熊本と新宿が推しダンディ!漱石と八雲 | 植民所在地3丁目

植民所在地3丁目

Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

タイトルどうしてこうなった・・・・・・?(戦慄)


前記事で仄めかしたので、行ってきました。

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こちらは企画展。常設展もしっかり見てきました。


夏目 漱石と小泉 八雲(ラフカディオ・ハーン)って、一般的な認知度はどれぐらいなんざましょ?
我が故郷・熊本では授業のテーマなどでも何かとねじ入れてくるような人たちで、もはや市民の生活の一部と化しているような感じです。
今回は館内の写真もないし、他県のかたの認識もよくわからない・・・ということで、純粋にレポというよりは、
彼らの簡単な経歴やエピソード、新宿や熊本の中での彼らについて、義務教育時代の記憶も掘り起こしつつ書いていきたいと思います。


左向き漱石   右向き八雲

左向きの夏目さんと右向きの八雲さん。
私は小学校時代、先生から「漱石は子どもの頃に患った天然痘のあばたを隠すため、八雲は子どもの頃に失明した左目を隠すためにそれぞれの向きでしか写真には写らなかったんだよ」と教わりました。テンネントウやらアバタやらの意味の理解や興味が追いつかなかった当時は「なんかよくわかんないけどそれぞれの決めポーズがあるなんてスゲェ!これがブンゴウってやつ!?」とはしゃいでおりましたが、漱石は正面を向いた写真もけっこうあることに高校くらいから気づき始めました。大人になったらわかるってやつだな!(爆)

彼らの熊本との接点は、ずばり旧制第五高等学校(現・熊本大学)。
彼らは五高の英語講師として赴任しました。
小泉 八雲が先任(1891~1894)、夏目 漱石が後任(1896~1900)なので二人の接点はないのですが、今回の企画といい何かとセットにされることが多いです。かわいそうに。

今回の企画の趣旨は、夏目 漱石が熊本に来て来年で120年ということで、1年かけて行うイベントの先駆けだそう。


では、まずは夏目さんの紹介から。

千円札漱石

この千円札に馴染みのある若者はいるだろうか・・・

夏目 漱石は1867(慶応3)年、現在の新宿区喜久井町に生まれました。ちなみにこの「喜久井」という町名、名づけ親は漱石の父らしいですよ。
彼は新宿に生まれ、東京で亡くなる生粋の江戸っ子だったらしいですが、その人生で松山市(愛媛県)→熊本市→ロンドンと大きな引越しを3回しています。漱石の面白いところは、松山を舞台に『坊っちゃん』を書き、熊本を舞台に『草枕』を書き、ロンドンを舞台に『倫敦塔』を書き、その後戻ってきた東京千駄木を舞台に『吾輩は猫である』を書くという、本人の軌跡が作品に如実に表れるところですかね。まぁ、私はどれも冒頭しか読んでませんけどね。

漱石は熊本では
6回転居
しており、転居先の家3軒が現存しています(うち1軒は内部非公開、他1軒は完全非公開)。漱石は結婚、第一子の誕生を熊本で経験しており、現在でも最もオープンかつ移転もせずに残っている5番目の家(内坪井旧居)は、第一子が生まれた特別な家でもあります。ま、私は地元にいた頃普通にそこで友だちとくつろいでたんですけどね・・・

展示では、五高での集合写真やテストの添削、学生への手紙、原稿の他に、3番目の家(大江村旧居、内部非公開)で畳に寝っ転がるワァ~オはぁとな恰好の漱石さんの写真(※ただの午睡です)を見ることができました。冗談はさておき、日頃から隙がなく洋服も第1ボタンまでしっかり留める神経質ぶりだった漱石の、そのように無防備な写真はとても珍しいそうです。

夫婦ともに神経症を抱える多難な家庭だったようですが、
奥さんが脱いだ着物を漱石が着てはしゃいでいたという微笑ましい(?)エピソードもなきにしもあらず。
ただ、本当に奥さんが強かったようで、熊本での6回の転居に関しても

「この家の狭さでこの家賃の高さとかマジありえない!」
「お墓が家の前にあるとかマジありえない!憑かれそうだし!」

と、さんざんに言われたからだとか。5番目の家は奥さんのお眼鏡に適ったという意味でも特別な家で、最も長い1年8ヶ月をそこで暮らしています。

また、正月に奥さんがおせち料理をこさえていたら、五高の教え子たちが訪ねてきて急に振る舞うこととなり、人数の多さもあって途中で具材が足りなくなってしまいます。そこで夫婦ゲンカ勃発。
「妻なんだからそれくらい予想して用意しとけよ!」
「あんたこそ、客が来るなら事前に言っときなさいよ!急にとかマジありえないし!」
とさんざん言い合った後、漱石が負けて家出します。
当てどもなく彷徨い、流れてゆく雲を見ながらぼんやりしていた時にフッと降りてきた構想が、『草枕』なのですって。切ない・・・このエピソードを踏まえて、『草枕』の冒頭部分をあえて引用してみましょうか。


