今回は伊賀越え知多半島編をルートを勝手に決めてやってみました。

はっきり言って根拠全くなしのルートなのでエンターテイメントとして読んでもらえるとありがたいです。

聖地巡礼?と銘打ちましたが、どうする家康では描かれないと思われます。

 

「どうする家康」では本能寺の変が起き、家康はついに伊賀越えを行います。

家康は堺から伊賀を越えて三重の白子から船で知多半島方面に向かいます。

その後知多半島に上陸、横断して再び船で三河大浜に上陸した説やら、知多半島に上陸せず船で直接大浜に上陸した説など色々あるようで、2022年7月のはんだ郷土史だよりによると大河では知多半島上陸説は採用されない(冊子の言葉を借りれば知多とばし)との情報をキャッチしたらしく、このはんだ郷土史だよりではかなり熱く上陸説が語られています。

私のようなど素人には真偽はよくわかりませんが、こんな面白い伝承が知多半島にあるのなら!せっかくなのでなるべく古道を通って伊賀越え知多半島編をやってみようかと思った次第です。三方ヶ原に続いてまた徒歩で逃げます!!

 

今回の散歩で参考にしたのは↑のはんだ郷土史だより2022年7月号と、以前に何かで見た気がする(汗)大野から半田市の岩滑城経由で常楽寺に向かったというルートです。

 

大雑把に見るとこういうルート。昔の海岸線を考えるとほぼ知多半島横断です。

約17.2km 3時間22分です。(途中のコンビニスーパーの立ち寄り含む)

 

向きが変わって右が北になります・・・

スタートが常滑市大野の東龍寺です。

先に常滑の港に到着してそこから大野に移動したとされています。常滑競艇近くの港の前に正住院というお寺があり、そこに家康の腰掛石というものがあります。そのお寺の南方にある常滑城の城主だった水野氏の動きが不穏であったことから北にある大野の東龍寺に移動したそうです。どうでもいいですが、家康の腰掛石っていろんなところで見かけますね。正住院と常滑城はこの前行ってきたのでそのうちアップします(多分)

 

東龍寺

当時の住職が家康の従兄弟(家康の実母於大の妹の子)だったため知多半島内の安全地帯のひとつだった。

この案内板を見て驚いたのが、桶狭間の戦いの敗戦から逃れた時にも家康がここに逃げていたと書かれていること。うん、あとで見たらはんだ郷土史だよりにもしっかり書いてあった汗

 

ここからは「古地図散歩」アプリを使い、できるだけ昔あった道を歩いて半田市に向かいます。

一番古いのが1900年頃の地図だったのでその道を参照しました。

今見直すとちょっとこのルートどうよ!?というところがチラホラありますがご容赦ください。正確な大野道がわかる方がいらっしゃいましたら教えてください。

 

歩いていると冷凍焼きいもなる気になる旗を発見。

 

青海グラウンドの横の道を北に向かいます。

見えにくいですが、ここのグラウンドの敷地に高速道路の高架が作られるみたいです。いらない・・・

 

メインストリートから外れて集落の中の道を歩きます。高いところにあります。

 

人も車も通らない薄暗い道を進みます・・・

 

現在大野方面から半田市に抜ける大きな通りにぶつかりそこを進みます。

が、右も左も歩道は草がぼうぼうなので車道を歩かざるを得ません。

ここだけは結構危険ですので、あまりこの散歩ルートはおすすめできません。

 

草ぼうぼうの道をなんとか無事に抜けて半田市に入りました。

確か平井(平和?)という地名だったと思います。

歴史を感じる建物や神社なども出てきました。

 

知多半島道路に古道が分断されていたため現在の道を通り知多半島道路を渡ります。

橋にはキツネのモニュメントがついています。かわいい。

 

そしてやっと新美南吉記念館に到着しました。

ここ愛知県半田市は「ごんぎつね」などの作者新美南吉の出身地です。

私がここに来たのは記念館見学のためではなく・・・

 

