大河ドラマ「どうする家康」毎週の楽しみになっています。城散歩のネタ探しもありますが、どんどん面白くなっていっていると思います。

 

個人的には私の中では超マイナーな戦いの「石ヶ瀬川の戦い」が出てきたことで頭の中が大フィーバーしました!!一度吉川城から石ヶ瀬川を歩いたことがあります。グーグルマップでは大府高校の対岸あたりとなっていますが、入ってはいけなさそうだったので入りませんでした。そして無知のため松平が刈谷城を攻めたことも知りませんでした。ただ、あの顔もよいが頭もよい大久保忠世の紙芝居の苅谷城と村木の間が細い川が流れているように描かれていましたが、衣ヶ浦をドカンと書いてほしかったです。

 

ともあれ、なんで松平は水野と戦ってるの?ってずっと思ってたので、理由がわかってよかったです。

 

さて、今回は瀬名救出作戦で上ノ郷城攻めが行われるとのことで、上ノ郷城へ行ってきました。何気に蒲郡は行くのが大変なイメージなんだよなぁ・・・なんでだろう?

 

どうする家康散歩シリーズその2かな?

14km 2時間45分

北を上にしたので地図が横を向いています。上之郷城になってしまっていますが、上ノ郷城です。下之郷城も下ノ郷城です。

 

上ノ郷城

 

上ノ郷城は今川方の武将鵜殿長照が守っていたお城です。妻が今川義元の妹であったためか、桶狭間合戦後も今川についています。今川から離反した松平元康は瀬名姫(築山殿)を奪還するべくこの上ノ郷城を攻めます。なかなか落ちない上ノ郷城に甲賀忍者が忍びこみ火を放って落城に至ったという話があります。鵜殿長照はここより東にある鵜殿坂で討死したようです。鵜殿長照の子供を捕縛した松平は、今川に人質交換を要求し瀬名姫と嫡男竹千代・亀姫の奪還に成功します。今川が安祥城攻めして竹千代を織田から奪還した話に似てますね。

 

上ノ郷城の裏手から上りました。

 

主郭

 

主郭からの眺め。竹島も見えます。

 

上 ノ 郷 城 という看板の裏に色々なものが貼ってあります。

 

このマップは必ず撮影しておきましょう。非常に参考になりました。

 

 

主郭から下に降りられます。

 

下の曲輪から下を見てみると空堀のようなものが整備されているように見えたのですが中には入れませんでした。

 

堀跡ぽい川にはみかんがたくさん。

 

さっき他の人が別の場所(裏手以外のところ)から現れたので、もう一度周囲を歩いてみたら途中に看板があった・・・。土塁探してたら見逃してしまった。

 

 

碑の横の木をくぐって中に入ると祠がありました。様子から見て忘れられた祠のような感じ。木が進入を拒んでるように見えました。

 

鵜殿長照墓碑

上ノ郷城を後にして鵜殿長照のお墓を探していたら、こちらが何も言ってないのに地元の人が親切に教えてくれました。「看板ないからねぇ」って。道沿いに墓地があるので、そこに行くとわかります。

 

なぞの石があり、その向かいに鵜殿長照のお墓があります。

 

そこから北に進むと正行院があります。が、少し寂しい感じのお寺になってました。

 

鵜殿落城男女諸精霊之墓

本堂の横にありました。

 

裏に平成7年11月吉日 鵜殿勝昭と書いてありました。鵜殿家の末裔の方ですかね。

 

鵜殿坂

ずーっと東に進みます。上ノ郷城から割と離れたところに鵜殿坂と呼ばれる坂があります。特に看板などはありません。上ノ郷城の看板の裏のマップを見て確認をしましょう。

鵜殿長照はここで捕まり殺害されたと上ノ郷城の周辺案内図には書かれていました。ここの坂で転ぶと傷の治りが遅いという言い伝えがあるそうですが、この坂の両脇には保育園や小学校があるのがなんとも。両脇は坂じゃないからいいのか。

「どうする家康」では上ノ郷城で自害していましたが、果たしてどちらが本当なのかな?

