松田、永鳥と語ったら、やはり三風と定めたこの人についても触れておきたいところです。

佐々ばい。

佐々 「オレばいな。」



佐々 淳二郎(さっさ・じゅんじろう、淳次郎とも。また、高原 淳二郎とも)は、私の小説におきましては風変わりで肚に一物ありそうな曲者でありながらコミックリリーフ的なキャラでもあるというようわからん奴ですが(国許にいるキャラなので出番も他の三風と比べて少ない)、史実のこの人はますますようわからん奴です。


と、いいますのも、この人に関する資料は本当に少なく、というか、恐らく一般市民が簡単に調べられるところに彼の資料は置いていないのではないかと思う部分が多々あり、謎に包まれているのです。



佐々の活動時期は非常に長く、というか二期に分けることができ、
一期・・・ペリー来航直後から八月十八日の政変まで
二期・・・明治政府
と、なります。
彼は、八月十八日の政変で逮捕され、明治維新までを牢獄の中で過ごしたことで結果的に命を繋いだ肥後勤皇党の生き残りです。こういったケースは、他に松田 重助の弟・山田 信道や神風連の太田黒 伴雄、
加屋 霽堅(かや・はるかた)などがありますが、佐々はその中でも山田とともに明治政府に召し抱えられた数少ない存在です。つまりは 国家の重要人物 でもあり、資料の少なさはそこからきているのではないかと思います。


また、周辺の資料から辿ってみると、彼どころでなく彼の一族がとてつもなくすごいということがわかってきまして、今回は彼の系譜を中心に、現代につながる佐々 淳二郎の正体について語りたいと思います。



まぁ、佐々という名字から察せる人もいるかと思うのでさらりと言っちゃいますが、彼はかの有名な戦国武将・佐々 成政の子孫です。
とはいえど、ぶっちゃけ私も佐々 成政なんて名前くらいしか知らないので、成政と肥後の関係をメモ程度に書かせていただきますと、1587年の九州平定(おもに
豊臣 秀吉vs.薩摩島津氏の戦い。あんまりよく知らないのですが、天下統一をもくろむ秀吉と、九州統一し、九州一国を独立国と認めさせたい島津氏のぶつかり合いらしく、肥後のみ取り上げてみると、薩摩との幾度かの衝突の後、制圧され、島津式の軍制に切り替えるところでした。その途中で豊臣が攻め込んできた)に貢献した成政は肥後一国を与えられます。しかし、肥後は難治であることで有名で(いわゆる、肥後の鍬形。もはやこれは県民性で、個人主義的で反骨精神が強く、もぐら叩き式に反抗者が出てくるのでめっさめんどくさい)、成政は肥後人の猛反発に遭い、失脚してしまいます(肥後国人一揆)。成政はその咎により切腹させられます。成政に直系の子孫はないそうですが、実姉の血筋が残っていて、淳二郎はその子孫ということになります。


そのためか、彼は肥後勤皇党には多くない百石以上をもつ上士で、その立場を駆使した活動をすることが多かったようです。
(宮部、永鳥、河上 彦斎など、肥後勤皇党は大半が地侍と呼ばれる人たちで構成されていました。これは、土佐藩および土佐勤皇党と似たところがあり、藩政の重要な部分を担っていたのはやはり細川とともに肥後に移ってきた家臣団たちで、いわゆる土着の者である彼らは土佐ほどひどくはないにしろ意見の反映されない部分があったらしい)


彼もまた松田、永鳥と同じく吉田 松陰とはペリー来航前後から親しく、松陰のアメリカ密航の際には泣きながら見送っています。非常に感情の豊かな人だったという記録が多くあります。

林 桜園の原道館に入門したのは1852年ですが、ここから八月十八日の政変での逮捕、明治維新に到るまで、目を引くような彼の行動記録は見当たりません。ただ、やはり藩の役人や幕府の要人を相手とした活動をしていた模様。宮部らでは門前払いの訴えも、淳二郎が行けば話だけは聞いてもらえることがあったようです。