 「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」


・・・・・・より作者の心に分け入ることができたのではないでしょうか。


展示パネルには他にも漱石の熊本人評などまだまだいろいろ書いてあったのですが、八雲くんが待ちくたびれているので次にいきましょう。


鼻かけ地蔵

※小泉 八雲本人ではありません(爆)
八雲お気にの鼻かけ地蔵(小峰墓地内)。小峰墓地は以前の記事で、宮部さんのお墓がある地として紹介させていただきました。小峰墓地は五高の裏にあり(熊大になった現在も)、八雲に限らず漱石もよく訪れていた場所だそうです。



小泉 八雲は1850年、ギリシャ(当時はイギリス領)レフカダ島に生まれました。帰化前の名「パトリック・ラフカディオ・ハーン」のラフカディオはレフカダ島のことであり、「レフカダ島に住んでいたハーン家のパトリックくん」という意味です。
「耳なし芳一」「雪女」などをまとめた『怪談』で有名なかたですね。

八雲はいろんな所に引越しているのですが、国内では松江市(島根県)→熊本市→神戸市と転居し新宿が終焉の地。
中でも、語るに外すことができない地が島根県松江市です。
というのも、八雲が日本に抱いていた「古き良き、自然豊かな桃源郷」のイメージを体現していたのが松江市で、最も愛着のある地なのだとか。八雲は来日後、松江での勤務を経て熊本に異動しますが、当時熊本は西南戦争の焼野原から軍都への発展に忙しく、そのことが八雲をかなり失望させたようです。そういう文句は西郷どんや谷 干城に言って欲しいですね!←

しかし、この「土地」への諦めがついたことで、「人」に目がいくようになったのだといいます。松江では古事記さながらの神秘や習俗を、熊本では近代化の隙間から見える従来の庶民の暮らしを体験したことが、「東洋の神秘」だけではない包括的な日本の理解に貢献したのだとか。
『怪談』を発表するのは1904年の最晩年で新宿にいる時ですが、来日当初から執筆活動はしており、熊本ではこれまでの交流を元に『停車場にて』や『知られぬ日本の面影』、夏の日の夢(ちなみにこの物語の舞台は三角西港で、このたび明治日本の産業革命遺産に登録された場所です)』など多数の作品を書いています。

展示内容については、どうしても漱石とほぼ同じになります。しかし、学生のテストの答案に容赦なく×をつけて落第させる漱石とは対照的に、間違いは一字一字訂正し、アドバイスするていねいな先生だった模様。
八雲の第一子もまた熊本で生まれており、漱石とは接点がないくせに共通点は多いです。神戸への転居を経て新宿へ移住、東京帝国大学の講師になるのですけど、お雇い外国人の排斥に遭い解任、後任に就いたのがロンドンから帰国したばかりの漱石でした。撃墜する気満々ですな、漱石(いや漱石のせいじゃないけど)。
ちなみに、彼らは墓まで一緒。(雑司ヶ谷霊園)
八雲の旧居も熊本に現存・公開されていますが、そこでも私は学生時代バリくつろいでいました。



と、いうことで、レポというよりいつもの記事なのでした。
最後に、レポらしく収穫物を上げときます!(爆)

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漱石&八雲セット featuring 坪内 逍遙(Show-you Tsubouchi)

〈セット内容〉
・江戸小紋トートバッグ -omeshiju-
・漱石山房メモ張 〈新宿歴史博物館限定〉
・明治日本の産業革命遺産 -九州・山口と関連地域- ミニメモ張
・明治日本の産業革命遺産 -九州・山口と関連地域- クリアファイル2枚
・漱石先生のメモリアルMAP下敷 -熊本編-
・新宿歴史博物館開館記念特別展図録 新宿ゆかりの明治の文豪三人展 「漱石・八雲・逍遙」(95ページ)


な、なんと、こんなに入って
_人人人人人人人_
>  1 5 0 0 円 !! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^

これは、絶対にゲットだぜ!!
ドラゴンボール



※1枚目と最後以外の画像は、全てWikipediaの記事(夏目漱石小泉八雲千円紙幣)よりお借りしています。