終わった・・・・・・昇天

 

弊社は12/28が仕事納めでした。弊社の言い伝えに「年末と年度末は必ず“何か”が起こる」というものがありますが、ええ、言い伝え通りのことが起きました。まぁ、言い伝えになるくらいだからいつものことなんですけどね!

 

仕事納めがまだのかたもいるかと思います。お疲れ様です真顔

 

 

 

仕事はなんとか納めましたが、ブログの方はこの記事だけは書かないと納まらん!というテーマがあって(逆に、この記事を書かねば2024年は始まらん!というものもあるよだれ)、そちらが私が2023年に巡った仙台伊達家ゆかりのスポットの最後になります。よって、伊達家記事はこれにていったん締めくくりに。瑞鳳殿瑞巌寺といった伊達家の超絶メジャースポットほど実はまだ足を延ばせていないので、2024年はその2ヶ所には必ず行くことが新年の抱負です!(早!)

 

 

 

伊達家記事最後を飾るスポットは、伊達政宗が宮城に来て最初の居城となる岩出山城址藩校有備館です。

 

 

 

私が岩出山に足を運んだのは9月の初めの頃で、9月に掲載したこちらの記事下矢印でも軽く触れておりました。岩出山のはなしは書けたら書くねみたいなこと言ってんな。

 

 

それが、伊達家の記事がどんどん増えていくにつれ、これは書かにゃ~な・・・という気持ちになってきました。上矢印の大崎八幡宮よりも先に訪れているので、私にとっても伊達めぐりの原点といえますね。円環的な締めになるのも2023年の締めくくりに良きでは。

 

 

はてさて。まずは恒例の地理のお時間です。

(学生時代、とても地理が好きでしたニコニコ)

 

おいしょーびっくりマーク

 

 

岩出山城(いわでやまじょう)は宮城県大崎市のちょうど真ん中あたりにあり、仙台駅からはほぼ直線距離での移動が可能です。ただ、50km近く離れているので、行く気になるまでだいぶ時間がかかりましたけどね・・・魂が抜ける

でも、そんなこと言ったら、伊達政宗なんてこの地図の左端にある米沢から車なしで岩出山まで来ていますからね。自分のヤワさをただただ実感しただけでした。

 

福島市付近を囲んでいる印は福島県伊達市を示しており、政宗が生まれる以前の伊達の本拠地だった地域です。仙台囲まれとる。

 

「岩出山」という名前は政宗がつけたものであり、それ以前は「岩手沢」と呼ばれ、地方豪族・大崎氏の居城だったそうです。宮城県の北にある県は岩手県ですが、岩手県の県名の由来となった「岩手郡(いわてのこおり)」は「岩出の森」から名が転じたともいわれており、両者には何かしらの関係がありそう。一説には、「岩手へと続く沢」或いは「岩手との境となる沢」の意味を込めて「岩手沢」と呼ばれていたのだとか。

 

そんな「岩手沢」を「岩出山」という名前に変えたのには明確な契機があり。

豊臣秀吉は天下統一を成し遂げるため、東北、九州、果ては朝鮮と征討の範囲を広げていきました。そして、少なくとも北海道と沖縄を除いた日本統一を果たすのですが、検地刀狩といった強引な方法で土着していた豪族(戦国大名)たちを締め上げるので、一揆が頻発。

私は熊本出身なので、肥後国人一揆がかなり身近ですが、肥後国人一揆と似たような時期に、ここ大崎でも葛西大崎一揆が起きました。

 

一揆の内容はWikipedia先生に説明をお任せするとして、肥後国人一揆だと佐々成政が当時の領主であり、一揆の責任を取って切腹、その後加藤清正が領主になる流れとなりますが(そして、その佐々成政の子孫については過去に記事としてまとめているので、ぜひ見てね!右矢印)、葛西大崎一揆の場合は伊達政宗が総責任者。

 

そのため、一揆の責任を取ってこの岩出山に本拠地を移す。その際の一揆の鎮圧と岩出山城の改修を担当したのが、当時は秀吉に従属していた徳川家康と。

その縁で家康と政宗が休息した地に仙台東照宮の創建に繋がるなど、世の中どう物事が繋がるかわかったものではないですね!

今年は大河ドラマが『どうする家康』だったので、宮城県では政宗と家康の関係を前面に押した展示が数多くありましたキューン

 

 

はてさて、またもや長くなりました。

ようやく写真よびっくりマーク

 

とはいっても、岩出山城は城山公園ということもあり、城址とわかる遺構はほぼほぼないような感じです。だだっ広い広場というような感じで、自分が今立っている場所に何があったのかは、案内図を基に推測する形です。

 

「岩出山城址」と書かれた石碑。

 

案内図。

 

本丸跡と思われるところ。よくよく歩いてみると、畑として使われていた形跡がありました。

 

像広場に続く道。案内図に示されるような特別な場所ではないようでした。

 

像広場。ここが岩出山城最大の見どころです。

 

政宗公立像。なんだか背後が神々しくない!?

 

 

像広場から臨む大崎の町。手前がちょっと鬱蒼としていますが魂が抜ける

 

像広場とは反対側から見た町並み。右奥にはSL広場のSLが。

 

 

今回、私が巡れたのは、本丸跡と像広場、そしてSLなど、案内図の上部の場所に限られました。本当はいろんな城跡や広場など、敷地はもっと広いようなのですが、私が訪れた数日前に台風が大崎市を直撃しており、そちらに続く石段などはどうやら崩れてしまったよう。行き止まりになっていて行くことができませんでした。

 

そして、私の神経をピリピリさせたのが「クマ注意!」の看板。こちとら着ぐるみのクマしか知らないので、この時期(9月)にもクマと遭遇する可能性があるのか、ハラハラしながら早々に城を撤退しました驚き驚き

 

 

 

そいで、有備館について掲載するスペースがなくなってしまったので、次回にします!またか!(爆)