんでした。

 

ちなみに南側の大高道を通る松平軍を物見しようとしましたが、ひと山あり道を見ることはできませんでした。仕方ないので歩いていざ大高道へ。

 

ここで桶狭間探したり、大高道の方向を悩んでいるうちに20分ぐらいロストしたと思われます。

 

大高道

松平元康(徳川家康)が桶狭間合戦前夜にこの道を通り、丸根砦の麓を通過して大高城まで兵糧を入れたときに通った道です。散歩では何度か通りましたので、写真を撮るのをすっかり忘れていました。

今回は大高緑地から外に出て名二環沿いに南に下り大高道に出たらそこから西に進みました。そして丸根砦へ

 

丸根砦

信長によって大高城への抑止として建てられた砦のひとつ。尾根伝いに北に行くと鷲津砦もあります。

 

どうする家康では兵糧入れのときにすぐに総攻撃が行われていましたが、私の認識では丸根砦を無視して(多少交戦したであろうが)兵糧を大高城に運び入れてから松平隊が丸根砦を攻めたといった感じです。

 

人の家に入っていきそうな道ですがぎりぎりで右に折れる道があり砦に上れます。

 

いつもは誰一人いない丸根砦ですが、今回は昨日の放送の影響か親子連れやら夫婦やらソロやらでおそらく3組は訪れていました!!なんだろう・・・うれしい。親子連れはお母さんがお子さんに演技を交えて伝えていたのが微笑ましかったです。

 

 

正面から右にかけてのひょうたん島みたいな形?のところが大高城。ガッツリ見えますね。

 

 

大高城

 

大高道を進みこの秋葉社を左に曲がり少し進んで左に行くと大高城です。家康の旗が立ってますね。

 

ここにも3~4組の人が!!大河効果恐るべし!といってもここはたまに来ると子供さんと二の丸辺りで遊んでいる人がいますね。麒麟がくるのときにもここは麒麟がくる紀行?みたいなので最後に紹介されていました。

 

 

本丸

 

いつもの土橋。渡ったあとですが・・・。

この両脇に空堀があることをご存知でしょうか?私はAWCで連れてきてもらうまでしりませんでした。しかも堀に入ることができます!(これも教えてもらった)

 

本丸から土橋を渡ったら右側の曲輪に行きます。そこを奥まで進んでいくと・・・

少しだけ隙間があります。ここを降りていくとこんなところに出ます。

振り返って写した写真なので逆になりますが、坂を下りたら右に入ります。(写真だと左手)

 

なんと堀の中を堪能できます!!

今川義元公が桶狭間で討たれたことを知った松潤家康が堀を下りて海岸線まで逃げていましたが、もしかしたらここの場所の描写だったかもしれません!!(適当)

 

 

そして海岸に向かって進みます。

名古屋人には信じられないと思いますが、鳴海・大高は昔は海が近かったのです。

私も未だに信じられません。

 

ではここから海に向かって進みます。多分西でしょ。

 

今まで大高城より西に行ったことがありませんでしたので今回初です。

海に出たいのに何故か山なんですが・・・・

山を越えてさらに進むと、名古屋高速大高線をくぐります。そこにあったのが、

 

氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)

神社でした。海じゃないの?

山なので海があったわけがありません。

「氷上山(火上山)」と称される丘陵上に鎮座し、熱田神宮の創祀以前に草薙剣(三種の神器の1つ)が奉斎された地といわれる。・・・らしい。

 

現在熱田神宮にあるとされている三種の神器の一つ、草薙の剣が最初にあったのがここの神社ということですかね!?かなりすごい神社に遭遇しました。私もここで初詣しました。

 

その隣にも神社がありました。

 

熱田神宮末社元宮

隣の氷上姉子神社は人がいっぱいなのに、こっちの熱田神宮末社元宮の方には誰一人いません。歩いてすぐなのになぜ?というか氷上姉子神社との関係性がいまいちよくわからない。

 

入ってみると、なんか城跡歩いているような感覚に。切岸ぽい感じがあったり、曲輪みたいな感じがあったり。

どこかのHPに「専門化が散々見て判断しているのを素人が一目見て土塁だの堀だの判断するのは無理」ということが書いてあったのを思い出しました。危ない。

 

 

 

奥にすすめる道があったのでいってみましたが


 

途中でだめだった。なんかあの高天神城の犬戻り猿戻りを思い出しました。

 

 

 

西はだめだ。海がない。地形図をよく調べてみたら西側全然低地じゃない・・・。

ってことは北か・・・泣

 

西に抜けてしばらく行くと今度は公園に出ました。

廻間公園というところです。なかなかきれいな公園です。

若干さみしい神社を通ってきたので和むが・・・

 

ん!?

