まさかの、というか安定の、続きものになってしまった伊達宗家シリーズ。
いや、その実、載せたい写真はもっといっぱいあるのよぉ
はてさて、前回記事の龍宝寺を離れ、三社詣りの二社目・青葉神社へ。
こっ、こここ、これ、なんとなくい~い感じに撮れてそう感出しているけれど、実はこの青葉神社の前は急カーブの道路になっていて、車の通りも多いので突っ込んでこられないようかなり離れた場所から撮ったのです。スマホカメラ意外と遠くからもいけるわね。
青葉神社は、明治維新後に創建された仙台市の神社の中でも若めの神社です。祭神は仙台藩祖・伊達政宗。
手水舎にある像が面白くてついパシャリ
お水は龍の口から出てきますが、さすが伊達の独眼竜というか
別に龍を踏んづけているわけではないんだけど、なんか笑える
大崎八幡宮と違って、なんか厳かなんですよねぇ・・・・・・
(鬱蒼としているともいえる)
我が家は初詣のときはいつも細川を祀る出水神社へ行くため、こういうところではなんとなく何故か「ウチの殿(もちろん忠興のこと)がスミマセン」的な言葉が勝手に出てくる
「今後とも、肥後細川家のことも熊本のこともどうぞよろしくお願いします」って勝手に祈ってきた
そして、私が一番気になっていたのはコチラ。
ん?これは??
「和」・・・後から色々調べてもよくわからなかったのですが、「平成二十三年三月十一日」と書いてあるので、東日本大震災関連の碑と思われることに気づきました。この青葉神社も、鳥居が倒れるなどの被害があったようですね。
震災から10年以上が経過しても、決して癒えることのない傷があると宮城に来てからはつくづく実感します。みんな、土台に震災のトラウマがある。熊本ももちろんそうでしょうけど(私はそのとき熊本にはいなかったので何にも言えませんが)、“死”の規模がまるで違うという点で、時でも解決できないどうにもならない根深さがあるなと日々肌で感じます。
震災のトラウマから立ち直れていないのは若者の方が多い気がしていて、彼らは当時子どもだったわけですから、子どもの脳に刻まれるトラウマの記憶がいかに強烈かを察せる気がします。今は中年以降の年齢になっている当時から大人だった人たちは、甚大な被害を繰り返すという悲劇を起こさないよう、震災の記憶が風化しないようにと、津波の看板やパネル表示など、努めて日常生活にも震災を意識させる取り組みをしているので、若者たちはずっとトラウマの記憶を重ねている状態なんですよね。忘れてはいけないという理由も理解できるからこそ、やるせない、どうしようもないジレンマがありますね。
さて!大事な話だったので少し語りましたが、それと関係があるか不明なものの、青葉神社にはオリジナルのかわゆいお守りがあったのでつい一目惚れして買ってしまいました!その名も、和楽のお守り!!
「和」は色合いがとてもかわいいのと、「楽」は私の人生のモットーなので、選べず両方お買い上げ
そして、裏は細川からかっぱらってきた九曜紋なのー!(言い方w)
そういえば、後からWikipediaで知ったけど、青葉神社の宮司さんは片倉小十郎さんの子孫のかたなのね 政宗がかっぱらってきた九曜紋は、最終的には片倉小十郎さんにあげたとか聞いたけど、その繋がりかしら???(爆)
青葉神社には、伊達政宗に仕えた家臣たちを祀る祖霊社もありました。
伊達政宗の家臣といえば、私には推しの家臣がおります。
さて、終わって最後に東照宮だ!と歩を進めたところで、
ファッ!?
はっ?こ、こんなでかでかと推しの名前が書いてあるなら、い、行かんわけにはいかんでしょお~~!!
(最初にお伝えしたとおり、東照宮には最終的に間に合っていません)
というわけで、光明寺へGOGO
そう!私の推しは、政宗の命でイタリア・ローマまで行ったあの、支倉常長
お祭りでは毎回、出身地である大郷町から船に乗ってやって来てくれます
光明寺は、伊達家の初代当主・朝宗(ともむね)の妻・結城氏(光明寺殿)の菩提寺として、もともとは福島県の伊達市にあったものを遷してきたそうです。
常長繋がりだと、常長の嫡子である常頼の菩提寺であったことから、常長の墓もここにあるのでは?と推測されているのだそう。
いいねぇ。こういうダイナミックな人が好きだぜ。
これが案内人ルイス・ソテロの碑。最終的にはキリスト教弾圧により長崎県で火あぶりの刑に処されるという悲劇の宣教師です。
光明寺の本堂から参道を見下ろした写真です。
アメブロの記事は見事に、私の寄り道そのままを反映している・・・・・・
結局ずっとお伝えしているとおり、寄り道のし過ぎで仙台東照宮に着いたときには本殿の扉が閉じられていたのですが、東照宮はしょっちゅう行っていて何枚も写真があるので、次回の記事では以前拝殿の扉が開いていたときの写真を掲載します