そういえば、旅に出る前にこんな記事を発見しました。(画像リンクで飛びます)

 

毎日新聞ロゴ松山市:東京・新宿区と漱石を軸に協定 生誕150年向け/ 愛媛


松山市も夏目 漱石推しなんだって?うん、知ってた。てか、熊本市より松山市の方が漱石推し半端ないですよね。

 

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坊っちゃん時計とか
 

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坊っちゃん列車とか
 

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坊っちゃん団子とかね。


なんでなんでしょうね??(爆)


それにしても、熊本市と新宿区の企画の後は(そっ、その記事が何故かここにっっ!)、松山市と新宿区の企画ですか。

熊本・松山・新宿で合同企画やっちゃえばいいのにね?


漱石絵巻的な感じで
↓↓↓
第一部:『吾輩は誕生す』  presented by Shinjuku
第二部:『夏目坊っちゃん、青春を謳歌 ~金之助から漱石へ~』  presented by Matsuyama  ←ここで漱石に並ぶ松山の推しメン・正岡 子規を絡める
第三部:『情に棹(さお)さした五高教師時代』  presented by Kumamoto
第四部:『独りぼっちの倫敦塔 ~英国留学と東京帝国大学講師~』  ←パネルで軽く流す
第五部:『それから ~職業作家として生きる~』  presented by The Asahi Shimbun
第六部:『明暗 ~未完の死~』 presented by Shinjuku

とか。まぁ、それやって喜ぶのは私くらいかもしれませんが。


と、いう訳で、言わずと知れた小説『坊っちゃん』の舞台・道後にやって来ました。

 

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う~ん。これこれ。安心する空気。温泉街の力なのか歩くだけで体がホカホカ、リラックスした気持ちになりますね。
 

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ま、歩けば足湯にあたるしね。

道後はあまりに有名なので、特に情報もいりませんね(^^ゞ 最近、記事も長いですしね(;´▽`A``
私もここは完全にリラックス目的です。その割に

 

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こんな石段上ったりしていましたけど・・・(伊佐爾波(いさにわ)神社から撮った風景です)
どうもね、私ね、典型的な高いところがあったら登りたい人間みたいなんですよ。
こないだ横浜に用事で行った時も、一人なのに大観覧車乗って帰りましたしね・・・

 

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あ、伊佐爾波神社はこんな感じ。この日、奥では結婚式があっていたんですが、皆さん構わず奥に入っていく・・・(笑)
 

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中は広い回廊となっていて、参拝者と式の参列者の距離が異様に近かったです。
もうね、参拝者も参加型の結婚式ですあれは(笑)


松山は前々から相当な夏目 漱石と正岡 子規推しで、正岡 子規に至っては子規がまさか伊予の国土を形成したんじゃなかろうかと思えるほどの取り上げ方をします。市電の道後温泉駅から歩いてほどないところに
子規記念博物館があるのですが、そこでは四国伊予の国土形成から展示が始まりますからねそりゃ子規が伊予を形成したと勘違いしますよね(←しねぇよ
※ 子規記念博物館の展示は、第一部が松山市の歴史、第二部が子規の生涯という風になっています。その境界が少し曖昧だけど。。。ここは、松山市歴史博物館も兼ねているのですね。

 
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愚陀仏庵(ぐだぶつあん)1階部分(子規記念博物館内)。子規と夏目 漱石は大の親友といえる仲で、一時この愚陀仏庵で一緒に暮らしていたこともありました。ちなみに、「漱石」はもともとは子規の持っていた数多い雅号の一つで、それを夏目がもらい受けたものです。

この、二人の住まいを室内に再現してしまうという気合いの入れ具合。

松山市民の漱石子規愛は、半端じゃないのです!


 
 
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道後温泉の中にも漱石部屋(通称・坊っちゃんの間)。

あ、松山名物一六(いちろく)タルトのお店だ。(坊っちゃんの間から外を望む)
 
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私が初めて松山に来たのは7歳くらいの頃で、その頃から既に漱石と子規がガン推しされていたんですけど(あと、二番手で『坂の上の雲』の秋山 好古・真之兄弟)、熊本と松山の往復が主だった当時は、漱石のことを「どこにでもいるおじさん」と認識していました。紙の中にまでいたし・・・

