皆さん、こんにちは。
このブログにお越しくださり、ありがとうございます。
「この日本の国はどうして景気が良くならないのだろうか」、「政治家なら必ず日本のために頑張ってくれるだろう」という浅はかな期待を皆さんはずっとお持ちではないでしょうか。このように言うわいも嘗てはずっとそう思っておりました。そんな浅はかな期待を持ち続けていたわいですが、そんなわいの目を覚ます切っ掛けになったのが、ミカエル氏のブログ「真の聖書福音と預言」です。
わいは前回の記事「純日本人を取り巻く状況」で日本人の一部は古代イスラエル民族の末裔であると書きました。我々は小中学校で日本の正しい歴史を学ぶことはないです。
古代イスラエル民族とはどんな民族なのかは聖書を読まないと分かりません。古代イスラエル民族は主なる神イエス・キリストがお選びになった民です。神の選民でした。
主なる神はアブラム(アブラハム)に生まれ故郷の父の家を離れ、主なる神がお示しになった土地に向かうよう命じられました(旧約聖書 創世記十二章一節)
旧約聖書 創世記 十二章一~二節(新共同訳)
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
アブラムが九十九歳になったときに主はアブラムに現わされ、アブラムと契約を結ばれました。
旧約聖書 創世記十七章一節~八節(新共同訳)
アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。
「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。 あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。 わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」
どうして主なる神はアブラハムお選びになり、アブラハムと契約をされたのでしょうか。
旧約聖書 創世記 十八章十七節~十九節(新共同訳)
主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
主なる神がアブラハムをお選びになり、かつアブラハムと契約をなさったのは、上記のようにアブラハムやその息子たちやその子孫に主の道(原語ヘブライ語では「דֶּרֶךְ יְהוָה」と表される)を守り、正義を行わせるためです。因みにここにある「主」は原語のヘブライ語では所謂神聖四文字です。新改訳聖書では太字で「主」と記述されます。「主」は神であられます。ですから「主の道」は「神の道」であるわけです。「道」の意味を調べてみました。その画像を貼り付けます。
ここでミカエル氏作成の動画「真の聖書福音と預言【第八回】日本はイスラエルである」(BitChute)から画像を五枚切り取りのうえで引用いたします。この動画では「日本がイスラエル」であることが説明されております。この動画では「神道とは、神の道という意味であり」と説明がなされております。画像の二枚目に「あんたが正直で、真理によって神の道を教えはり、誰をも憚らへん方(マタイ福音書二十二章十六節ミカエル氏訳)」とあります。ここに「神の道」とありますが、原語ギリシア語では「ὁδὸν τοῦ θεοῦ」と表されます。主イエス・キリストは初臨の折に人々に神の道を教えられたのです。
この動画では日本の神社とモーセの幕屋の類似性についても取り上げられております。
(「伊勢神宮の構造はイスラエルの神殿がモデル?|日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究」より引用)
靖国神社は明治維新以降に国家のために一命を捧げられた人の霊を祀るために太陽暦千八百六十九年に東京都千代田区に創建されたものです。明治神宮は明治天皇とその皇后である昭憲皇太后を祀るために太陽暦千九百二十年に創建されました。創建の経緯や創建の時期からして、これら二つの神社がモーセの律法に則って造られたのではないことは明らかです。
新約聖書 マタイによる福音書 七章十三節~十四節(拙訳)
狭い門を通って入りなはれ。広い門と広々とゆったりした道は、破滅に至るものであり、そこを通って入る者が多いからや。 狭い門と苦しめられる道は、(永遠の)命に至り、それを見出だす者は少ないからや。
新約聖書 ルカによる福音書 十三章二十三節~三十節(拙訳)
すると、ある人が彼(イエス)に「主よ、救われる者は少ないんか」と言うた。その時、イエスは一同に言わはった。「狭い入口を通って入るように努めなはれ。あんた方に言うとくが、入るために模索して、入ることがでけへん人が多い。」家主が立ち上がって戸を閉め、あんた方が外に立ち始め戸を叩き、『主よ、主よ、開けてください』と言うても、答えて、『あんた方が何処からの者か知らん』と言うであろう。その時、あんた方は、『あんたの御前で食べたり飲んだりしたし、また、あんたは我等の通りで教えはりました』と言い始めるだろう。しかし、家主は『あんた方に言う。あんた方が何処からの者か知らん。律法違犯を行う者ども全員、我から離れよ』と言うだろう。あんた方は、アブラハム、イサク、ヤコブ、すべての預言者たちが神の王国に居るんを見るが、自分らは外に追い出されるんを見る時、そこで泣き喚きと歯ぎしりがあるだろう。そして、見よ、最も低いのが一級になる者が居るであろうし、一級の人が最も低いのになることもあろう。
このように、主イエスに認められて神の王国に入れるのは、主イエスの信仰を持ち、律法遵守する真のキリスト者のみというごく僅かな者しか居らず、広い門を通って広々とゆったりした道を歩んでる者はあかんのが明白やろ。また、時機を逃してもあかんということが明白やろ。悔い改めを先延ばしにしたらあかん。