 

安楽寺

立派な山門の安楽寺。あまりにも立派だったので思わず寄ってしまいました。かつては家康の実母の於大の方が再嫁した久松俊勝の菩提寺です。平成27年に火事で本堂などが焼けてしまったらしいです。そのときに於大の方の位牌も焼けてしまったとのこと。門の奥に新しい本堂がちらりと見えますが、そういう事情があったのですね。雰囲気がかなり違うので別の建物かと思ってしまいました。

 

 

 

久松佐渡守宝篋印塔

久松俊勝というと知多郡阿久比町にある坂部城主のイメージでしたが、上ノ郷城攻めでの武功によりこの地に移ってきました。どうする家康では鵜殿を見て逃げていきましたが笑

 

蒲形城(下ノ郷城)

鵜殿坂からひたすら南下すると着きます。蒲形城(かまがたじょう)、別名下ノ郷城

です。上ノ郷城があれば下ノ郷城もあります。現在は駐車場です。見る影もありませんでした。グーグルマップはここを指していますが、「中部地方の中世城館」の本を見ると↓の写真の左側のコンビニあたりになっています。他のサイトをみるとこの写真の真後ろ辺りにある蒲郡高校が紹介されています。

 

関係ないかもしれませんが、駐車場の裏手あたりにこんなところもありました。

 

竹谷城

竹谷城(たけのやじょう)は竹谷松平氏の居城です。グーグルマップで調べると北側を案内されて↓に到着します。

 

しかし上ってみるとみかん畑があり、私有地だったのが分かったのでこれ以上進むのはやめました。

 

少し小高くなっています。

 

「竹谷松平四代五輪塔」というのをグーグルマップで見つけたのでそちらに向かっていたらたまたま竹ノ谷城跡という看板を見つけました。こちらが入り口だったようです。

 

竹谷城というだけあって竹だらけです。

 

竹の道を進むと碑に到着。

 

隙間から覗いてみると先ほどのみかん畑が見えました。

 

碑の裏に少し何かが書かれています。

松平信光ノ子 守家 来リテ此地ニ住シ 其ノ曽孫清善ニ至リ城ヲ築キ 子孫竹谷松平ト称ス 天正十八年家清武蔵八幡山ニ移ル

 

竹谷松平四代五輪塔

竹谷城から大通り沿いに西に進みぐるりと回りこんでみたら、中学校の入り口に行きそうになってしまったので、戻ってこのアパートの横の道を上がってみたら到着できました。

 

初代守家、2代守親、3代親善、4代清善のものです。(四代??)

 

竹谷松平家は、宗家の松平元康に倣い今川から離脱したため、今川氏真は竹谷松平家の人質を吉田城外のお寺で殺したと書いてあります。どうする家康では描かれていませんでしたが、ここにも悲劇の一族がいたのですね。

 

上ノ郷城からみたら近所のお隣のお城。周りはみんな今川の味方だったはずなのにいつの間にか周りは敵だらけ。一門のはずの下ノ郷城すら敵に回ったという状況を考えると、鵜殿長照が可哀想になりました。長照は今川義元の妹を嫁にもらってるので裏切るわけにはいかなかったといわれています。こんな状況で、松平元康が忍者使って中から攻めないときつかったという話を聞くと、鵜殿長照ってすごいなと思います。地元の人(私に鵜殿長照のお墓の場所を案内してくれた人)は、自分は朝お参り済ませてあるからと言っていたので、地元では好かれているのかなという印象も受けました。

 

次は三河一向一揆ですかね!?

桶狭間の時矢作川を渡って逃げる際の家康が鹿に救われたというエピソードはすっ飛ばされてしまったので、三河一向一揆のときに家康が洞窟で鳩に助けられた伝承の残る山中城(岡崎市)裏の神社は出てきてほしいです。

 

私が行ったときは上ノ郷城には5人ぐらい人が来ていました!!私が散歩してると此の手の城は大体誰もいません。大河ドラマ効果だと思います!今週末はもっと人がくると思います。皆さんも気をつけて楽しんでください!!

 

ちなみに竹谷城は0人でした・・・