 

中山城

現在童話の森という公園になっているところは昔中山城というお城でした。

遺構はありませんが、街道を見下ろす形で小高い丘になっているのが特徴かと思います。

新美南吉の童話「ごんぎつね」の中に中山の殿様が登場するらしいです。(昔教科書で読んだのに記憶がない・・・)

 

岩滑城方面に向かいます。

岩滑城に行く前に矢勝川沿いに向かいます。

 

お殿橋

桶狭間の戦いのときに、ここから北にある坂部城(家康の実母於大の方の再嫁先の久松氏の城。どうする家康だとリリーフランキーさん。)に逃げていた家康がここの橋を通って岩滑城を経由して常楽寺に向かったとされているようです。小さく諸説ありますと書かれています。

 

岩滑城(常福院)

家康の叔父の中山勝時によって創建されたお寺。

伊賀越えの際に大野に上陸した家康の元に馳せ参じて護衛したという話もあります。(他所のブログなどを参照)

この話ははんだ郷土史だよりには書かれていませんでした。

 

新美南吉の生家

この辺の観光名所になっている新美南吉の生家です。

ここから南に向かうと常楽寺に行けます。

 

すぐ近くにこんなものが・・・

あまり読めないけど、右半田もろさき 左かめさき三州と書かれているようです。

ここは南の常楽寺方面に進みます。

 

古地図を見ると裁判所のあたりから今のメインストリートの道が無くなっています。

南に行きたければ名鉄の線路の東側を南に向かうか、白山神社の方の山を登りつつ迂回するかになります。

疲労度の関係で東側の道路を進むことにしました。ここからはざっくりと進みます(;'∀')

 

モスバーガーのすぐ東にある目立つお地蔵さん。油樽地蔵と呼ばれ地元で親しまれているようです。

 

知多半田駅の東側を適当に進みます。

 

この先の交差点を右に曲がり南に向かいます。

 

成岩砦のあたりを西に曲がるとやっと常楽寺に到着です。

 

常楽寺

ここも常楽寺と同じで徳川家康の従兄弟が住職でしたので安全地帯です。

家康はここで休息をとり、近くの成岩城から船で三河大浜まで渡ったということです。

徳川家康から賜った鎧と鞍があるとのこと。

 

ということで無事ゴールしました。

本当ならここから成岩城までいくところですが、足がかなりきつかったのでここでゴールにしました。

このあと青山駅まで歩いたから成岩城も近かったんですけどねぇ・・・家康も常楽寺でゆっくり休んだことでしょう!

 

知多半島横断説ありじゃない!?というのが実感です。

常滑の矢田あたりで山賊がでそうでしたが(笑)東龍寺付近の勢力も味方につけれたでしょうし、街道の東側を抑えていたであろう中山氏の助力もあれば東も安全。

AWCのときに影武者も含めてどのルートを通ったかわからないように分けて逃げたって考え方もあるという話を聞いてなるほどと思いました。仮に本物の家康ではなかったとしても本当知多半島越えはあった話だと思います。

 

同じように知多半島横断しようと思う方がいましたら、夏はやめましょう。どこから蛇が出てくるかわかりません。草ぼうぼうの道の草は現在さらに成長しています。もはや歩道とは呼べませんのでご注意ください。

 

名鉄と半田市と常滑市が協力して家康逃走のルートの案内板立てて道を整備(草刈り)すれば盛り上がるんじゃないかな!?名鉄も河和線の駅と常滑線の駅の利用につながるから儲かりそうですよ!

 

パソコンが壊れて以前の写真が読めないときがあり更新が停滞しています。

たまに正常に動くので機会をみてブログを更新しようと思います。

散歩しててもスマホカメラの調子が悪かったり、夏は火傷レベルの熱を持ちカメラが起動しません。

新しいスマホ欲しい・・・