 

車が沈んでる!?屋根しか見えない。

 

通報しそうになったけど黄色いテープが張られていたので大丈夫かな。近所の人たちも何でこうなるのかと言っていましたのでもう救助は行われた後でしょう。

 

さて海岸線を探しに北へ。正直現在位置がよくわからない。

北の方に抜けてから東に戻ります。大高城の北辺りに大高観光案内所というところを発見しました。祝日の月曜日でしたが開いてませんでした。

 

地形的に見てもこの辺りじゃないのかな?松潤が本多忠勝にぼこられてた海岸は!?ちょうど色が変わってて海岸線があった感じがします。(ごめんなさい適当)

 

ということで、松潤家康が、幼いころから駿府で一緒に苦楽を共にしてきたはずの本多平八郎忠勝に海岸でぼこぼこにされながら「お前三河もんか!!」と言う、??まさかの初対面??となった「海のシーン」が行われたであろうと想定する場所はこの辺りと私の中では決まりました。実際の撮影は渥美半島でやってたのかな?

 

ちなみにこの大高城兵糧入れが本多忠勝の初陣です。

ということで今回のお散歩はこんな感じで終了です。

 

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さて、「どうする家康」が始まりました。いきなり桶狭間の戦いから始まったため、幼少時代の話やんないの?最初の苦難じゃないの?と思いましたが第2話で描かれてよかったです。太原雪斎が出てこなかったことだけが心残りでしたが。

 

正直賛否両論色々あるようですが、楽しんだ者勝ちでしょう。細かいこと言えばキリがないです。

 

かくいう私も、大高城で大嵐の中今川義元討死の報を聞くシーンとか(桶狭間の戦い自体が嵐が止んでから始まった)、CG丸根砦が無駄に要塞だったりとか(あれだけの規模があればある程度兵少なくても2日ぐらいはもちそう)、さっきの本多忠勝初対面とか気になりましたよ。

第2話も、矢作川の鹿が助けてくれた話もすっ飛ばされたり(これはいいか、でも本多忠勝の鹿兜のエピソードに絡むからやってほしかった)、どーんと出てきた里美浩太朗和尚が厭離江戸欣求浄土を説かなかったり(ここは通説どおりでよかったんじゃ)、それなら和尚がかんぬきもって敵兵相手に大立ち回りするかと思いきや何にもなかったし(これはいいか笑)、どうするどうするどうするきみならどうする?(デンジマンの歌)やっている時間を少し削ればひとつぐらい入れれるのでは?と思ったりもしてますけど、私の傲慢かとも思います。

 

私の後輩のように松潤好きだけど徳川家康って何やった人だっけ?という歴史に興味のない人に興味を持ってもらういい機会になります。私は楽しんでいます!!今後どういうように展開していくのか楽しみです。大河ドラマ館岡崎の年間パスも注文しましたので使い倒しますよ!!

 

とりあえず瀬名姫がとてもいい人なのがとてもつらい・・・

 

大河ドラマ館は今週末オープンですが、現在2度目のコロナ感染中・・・おそらく今回も職場感染ぽいです。とりあえずオープンには行けませんが早く直して行きたいと思います。なので2話の大樹寺とかはいけませんでした。

1回目の感染のときはやばかったですが、今回は症状もすこしずつ良くなってきていますので1週間で完治できそうな気がします。

 

元気が一番!!今年もよろしくおねがいします。

浜松城公園の駐車場は朝8時からで、それまでは全く前倒しもなくあきませんのでご注意ください。ぎり8時前にいくと大渋滞です。駐車場もだいぶ余裕があるので8時10分ぐらいにつくように行ったほうがいいと思います。

 

駐車場に車を止めて横をみたら、見たことある顔が・・・浜松に勤めている同期がいました。5年ぶりの再会でした。奇遇とはこのことだなぁ。

 

だいぶ脱線しましたが、本題に戻ります。

今回の敗者復活のイベントは、「Linkx aruku」というアプリを使い、そのマップに記された家康ゆかりの地をめぐりチェックしていき、すべてチェックできたらその完了画面のスクリーンショットをアップロードして申し込むといった流れです。

 

浜松城

 

「Linkx aruku」をスタートさせますが、反応がシビアすぎるときがあります。正直ニッポン城めぐりのリア攻めの判定よりシビアです。天守の前でも取れないシビアぷり笑。なんとか反応してくれて次へ。

 

 

 

現在大河ドラマ館を作っているのが元浜小学校跡です。

 

元城町東照宮(引間(曳馬)城跡)

次は引間城跡です。現在は元城町東照宮となっています。浜松城から広い道路を渡った向かいにあります。

元々この引間城を拡張する形で浜松城ができたといわれています。

 

 

 

二人で楽しくダンスを踊っているようにも見える像ですが、徳川家康・豊臣秀吉ゆかりの場所とのことで出世のご利益があるといわれています。若き秀吉が最初に仕官した松下氏のお供でここに訪れたとのことです。

 

で、肝心の「Linkx aruku」ですが、ポイントが社殿の真ん中に設定されていますが周辺からだと反応しません。シビアとかそういう問題ではなく、社殿に上がりこめと!?もうひとり取れなくて困ってた人がいましたが、社殿の方に手を伸ばしてがんばって攻めていました。私は・・・社殿の裏手の↓の張り紙がしてあるところで反応してくれました。これはちょっとアプリの設定おかしくない!?

