皆さんは、宮城県民全員が生涯のうちで必ず、例外なく訪れる場所があることをご存知でしょうか。そして、それはどこなのか。
ええそれは宮城県庁です。宮城県に限らず、みんな行くよね?県庁!
宮城県庁のある上杉(かみすぎ)という地域は、仙台市民のみならず県民全員が召集の対象(響きが悪い)となるまさに宮城県の中心地。純然とはほど遠い縄文顔のわたくしも、上杉の地に足を踏み入れたのも一度や二度じゃあありゃあせんぜ
上杉と書いて「かみすぎ」と読むのは珍しいのではないかと思います。
宮城に来た当初はそれこそ「うえすぎ」と読むものだと思っていたので、上杉景勝あたりと何か関係があるのか!?と考えていたのですが、それとは全く関係なく。
「かみすぎ」の由来は、仙台伊達家の4代目藩主・綱村が杉の栽培を推奨していて、現在の台原森林公園にあたる場所(地質学的には「台原段丘」という)を杉の栽培地としたことから、当時は「杉山台」と呼ばれていた台原段丘に至る通り、即ち「上杉山通り」(かみすぎやまどおり)を縮めたもの。「上」がつくのは、複数ある杉山通りのうち、最も仙台城寄りだったからなのだとか。
「上杉山通り」は現在も通りの名前として存在しています。台原(だいのはら)といえば、以前もこの記事で取り上げたことがあるねぇ
ただ、だいのはらにしろ、かみすぎにしろ、地名としては範囲が広く、台原段丘の隣には北山丘陵、即ち以前の記事でも取り上げた北山五山や青葉神社がある。そして、上杉の端は宮町、即ち仙台東照宮に繋がっていて、ひとことでいうと、車を持たない歴史好きや伊達好きにとても優しい地域なのですわ 用のないときでも歩くから!この地域!
はて、未だ本題に入っていなかったことにびっくりですが(゚д゚)!、今回はそんな上杉にあるスポットを2つ。
まず、1つ目は、「仙台」の地名の由来となったお寺・光禅寺(こうぜんじ)。
光禅寺の開山は858年(平安時代)と、伊達家が宮城に来るよりも遙か昔のはなし。
本堂はこんな感じ。
その割に建物がかなり近代的だなぁと感じますが、少なくとももともとは上杉にあったお寺ではなく、青葉山、つまりは現在の仙台城の場所に建立されたのでした。それを、後から来た伊達政宗に・・・
政宗「ここ(青葉山)に城を造るから、ちょっとどいてくれや。ha!」
と、ひょいっとどかされたのでした。デジャヴ・・・
伊達家、安易に寺社どかしがち。
これが細川家だと寺社の方に自分たちを合わせてたわとか思ってしまう(爆)
政宗の命により、青葉山からえっちらおっちら運ばれたお地蔵様。
話は戻して、青葉山はかつて「千躰山(せんたいさん)」と呼ばれており、「千躰」は1000体のお地蔵様をこの光禅寺が祀っていたことに由来するそう。「千躰」から千代(ちよ)に栄えよという想いを込められて「千代(せんたい)」へ、そして政宗の時代に「いや千代(千年)じゃ足りんだろ。もっとだ!」ということで「仙臺(仙台)」に変わった説が有力なのだとか。ふふ、強欲だね。
個人的には、1000年って途方もない年月だと思うけど、1000年前も普通に日本語喋って物の怪と戦ったり人間と戦ったりしていたことを考えると、1000年後も人間ってあんまり変わらない気がするよね。政宗公の超長期的な視野、すごいと思うわ。
そういえば、今年のお正月に愛宕神社に行った際、たまたま足を踏み入れたところに大満寺というお寺があって、そちらも同様に元は青葉山に建立し、「千躰堂」という千体仏を祀るお堂があるのだそう。また、大満寺も「仙台」の名の由来となったお寺であると紹介されており、政宗が来る前の青葉山には光禅寺・大満寺含め7寺ほどあったそうなので、そのいずれもが「仙台」の名前の由来なのかもしれませんね。
(これら2枚は正月に撮った大満寺の写真です。てか千躰堂たぶん見てたー!)
光禅寺に戻りますぞ!