(ミカエル氏「偽使徒パウロの反キリスト教義 三|真の聖書福音と預言」より引用)
この引用に「狭い門」と「苦しめられる道」とあります。「主の道」、「神の道」は「命に至る道」です。その「命に至る道」は「苦しめられる道」です。その道の入口である「狭い門」は中々見出すことができません。
わいとしてはこの言葉が身に沁みます。
新約聖書 ルカによる福音書 十章二十四節(ミカエル氏訳)
狭い入口を通って入るように努めなはれ。あんた方に言うとくが、入るために模索して、入ることがでけへん人が多い。
「苦しめられる道」に通じる「狭い門」、「狭い入口」を見出しても、中々その「苦しめられる道」に入ることができないでいる状態に苛まれる人がいるのではないでしょうか。かく言うわいもその一人です。自分自身の心の悪さや、聖句の内容が心から理解できない、真のキリスト者になる覚悟が甘いなどの問題があることが考えられます。
「我が子よ、主の懲らしめを軽んじるな。懲らしめられる主によって弱くもなるな。主は愛する者を懲らしめはり、主が受け入れるすべての子を多大な苦難に遭わせるからや。」(ヘブライ十二章五節〜六節拙訳)や箴言三章十一節〜十二節等と、主が神の民を洗練する目的で、この世で神の民は懲らしめられて苦しみに遭わされる
(ミカエル氏「聖書の終末預言 五|真の聖書福音と預言」より引用)
黙示録にもあろう。主イエスは、「我は愛する者たちを皆、懲らしめたり、叱責する。せやから、熱心になり、改心せい。」(黙示録三章十九節拙訳)と言わはり、神に選ばれた愛する者を叱り、懲らしめ、鍛え上げる。よって、懲らしめや叱責を受けへん、それらを受けることから逃げる、叱責や矯正を拒絶する、言うことを聞かずに悔い改めへん等する愚か者は滅びる。
(ミカエル氏「現実逃避をやめよ|真の聖書福音と預言」より引用)
上記ミカエル氏の二つの記事の引用には「主は愛する者を懲らしめはり、主が受け入れるすべての子を多大な苦難に遭わせる」、「我は愛する者たちを皆、懲らしめたり、叱責する。」とあります。主イエス・キリストが神の民の候補としてお招きになる者、愛する者を主イエス・キリストは懲らしめられ、苦難に遭わせられ、叱責されるのです。主イエス・キリストは地上にご来臨された折にはご自分が制定された律法を完全に遵守され、人々に模範を示されました。
拙者や拙者の許に集まる兄弟らの歩みを見よ。必死に真のキリスト者と完成されるように日々努めとる。「あんた方が召されたのはこのためです。というのは、キリストも我等のために苦しみはり、その足跡に続くように我等に模範を残しはったからや。」(ペトロ一 二章二十一節拙訳)とあり、模範は主イエス・キリストです。それ故、その模範者を真似ることは道を踏み外すことになりまへん。
(ミカエル氏「支配層に取り込まれるな|真の聖書福音と預言」より引用)
古代イスラエル民族の末裔たる純日本人は主イエス・キリストがお選びになったアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の子孫です。主イエス・キリストがアブラハムをお選びになったのは、アブラハムとその子及び子孫に主の道を守らせるためです。ここにいう「主の道を守る」とは「神の律法、掟、戒めを守ること、そして主イエス・キリストがお示しになられた模範に倣い、最後まで主イエス・キリストに従順につき従うこと」をいいます。ですから古代イスラエル民族の末裔たる純日本人は、神の律法、掟、戒めを守り、最後まで主イエス・キリストに従順につき従うことを主イエス・キリストに求められております。しかし、だからといって古代イスラエル民族以外の異邦人が神の律法、掟、戒めを守らなくてもいいというのではないです。異邦人も同様に神の律法、掟、戒めを守らなければなりません。
西洋かぶれをやめへん人たちに救いは無い。西洋人やその他の異邦人も、古代イスラエル人の末裔である日本人が過去に守り、拙者も守ってる神の律法に従わねば、救いは無い。律法(出エジプト記十二章四十九節、民数記十五章十五節〜十六節)に書いてるやろ、神の前にイスラエル人であろうが寄留者であろうが区別は無く、異邦人も同一の掟を守らねばならぬと。元々神から選ばれてへん異邦人が、異邦人のやり方を保持し続けてるようでもあかんと気付きなはれ。日本人は、西洋かぶれをやめ、支那人や朝鮮人等といった他の異邦人にも倣うな。
(ミカエル氏「二種類の基礎|真の聖書福音と預言」より引用)
旧約聖書 出エジプト記 12章49節
この規定は、その土地に生まれた者にも、あなたたちの間に寄留している寄留者にも、同じように適用される。
上記の「規定」というのは誤訳で直前の部分だけを指すように聞こえて不適切です。実際、原文及び英語で確認すると規定ではなく「律法」ですので、お手許の聖書も訂正しておいてください。イスラエルの土地で生まれた者だけに限らず、他の土地で生まれた異邦人であっても一つの律法、即ち、神の律法が適用されると書かれています。
(ミカエル氏「自由と律法に対する誤解|真の聖書福音と預言」より引用)
古代イスラエル民族の末裔たる純日本人は神の律法、掟、戒めを守ることを主イエス・キリストから求められていること、また純日本人以外の異邦人(異民族)も同様に神の律法、掟、戒めを守らねばなりません。聖書を自由に読むことができる時間は残り少なくなりました。主イエス・キリストが真理であるとお気づきになられた方は、どうか聖書の通読とミカエル氏の「真の聖書福音と預言」及び「キリスト道」をお読みになり、主イエス・キリストの信仰に励まれるよう願うものです。
拙文ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。
(ミカエル氏「キリスト道」より引用)