るろ剣映画観に行きたいです!(〃∇〃)

河上 彦斎は今旬といってもいいくらいですね。

Wikipediaにある河上 彦斎の記事も、彼の詳細な人生が追記されてただの人斬りのイメージが多少払拭されております。非常にきれいにまとまって、私が書くより断然見やすいので、リンクを貼っておきます。この記事で彦斎のことがわからなくなった人は、ぜひWikipediaのページへGo!(笑)

リンク先は、こちら→
河上彦斎 - Wikipedia


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多分、これまでの記事の書き方で滲み出ていると思うのですが、私はけっこう彦斎びいきです。
というか、恐らく判官びいきなのだと思います。
彦斎に関してはろくな書き方をしている本がなく、特に司馬御大はこれでもかというくらいこき下ろしています(この人は尾形さんの扱いもひどいので、最初私は司馬さんは熊本人が嫌いなのかと思っていました)。史料を見れば、とても片っ端から人を殺していったような人には思えないのです。年表を照らし合わせるだけでも、彦斎がバンバン人を殺せたのは(爆)、池田屋事件後から禁門の変前までと、期間が非常に限られてきます。ま、それで現実人斬りとして当時名を馳せたのだから、どう転んでも彼は間違いなく幕末どころか日本史上最強の暗殺者です。

彦斎への入口はたいていみんなそんな感じなので、彦斎の行動を調べていくと途中で一貫性のない部分が出てきて、大半の人が途中で投げ出します。脱藩したくせに肥後に戻ってきたり(しかも奇兵隊vs.肥後藩の戦闘中に)、維新志士のくせにいざ明治維新になるとすねたりまったく、意味がわかりません。そんなことだから、長州人を助けて長州人に殺されるんですよ!(爆)

しかしこれ、粘り強く紐解いてみますと筋はそれなりに通っており、自分は尊皇でありながら佐幕の藩を捨てられなかった理由というものが見えてきます。今回は、彦斎の行動の矛盾や長州藩と肥後藩の板挟みにならざるを得なかった所以である彦斎と肥後藩の絆について語りたいと思います。



「彦斎は、何故肥後を捨てなかったのか?」



私が初めて彦斎の資料に触れた時に抱いた疑問です。もっとも、別に興味はなかったので、それから10年くらい思い出しもしなかった疑問ですが、小説を書くうえでこの矛盾はめちゃくちゃ邪魔なので考えてみた、というところです。
土佐は捨てたじゃないか、というのが次に思ったことでした。私は、肥後もっこすと土佐のいごっそう人斬りとその師匠(つまり、岡田 以蔵と武市 瑞山、彦斎と宮部)、藩内の泥沼化、そして藩の基本システム(支配層が家臣団、志士は土着人)と、土佐に肥後との共通点を多く感じていて、土佐を比較対象とすることが割とよくあります。
土佐は、脱藩者の非常に多く出た藩です。代表的なのは、坂本 龍馬ですね。上士と郷士制度とかいうやつで、あんまりよく知らないのですが、ちょびっと調べただけで「うわぁ・・・」ドン引きするレベルでした。
ありゃ、藩捨てるわ。


一方、肥後は 別の意味で血なまぐさかった です。彼らの争いは制度的なものではなく思想的なもので、すなわち攘夷か開国か、或いは幕府にすべてを委ねるかの争いです。その争いは時に 同胞を殺し合うレベル で、彦斎がもし佐久間 象山以外に人を殺してるんだったら確実に藩内ででしょう。永鳥のクレイジーさなんてかわいいものですね。

肥後の引き倒しもここまでくると藩なんて愛せないレベルですが、不思議なことに、彦斎のみならず肥後の志士の殆どは脱藩の道を選びません。八月十八日の政変で、逮捕か、もしくは脱藩かという 究極の二択 になって初めて脱藩を選ぶ人が出てきます。苦渋の脱藩です。愛している藩を捨てなければならないそこが、土佐の志士とは少し質の違うところで、そもそもどうして同郷の者を殺してまで藩の中で生きたかったのかというと、藩を守りたかった、幕藩体制を否定していなかった 部分が肥後の志士にはどうもあるようです。ふふ、佐幕とあまり変わりませんね。だから厄介なんです。


肥後は尊皇攘夷の土壌でもあった、と佐々 淳二郎の記事でも書きましたが、攘夷はともかくとして尊皇の地ではありました。だって、ほら、おとなり宮崎県は日本神話の地。熊本も非常に神道信仰の強い土地で、霊山阿蘇山がどどんとかまえています。九州の尊皇意識の高さは、水戸学の影響よりむしろこっちでしょうね。真木 保臣や平野 国臣など、神官が割といたのが水戸の志士との違いのような気がします。
九州は幕府の参入も遅かったので、完全に 天皇 > 幕府 の地域であることは誰もが想像できるところでしょうが、その他にも、
関ヶ原の戦いで辛酸をなめた藩があるので(長州藩毛利氏、薩摩藩島津氏)、その二藩の間に福岡藩黒田氏、熊本藩細川氏と幕府への忠誠が非常に高い大名を配置することで毛利と島津の動きを封じる構図になっていました。毛利は幕府が何でも奪ってしまったので吉田 松陰が現れるまでは脅威ではなかったのですが、その間島津は琉球、日向(宮崎)へ攻め入り、いつ北上してもおかしくない状態だったので、細川はこれを封じるのに躍起になります。海の向こうの敵よりも、目の前の敵ですね。