本堂側から見た敷地はこんな感じで、近代通り越してめさめさ現代。
第二次世界大戦時の仙台空襲によって上杉地区も焼け野原になっているので、まー古いのは残ってないわなー・・・という。
もう少し外を見てみよう。
上の写真の一番左側にある屋根がついているものは、古井戸。上杉に光禅寺が移されてから400年以上、ずっと変わらずここにある。
彫刻が綺麗だよね。
続いて一番右側の禅画。「すべてよし」。いいなぁそのポジティブ!
あとピッカピカに磨いてあって、反射するッ!
最後に真ん中。こちらは、「仏頂尊勝陀羅尼(だらに)碑」と呼ばれる龍の子どもの像で、「贔屓(ひいき)様」の愛称があるのだそう。重荷を背負うのが大好きで、撫でながら願い事をすると叶う・・・という・・・え、ええーッ、そんな、重荷なんて・・・
横から見ると、かわいらしいお地蔵様と狛犬が。こちらのお寺、かわいらしいお地蔵様が至るところに飾ってあって、とても癒されます。しあわせ地蔵というらしい。
特にお気に入りのしあわせさんはこちら。5円玉を握っているのがかわいらしすぎる 伊右衛門が背中にかくれんぼしているのもよき。
本堂の中はこちら。
本堂内で唯一写真を撮りやすかったのは、立木十一面観音かな(笑)
延命地蔵大菩薩も見ることができましたが、撮るには良心が呵責りましたわん
外に出て、再度出入口。
案内図にもありましたが、このお寺には豊川稲荷も祀ってあります。
豊川稲荷って・・・確か愛知よね。東海に住んでいた頃は結構聞く名前だったけど、東北は光禅寺のものしかないんだあ・・・!
ところ変わればなんとやら、ですね!
種田山頭火の句碑。この人も行動範囲広いなあ!地元熊本にいたときも、この人の名前はよく聞いたんだよね!愛媛県の松山にもいたんだっけか!漱石おいちゃんに続く身近な歴史人物。
なぜ山頭火の碑が、というのは、山頭火の友人がこの光禅寺の裏手に住んでいて、その友人を訪ねたことがあるからなのだそう。
なんだか、馴染みのある人の名前を遠い地域に赴いたときに聞くと、不思議と安心感を抱いたりするよね。
聖地巡礼感も楽しめるし、これだから転勤族はやめられねんだよな
おじゃましましたん
光禅寺を出て右に曲がり、駅前通りに向かってまっすぐ進む道(いわゆる光禅寺通)には、日本基督教団、モルモン教、創価学会などの新興宗教施設が多く建ち並んでいます。一方、上杉地区から仙台駅までまっすぐ行ける道だからか、朝夕はスーツでバッチリ武装した企業戦士たちが、脇目も振らずコツコツカツカツえらい勢いで追い越していきます。一度その時間帯に出くわしたことがあるけれど、殺気に魂がヒュンッとしたね(爆)
そんな道の途中に、2つ目のスポットはあります。
白虎隊の生き残り・飯沼貞吉終焉の地の碑。
白虎隊の悲劇については、新選組について調べていた関係で大まかに知ってはいましたが、まさか白虎隊士が仙台の上杉で晩年を過ごしていたとは想像もせず。でもそうだよね、会津のある福島と宮城は隣県だし、仙台は当時から既に東北の中心地だったからなあ。
飯沼さんは明治維新後に「貞雄」と改めています。だから、説明板は「貞雄」表記なのですね。
彼の自宅は幼稚園を経て、現在は普通にマンションが建っています。なので、家はもうなく、この石碑のみが彼のいた証を示しています。
種田山頭火とは真逆で、彼については東北に行かないとまず出会う機会がなかったでしょうねぇ(彼も全国を飛び回ってはいたようですが)。そして、他の地でぼんやり名前を聞いて過ごすのと、この東北の地でしっかり名前を噛み締めるのとでは全然違うだろうなぁ。
企業戦士たちが景色の一部としてかつての戦士の石碑を通り過ぎていくことがすごく新鮮に感じつつも、いやぁみんな生きてるな、生きるってのは戦うことだな、となんだか変に実感したり。
なんか、がんばろって気合い入っちゃうよね。
飯沼さんのお墓は、北山の輪王寺にあるそうなのですが、私はまだ輪王寺には行ったことがありません。今度行ってみようかな。