とんで明治(とびすぎでごめんなさい)、彼は明治政府に召し抱えられ、宮内省(現・宮内庁)農商務省(現・農林水産省および経済産業省)に出仕します。
しかし、政府の役人であった時期はそう長くはなかったようで、彼は故郷熊本に帰り、甥の教育係として国粋主義を叩き込みます。



その甥というのが



佐々 友房 (さっさ・ともふさ) です。



佐々 友房はもしかすると熊本でしか有名人ではないかもしれませんが、それを了承いただく形で紹介させてもらいますと、


この人は
同心学舎設立 (現・熊本県立済々黌高等学校)
濟々黌附属女学校設立 (現・私立尚絅中学校、高等学校)
立憲帝政党 紫溟会(しめいかい)結成
  時習館党(藩時代の佐幕派)を軸とした政治結社で、国粋主義を主張したもの。自由民権運動に対抗する政府支持政党で、このことからも肥後の尊皇攘夷志士が必ずしも倒幕を目指していたとは限らないことがわかると思います。
九州日日新聞発行 (現・熊本日日新聞)
・ 熊本国権党 衆議院議員
※ 前身は紫溟会
をやった人で、現代の熊本に直結する影響を与えている人です。

なお、ここで面白いのが、実は、
これらすべて、組織の背景が幕末の尊皇攘夷と変わっていないのです。
なかなか長い話になって申し訳ありませんが、肥後藩は佐幕でした、しかし尊皇攘夷の土壌でもありました。この複雑な土壌については、せっかくだからこのお盆期間中、別個
『彦斎と肥後藩の絆』という記事を書こうと思っているので、そちらに詳述したいと思います。
この佐々 友房という人は 明治の終わり まで生き、その期間 熊本はこの尊皇攘夷の影響を受け続ける ことになるので、けっこう大きな話だと思うのですが、それを許す土壌が熊本にはあったということですね。藩の佐幕派と組んでそういう組織をつくったということは、佐幕派の中にも尊皇攘夷に肯定的な者がおり、尊皇攘夷派の中にも佐幕派(藩)を慕う者がいたことの証明でもあるかと思います。




はてさて、系譜に話を戻したいと思うのですが、ここから一気に現代にとびます。
この佐々 友房さん、三男に佐々 弘雄(1897-1948)というかたがいます。ここからは個人の特定になってしまいますが、Wikipediaにも載っているような情報なので別に記述してもいいかと。この佐々 弘雄氏の二男が初代内閣安全保障室長を務められた佐々 淳行氏なのですね。



つまり、佐々 淳二郎の正体とは


 

 成政の姉 ------------佐々 成政

      ┃

佐々 陸助 (兄) -------- 淳二郎 (弟)
      │
      │
  友房 (次男) ・・・衆議院議員
      │
      │

  弘雄 (三男) ・・・参議院議員
      │
      │

佐々 克明 氏 (兄) ----- 紀平 悌子 氏 (姉) ----- 佐々 淳行 氏 (弟)
(兄:ジャーナリスト)       (姉:元参議院議員)



見事な政治家家系!(  ゚ ▽ ゚ ;)



そう、佐々 淳二郎の正体は、佐々 淳行氏の曽祖父の弟でした!呼び方が、ない!

ちなみに、淳二郎からみた淳行氏は曽姪孫(そうてっそん)というそうです。

わたくしとしましては、古高 俊太郎の系譜なみにビックリ でござぁますよ。


まぁ、名前があまりにも似ているので、何かあるだろうとは思っていましたけどね。
ただ、ここまではっきりとした系譜が書けるとも思ってはいなかったのでそれにビックリ・・・



というか、勝手に系譜を書いてすみません・・・佐々氏・・・




そういう訳で、現代でも日本国のキーマンであり続けている佐々 淳二郎と彼の一族について語ったのでした。

どんどん文が長くなっていくな、記事・・・・・・





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