戦国BASARAが今クールあっていたのをたまたま見ていたのですが、毛利 元就さんに一方的に親近感を抱いておりました(笑)
池上さんの番組を観ながらこの記事を書いていたんですけど、意外と昭和の後半くらいまでこの国も過激な争いが起きていたんですね。そう思うと平和になったのはほんと最近のことなのかな、という感じがします。
さて、最近、肥後勤皇党に興味のあるかたとお知り合いになりまして


この資料は、元警察官僚・佐々 淳行氏ご本人が著されたものです。まさかこういう資料があったなんて知りませんでした!
この資料は歴代佐々氏について非常に詳しく記述されており、その中に淳二郎のことがあります。そしてこの淳二郎、想像していた以上に熱く、日本に影響を与えていました。
という訳で、今回はこの記事の補足・続編として、佐々 淳二郎と愛国の心:明治政府に出仕した動機について語りたいと思います。
その前に、淳二郎の家族のこと、思想的な土壌についてちょこっと補足。
淳二郎らの先祖・佐々 成政が切腹してから佐々家は断絶、一族は散り散りになり、佐々家と肥後の繋がりはなくなりました。だのになんで百石以上の藩士になったんだろう?と実は不思議に思っていたのです。その謎を解く記述が『佐々家覚え書』にはありました。
成政の切腹後、佐々一族で熊本に残った者もいましたが、その者たちが藩士になった、という訳ではないようです。成政の後加藤 清正が熊本(当時は隈本)に入国し、彼らは加藤家に仕えますが、加藤家は二代目・忠広の時代に転封され、佐々一族はまた離散することになります。(この加藤家転封の理由がまた「えぇっ!?」って感じで、忠広の息子・光広がおふざけで「徳川幕府を倒す」という連判状を作ったからだといわれています(;´▽`A``) 松陰先生がそれを意識して肥後に接近したのだとしたら・・・と少し妄想しましたが、それはないか(/ω\)) 今度こそ佐々氏は熊本の地を離れ、出自である尾張に戻っていたようですが、加藤家の後に入国してきた細川家の三代目藩主・綱利(つなとし)の時代に、何故か熊本の地に帰って来ます。そして、細川家に仕官を申し込み、二百石を賜り、藩士となります。この一族が幕末の淳二郎に繋がるんですね。
二百石がどれだけ大きな家柄なのか実はよくわからないのですが、郡代(郡奉行)、近習(主君の側近)クラスらしく、また藩校時習館の教授を務めるなど、かなり手広くやっていたそう。
手広くやっていたが故に、ペリー来航で藩が分裂した時にものすごいことになるんです(笑)
さてさて、とんでとんで幕末、ペリー来航以来、肥後熊本の地は
時習館党(学校党とも。あえていえば家臣団が代表) = 佐幕
実学党(代表は横井 小楠) = 開国
勤皇党(代表は宮部 鼎蔵) = 尊皇攘夷
の3つに分裂します。
この分裂のしかたの特徴として、宮部さんや松田 重助は兄弟で勤皇思想、永鳥家に至っては一族全員勤皇、実学党の横井 小楠にしても婦女子孫に至るまで実学党など、家族ぐるみで思想に染まっているな~と思われるのですが、佐々家に関しては家が大きかったからか、
一族が三分割します。
一族内に佐幕がいたり、尊皇がいたり、開国がいたり攘夷がいたりして、当時の熊本人の県民性で考えるとすごいことになっていたんじゃないかな・・・・・・
佐々一族の中には藩の探索方もいたそうなので、緊張感あったんじゃないかな・・・・・・
と、物書きとしてはあれやこれやと妄想してしまうのですが、それはまぁ置いといて。
ようやく本題です。
淳二郎第一期(幕末期)についての追記は特にないので明治に飛びます。(またかよ!)
慶応3年末に釈放され、明治新政府を創設するにあたって淳二郎は召し出されます。ですが、3ヶ月も経たないうちに突然解雇されます。政府も勝手なもんです、彦斎みたく拒絶すると反乱分子と見られ、応じたら応じたで切られるし。池上さんの番組内で政府の黒い部分を垣間見た気がするのですが、そういった面では政府は昔も今もこれからも変わりようがないのかもしれないですね。
それから2年ほど、淳二郎は熊本にいたようです。彦斎と行動をともにしていたのかな?
彦斎同様に新政府に反感を抱いていたようですが、その考えが変わる事件が発生します。
明治4年の、琉球漁民遭難事件です。
これはWikipediaでは「宮古島島民遭難事件」の名で載っておりまして、文字通り宮古島の島民が琉球への年貢を納めた帰りに海で遭難した、というものなのですが、その島民たちは台湾に漂着するのですね。しかし、漂着した彼らは台湾に住む原住民に殆どが殺されてしまうのです。これに日本人は憤慨し、台湾遠征論⇒征韓論へと発展していくことになるのです。
淳二郎もこれに憤慨した一人で、「台湾を攻めるには富国強兵が必至だ」と考えるようになります。そして、淳二郎は明治新政府への再出仕を決めます。
明治7年、日本政府は実際に台湾に出兵しています。
それからの淳二郎はといいますと、宮内省に出仕し、明治天皇の側近として働いていたようで、まだ二十歳にも満たない明治天皇の 教育係 も兼ねていたそう(淳二郎はこの頃40歳前後)。
明治天皇いわく
天皇 「・・・・・・すっげえ怖ええ」
だったとのこと。けっこうなスパルタだったようで( ゚ ▽ ゚ ;) ・・・甥の友房さんの教育係もこの人されているんですけれど、友房さんの資料を読んだ時も、怖さが文に滲み出ていましたよ。
『覚え書』には、晩年の淳二郎の写真も掲載されていまして、若干おっかなかったです(爆)
しかし、細川家の教育係も務めていたとのことで、いろいろな人から非常に信頼されていたみたいです。
明治天皇も、
「一番こわかったのは高原(淳二郎)、そして一番ためになったのは高原であった」
と、遺しています。
この「高原」という姓、明治5~6年に継いでいるらしく、鳥羽・伏見の戦いで戦死した高原 正陽という人のものだそうです。高原家には鐵太郎という遺児がいて、養父になってくれないかという細川家の依頼です。鐵太郎さんは愛情をもって育てられ、立派な軍人になったそう。
すごい教育力を持った人だったんですね。
その後、明治9年に農商務省の農事参事へ。農業改革を推し進め、明治13年には「田園要録」というものを著しています。以降の活躍はあまり記述されていませんが、甥の友房が政界に台頭する時期なので、一線を退いて、彼のサポートをしていたのかもしれないですね。
財政界では高原 淳二郎の名は印籠みたいな存在感を発揮していたようで、明治22年の大隈条約(対米・独・露。領事裁判権を撤廃する代わりに外国人判事を任用すること)で友房が反対案を提出する際に淳二郎の名が添書されています。この頃はもう60歳なので、まぁそうか。
そして、明治34年7月29日午後6時31分、淳二郎は東京市麹町の自宅で激動の人生を閉じました。72歳。日本に身を捧げた一生でした。
考えてもみれば、幕末といわれる期間はたった15年しかないんですよね。
しかも、実際に佐幕・倒幕で抗争が激化したのは15年のうち後ろの5, 6年程度で。
その短期間で多数の命が散りましたが、生き残った人は5, 6年で180度変わった世界に投げ込まれてしまった。
散っていった人は美しさをもって語られることも多く、後世の人たちの心に深く刻みつけられるけれど、残された人は皆が散っていった時、自分だけ先にまだ続く時、今にどうけじめをつけて前に進むべきか。考えさせられます。
