淳二郎の足取り | 植民所在地3丁目

植民所在地3丁目

Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

淳二郎さんに関しまして、早くも追記できる事項が出てきました!


・・・あれ?おかしいなぁ、私は図書館でまったりしていただけなのに・・・?(*´σー`)


本日、お昼の休憩時間に、ゴハン食べて軽い頭の運動に図書館で本を探していたところ、こんなものを見つけました。



meji
バンッ!

この本は昭和57年頃にまとめられたもので、大政奉還直後から明治19年までの明治政府の当時の官員名簿のコピーでした。第六巻まで。
明治6~7年頃まで筆書きだったのが明治8年頃より活版印刷に変わり、またそれと同時期くらいに官員の人数が大幅に増えていたりと、当時の政府の変遷が如実に表れています。

現在でいう 公務員のキャリア官僚名簿、といったところでしょうか。


「わ~おもしろそう~o(゜∇゜*o)~♪」


そう思って何気なくペラペラめくって見ていましたら、偶然にも
あったんです、淳二郎の名が。


まぁそりゃあるでしょうね、という冷静な返しは受けつけませんが(笑)淳二郎熱冷めやらぬ中見つけてしまい、また 明治9年から22年の彼について は佐々家覚え書でも空白だったので、もしかしたらこの名簿でその間の足取りがわかるかな、と思って追ってみましたところ、わかりました!
やはりずっと明治政府に勤められていたんですね。

淳二郎がこの官員名簿に名を見せるのは 明治8年9月
高原 淳治郎の名で、宮内省に十等出仕とあります。この十等出仕がどんなもんなのかいまいちよくわかりませんが、「出仕」というのは国家公務員を指す言葉だそうです。「十等」は親任官(卿、大臣)、勅任官(大輔、少輔)、奏任官、判任官・・・と続いた11番めの等級。文官に対していわれるそう。


明治5~6年に高原姓を継いだ後は水戸へ行き、友房のサポートをしていたことがわかっているので、明治以後の空白がここまで埋まりましたね。


そして、明治10年からは宮内省八等属(判任官)、明治13年からは雑掌(側近)を務め(この年に高原 淳次郎と変わる)、明治16年に農商務省へ
なお、この名簿には名前と一緒に所属の県も記述されているのですが、農商務省への異動を機に熊本から東京へ変わっています(明治8, 9年のみ白川県。熊本県の前身です)。この時に、もう熊本には帰らないと決めたのでしょうかね。

農商務省では書記局御用掛准奏任(書記官)、記録局属三等を務めたところで、本の方が終わっております。最終巻は明治19年7月分。淳二郎この年57歳。
佐々家覚え書と少し矛盾する部分はあるものの、空白だった部分が殆ど埋まりました。本当にずっと日本政府にいたんですね。
調べ始めてすぐは最も謎に包まれていた淳二郎ですが、意外に身近なところで最も詳しく知ることができました。記録に残るところにいてくれた、というのもあるんでしょうね。
たまたま手に取った本に足取りが、というのも結構すごい確率だとは思いますが(爆)



淳二郎の名を探している間に、木戸 孝允や西郷 従道らはいわずもがな様々な名前と出逢いました。その中で「おっ!」と思ったのは、久坂 道明という名前。どうも、久坂 玄瑞の子(正確には久坂家の養子)のようです。玄瑞には妾の子がいるそうですが、その妾の子との関係はわかりません。この人は明治7年(だったかな?)に司法省に出仕しているようでした。

あと、明治9年頃までは警視庁も一括して管理されていたみたいで、警視庁所属刑事も官員録には記載されていました。「多分ないだろうな~(;´▽`A``と思いつつも、ついつい藤田 五郎さんの名を探しました(^_^;) あと、ついでに古閑 膽次も(爆
キャリア官僚の名簿ということで、彼らの名前はやはりありませんでしたね~ヽ(;´ω`)ノ

明治10年に警視庁は独立し、その分陸軍省のキャリア枠が拡充されたそうなんですけど(確かに名簿がパンパンになっています)、それは西南戦争が終結し、投入していた多数の軍人たちが帰ってきて、階級を上げたからなんだとのこと。しかし、西南戦争の主戦場となった鹿児島、熊本の出身者は陸軍省キャリアからは追放、名簿に一人も載らないというペナルティがあったのですって。(なんで熊本まで・・・長州は明治に入ってから肥後をいじめすぎな気がする(爆))


ということで、急遽更なる追記となった、偶然なる淳二郎との出逢いでした。




ペタしてね


ついき(2015/07/23)
花燃ゆが放送されたので知っているかたも多いかもしれませんが、一応補足を。
上で「わからない」と記述した久坂 道明についてですが、彼は小田村 伊之助(楫取 素彦)と文の姉・寿から生まれた子である
久米次郎のことで、久坂に芸妓との隠し子が発覚し、その子が久坂家の家督を継いでからは楫取家に戻っています。
のち、伊藤 博文主導の下台湾へ派遣され、小学校で教鞭を執っていました。現地では人望があったようですが、日本統治に反対する台湾人勢力の襲撃を受け、亡くなります。
この事件は芝山巌事件(しざんがんじけん)と呼ばれ、先の戦争などもあって1995年頃にようやく一般人がお参り目的でその地に立ち入れる空気となった、とのこと。詳しくはWikipediaにて。