強い尊皇思想強い幕府への忠誠これらが同居するようになる肥後熊本(と、筑前福岡)ですが、細川にはまだ課題がありました。肥後人です。彼らは以前、佐々 成政を潰しているので、細川は力で押さえつけるのではなくすべてを受け入れることにしました。肥後人が大事にしている加藤 清正を細川も大事にし、法を整備して農民たちの不満を除きました。更に、身分に関わらず有能な人物をどんどん藩政府に登用していくようになります。ペリー来航前までの細川の姿勢も、こういうことになります。


細川 「尊皇攘夷?うん、いんじゃない?」


肥後人に根っからの尊皇攘夷志士が多いのはこのためです。肥後人のもともと持つ思想や信仰を受け入れ、肥後人の信用を勝ち得た細川は、学問に力を入れ、武士道教育をガンガン推進していきます。そのため、尊攘思想を持ちながら藩(幕府)への忠義も持つ、神仏習合ならぬ朝幕習合みたいなの起こっていました。藩の中枢からも、土着していくうちに「尊皇攘夷っていいじゃん」っていう人が出てきます。肥後藩家老などは代々尊皇攘夷に共感的で、家老の茶坊主を務めた彦斎はかわいがってもらえたようです。それがまた、細川への忠誠を促したみたいです。


しかし、ペリー来航を機にこの均衡は崩れます。尊皇攘夷と佐幕開国、どっち!?という、「私と仕事、どっちが大事なの!?」的な展開になり、肥後藩は大荒れに荒れます。神仏分離みたいなもんです。神仏分離政策は何も、明治に始まった訳じゃないんです(笑)
細川はむろん佐幕です。しかし、それ以下はわけわかんない感じになります。更に、地侍である横井 小楠が他藩に求められて大出世します。家臣団の嫉妬の炎が燃え上がります。もうめちゃくちゃです。
この家臣団というのが厄介で、たとえてみるならば、土佐藩の吉田 東洋或いは山内 容堂をドイツのヒトラーとした場合、肥後藩の家臣団は大日本帝国の軍部みたいなもんです。そして藩主細川は天皇みたいな感じです。なので、武市 瑞山みたいに吉田 東洋を暗殺して一時的にでも藩を牛耳れるという風に肥後はなっていなく、しかも彼らは嫉妬だけで人を殺そうとします。細川 忠興なみですね。結局、佐幕vs.攘夷vs.開国vs.嫉妬忠興でさえまっつぁおな内部抗争となるのです。この肥後の複雑さは司馬御大でさえ匙を投げるレベルで、藩内はもはや敵だらけ、土佐とは別の意味でいつ斬られるかわからない状態となるのですが、それとは別に、肥後の精神を大事にしてくれた、忠誠を誓う藩主がいたので、彦斎は結局、脱藩はするも藩を捨てることができませんでした。


一方、肥後藩ですが、第二次長州征討で長州奇兵隊を相手に圧倒した力を見せました。この時の指揮官が、家老の長岡 是豪(ながおか・これひで)で、彼の父もまた、吉田 松陰の友人でした。この人の茶坊主をしていたのが彦斎で、彦斎のことをよく知り、信頼しています。もともとこのかたは長州への出兵には反対していたそうで、肥後と長州が戦うことに相当な葛藤があったようです。結局、九州諸藩が戦っているのを遠目に見ているだけの幕府に憤慨、しょせんは外様だからかとこの時幕府を見限ります。肥後兵は撤退。彦斎はそれを知らず、家老と同じ思いを抱き、
戦いを止めさせるべく帰藩します。


明治に入り、彦斎は出獄を赦されます。と同時に、明治政府の参与となった藩主の弟・長岡 護美(ながおか・もりよし)に従い、京へ出ます。護美は八月十八日の政変の前に京都御親兵の出兵があった際も従った旧知の存在で、彦斎を人斬りと知っても態度を変えなかった人です。彦斎は、是容(これかた、是豪の父)→是豪→護美と仕え、そのいずれとも信頼関係を築いていたのですね。
ちなみに、護美は明治政府への出仕の声がかかった時、藩主の弟であるにも関わらず家臣団から妨害を受けています。これもまた、嫉妬です。彼らより、身分の低い地侍の方が忠誠が高かった、ということでしょうか。我が故郷ながら、よくわかりません。



と、いうことで、家臣団よりも強い絆をもつ河上 彦斎と肥後藩について語ったのでした。
でも、それ以外の矛盾が理解できないかたもいると思うので、それは明日(今日?)の『同志と友』
の記事にて。(記事が増えた・・・)




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