 

社殿の西は駄目、真正面も駄目、一番近い東側も駄目、でここでOKの謎使用。もし引間城の玄黙口ということならポイント設置の場所違うよね?今回の散歩で一番苦労したのがここのポイント取りでした・・・えーんあとは結構ゆるかったんだけどね。

 

椿姫観音

亡き夫・飯尾豊前守に代わり、引間城主となったお田鶴の方。しかし徳川勢との戦いの末、命を落とします。母同士が義理の姉妹にあたる築山御前(家康公の正室)は彼女の死を哀れみ、塚の周りに100株余りの椿の花を植えたといわれています。椿は毎年美しく咲き誇り、いつしか椿塚と呼ばれ、それが椿姫の名の由来になったと言い伝えられています。(家康の散歩道の解説より)

 

浜松八幡宮

前回も来ました雲立のクスです。

 

徳川秀忠公誕生の井戸

 

遠鉄遠州病院駅西側にあります。井戸は伝承に基づいて作られたものだそうです。

 

 

松尾神社

浜松神社と松尾社を合祀、浜松城の祈願所にしたとのこと。

 

 

金山神社

武田氏の滅亡後に甲斐の国から移住してきた鍛冶集団が勧請したのが金山神社だそうです。浜松空襲のときには市民の避難場所として使われていたとのこと。(前回参照)

 

五社神社・諏訪神社

私の両親が結婚式をやったとされる場所です。前回参照。

 

五社神社は、もともと浜松城内に祀られていましたが、2代将軍秀忠公の産土神(うぶすながみ:生まれた土地を守護する神)として家康公の命で現在の地に遷座しました。また、諏訪神社は3代将軍家光公の命により現在の場所に遷座。徳川家から崇敬されてきた両神社は、1960(昭和35)年に1つの神社として合祀されました。子守り・子育ての神様としての信仰も厚く、現在では七五三の時期になると綺麗に着飾った子どもたちや家族で賑わいます。(家康の散歩道の解説より)

 

浜松秋葉神社

 

奥平信昌の屋敷があったとされる場所。戦前武田家旧家臣が家康に従うという起請文があったそうですが、戦火で焼かれてしまったようです。井伊の赤備えのきっかけとなったものですね。そのためかこの神社は全体的に赤(朱)いです。

 

浜松城出丸跡

・・・・・・・・なんか道歩いてたらチェックできてしまったので行きませんでした。前回行きましたので。

 

家康公鎧掛松

前回暗くて見つけられませんでしたがすぐ近くにありました。

三方ヶ原の戦いに負け、浜松城に逃げ帰った家康公が鎧を脱いでここの松に掛けたという伝説があります。

 

 

ということで全12ヶ所コンプリート!!

「Linkx aruku」のゴールを押します!!

 

このスクショを送って敗者復活の申し込みをします!!

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は!?

 

チェックイン数11/12

え!?

 

6番すっ飛ばしてるやん!?

調べてみると「遠江分器稲荷神社」が抜けてる!あぶない。

 

 

急いで遠江分器稲荷神社へ。

 

遠江分器稲荷神社

徳川四天王本多忠勝の屋敷があったとされる場所です。

 

シルエットでよくわかりますね。

 

今度こそ無事コンプリート!

 

そして・・・今度こそゴール!!

 

ぽちっ

はっ!?!??!?!?!?!?!??

 

一回ゴールボタンをポチると歩数がリセットされるようで、ある程度歩数が稼げてないとゴールできないらしい・・・。車でズルするのを見越しての仕様だと思いますが・・・

 

そりゃないよ!えーん

 

仕方ない。歩くしかない。

前回行きそこなったので今回行きたかった犀ヶ崖古戦場にも行きました。

 

たしかに台地に急に現れる深い崖でした。

 

 

記念館でDVDを見せていただきました。DVDに出ていた浜松城周辺の川の画像が興味深かったです。あの画像ほしいなぁ。

模型もTVチャンピオンなどに出ていた方が作られていて非常に細かい仕事をしてました。すばらしかったです。

 

犀ヶ崖以外にもここにも崖が。ここを真っ直ぐ進むと浜松城に出ます。

 

 

こんな感じ。入り組んでいる場所が結構あります。

 

今回歩いたのがこんな感じでした。

11.4km 2時間10分でした。

 

ちなみに「Linkx aruku」の方の歩数は大して稼げず、つけっぱなしで帰ることに。一日つけっぱなしにしておいたのですが、次の日に見てみるとアプリが落ちてました。愛知で歩数を稼ごうとしてスタートさせようと思ったら、浜松のマップにある史跡の近くでないとこのマップが起動しないという超親切設計の前に完全敗北・・・かと思いきや、7700歩弱で申し込みできました。

 

 

 

無事申し込みできました。

アプリの反応がシビアすぎたり、11箇所しか巡っていなかったり(ただの不注意)、歩数は足りないし、家に帰ってきてから怒られる(自業自得)等々いろいろありましたが、何とか申し込みでき、下のようなメールが1/5に届きました!

 

 

無念!!えーん

無駄に苦労した過程を加味してほしいと思いました・・・

いいんですよ、私の本命は450年記念限定コラボグッズのほうですから!!

 

ニュースでイベントに当たった人映ってたなぁ・・・楽しそうだったなぁ・・・