熊本では好きなことも嫌なことも勉強しなければならなかったのと違い、基本的に休養で来ていた松山では、逆に記憶に定着したものが多いですね。特に歴史や文化は、幼すぎたり身近すぎたりすると、難しすぎたり意識に上ってこなかったりするものですが、その点でちょうどいい時期に松山に出会ったんですな。
正岡 子規やら俳句やらはまた、子どもでもとっつきやすいので、私が初めて親しみを抱いた歴史人物は子規だったかもしれませんね。少し年齢が上がってきたら「秋山兄弟なんてカッコいいの・・・」と目移りしたりして
笑
え、漱石ですか?漱石はね、熊本で見ることの方が多くてしかも松山時代より熊本時代の方が若干病んでるせいか、身近にいるがあまり関わりたくない近所のおじさんみたいなポジになっていましたよ\(^○^)/
最近はまた見方が変わってきて、それなりに魅力的に感じるようになってきていますけどね。


漱石の松山人評・熊本人評がそれぞれ残っておりまして
松山人に対して「上下関係を知らず、態度が馴れ馴れしい」
熊本人に対して「規律正しく好感が持てる。地域の人は親身で驚いた(東京人と比較して)」

と、病んでる割に熊本に対する評の方が高いよう(まぁ、病んだのは熊本という場所のせいじゃないからな)。
漱石も昔の人間ですからね。県民性と当時の価値観がよくわかる面白い評だと思います。
私にとってはこの松山の人の大らかさがむしろ魅力なのですが
ニコ


と、私も漱石・子規をリスペクトしながら散策していたら、今回は別の人物も推されました。

道後公園・湯築城(ゆづきじょう)跡

 
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ちらりと見える屋根の下にあるのは「湯釜薬師」
 
 
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伊予の守護・河野氏(こうのし)の築いた城と言ってどれくらいの人がピンとくるのだろう。私は全然ピンときませんでした(爆) 中世時代の水軍に興味のあるかたはわかるかもしれませんね。
河野氏も、伊予橘氏と同じく大三島越智氏の後裔です。んで、地蔵院の開基細川 頼之さんにこの城取られたり取り返したりしています。 ま た 細 川 ・ ・ ・ !

中世にできたお城なのでさすがに残ってはいませんが、当時そこにあった武家屋敷が一部復元され、

 
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家臣団居住区の屋敷復元。
当時は家臣団と上級武士の住まいがほぼ隣同士にあって塀で区切られていただけだったとか


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もちろん建物の中にも入れます!
 
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上級武士居住区は家臣団居住区より敷地が広く、江戸期などと比べるととても小さいけれど庭園や池を備えていたとか
 
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上級武士の屋敷跡から湯築城のあった山を望む。
(写真では遠くにあるように見えるかもしれませんが)実は武家屋敷と城はかなり近い距離にあったのだとか

 
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内堀と外堀の間もそれほど大きくないとか

江戸期以降には大きくなっている城下町の原型といえるものを体感できる極めて珍しい公園になっています。


信じられるか、ここ、元は動物園だったんだぜ・・・・・・


こういった城跡にちりばめられた情報や河野氏の歴史は、湯築城資料館(無料)におられるボランティアガイドさんが教えてくださって、そのかたはもうめちゃめちゃ河野氏(特に、壇ノ浦の戦いに参戦した通信(みちのぶ))推しでした。
発掘・整備されたのが比較的新しいので、松山城や道後温泉、漱石・子規・秋山兄弟の陰に隠れてしまいがちですが、河野水軍の城ということでこちらもまたすごいので、ぜひ推していきたいという風におっしゃっていました。

 
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ボランティアガイドさんからいただいた河野水軍兜おりがみ。ボランティアガイドさんはおじいちゃんが多くて、飴ちゃんをくれたりおりがみをくれたり飴ちゃんをくれたりおりがみをくれたりしましたしんちゃん半笑いまるでおじいちゃんみたい・・・いやおじいちゃんはおじいちゃんだけど(爆)

おじいちゃんからは「松山の人はちょっとおっとりしたところはあるけれど、人懐っこくて一度お話しした人とはもう友だちだよ。また来てね」と言われました。うん、知ってたニコ
またそう遠くないうちに来ることでしょう。もうすっかり肌に馴染んでしまっていますから。



そういう訳で、宇和島~松山の縦断旅を終えたのでした。読んでくれて、だんだん(ありがとう)
(*'∀`*)v
伊予弁って、愛媛のかたたちの話し方もあって、本当にかわいらしい方言ですよね。
「~ぞな、もし」という方言の響きが好きで、独り言ででも言えないかな~と思うことがあるんですけど、私が言うと熊本弁の響きが混じって「ぞなもし!」やたらキッツい表現になるんですよね。
なので

だんだん!!
リューク