(本ブログではこの記事の後もミャンマー情勢を継続してフォローしています。関連記事は以下の通り)

 

 

 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Burma_Thailand_Locator.png

Ahmetyal, Public domain, via Wikimedia Commons

2月1日、ミャンマーでクーデターが発生し、国軍が政権を掌握、国家指導者のアウンサンスーチーを含む政治家を拘束したと伝えられました。2020年11月、同氏が率いるNLDが選挙で圧勝したことに対するもので、当地では連日、スーチー氏の解放等を求めるデモが発生しているとのことです。

 

 


個人的に、この問題の面白いところ(と言ってしまっては不謹慎ですが…)は、ミャンマーでデモを行っている市民が、香港、台湾、タイ等で同じく権威主義と戦っている市民と連帯感を見出していると報じられているところです。

 

 

 

私はミャンマーと上記の各国では経済・社会の発展段階はかなり異なっている(例えば、ミャンマーで国営系以外の新聞(日刊紙)が認可されたのは2010年代に入ってからだそうです…)と思っていたので、少し驚きがありました。まるで、香港からミャンマーに至る一帯が、中国を中心とする権威主義勢力と民主主義勢力との間の戦いの最前線ですらあるかのようです。

 

一方、クーデターを実施したミャンマーのミン・アウン・フライン国軍総司令官がタイのプラユット首相(同国で2014年にクーデターを率いた元陸軍司令官)に支援を要請した、との報道もあり、軍事政権側でも連携を模索する動きが見られます。

そこで、今回はこのクーデターについて、少し思いついたことをメモしておこうと思います。また、上記のような連携が見られることと、日本語で利用可能な情報が比較的多いこともありますので、数年前(2014年)に同じくクーデターを経験し、2019年に民政に移行したタイの状況とも比較してみようと思います。

 

 


特に自分の経験やバックグラウンドに基づくものでもなく(特に、アメリカから見ると東南アジアは遠く感じたものです…、日本から南米を見るのに近い感じかもしれません)、不正確なところや的外れなところも多いかと思いますが、どうかお付き合いください。

クーデターが起こる理由(一般論)

ミャンマーに限らず、大陸に所在する国においては、民主主義がなかなか機能しないことがあります。その理由の一つとしてしばしば見られるのが、そもそも国を構成する国民のバックグラウンドがあまりにも多様過ぎることです。そうした場合、民主主義・自由主義的なルールの下で国家を運営すると、場合によっては内紛や独立運動等が発生し、国がバラバラになってしまうことがあります。

 

これは東南アジアではなく中東についてのセミナー配信ですが、有名な「サイクス・ピコ協定」をとっかかりに、中東における国家形成の難しさが分かりやすく説明されています。

そうした懸念があるような国では、権威主義的な国家形成が行われるケースが特に多く見られます。また、特に途上国では、強権的に秩序を維持する上で軍が大きな力を果たすことも多いです。

ミャンマーのこうした不安定な国家形成の象徴として、語られるのがロヒンギャ問題を始めとする少数民族問題です。

 

 
  • ロヒンギャ問題は、調べてみるととても難しい問題ではあるようです。ロヒンギャは西部ラカイン州に居住する(していた…)ベンガル系イスラム教徒の民族集団であり、肌の色も、言語も、宗教もミャンマー国民の多数派とは異なります。こうした民族集団を自国の国民の一部として統合していくというのは、どのような国であっても容易ではないでしょう(だからと言って、あの圧倒的なジェノサイドが許されていいというものではないと思いますが)。
  • さらに、ロヒンギャのうち少なからぬ割合が、イギリス植民地時代(さらには第2次大戦後)に移住してきた人たちであるといわれているそうです。ミャンマーは19世紀以降、イギリスに植民地化されて同国のインド植民地と統合されていました。1960年代、ミャンマーの当時の軍事政権は、植民地時代以前からミャンマーに居住していた民族のみをミャンマー国民と認め、それ以外の中国系・イスラム系等の移民を排斥しました。ロヒンギャもそれにより、「ミャンマー国民ではない」という括りにされ、今でもミャンマー国民の間でロヒンギャに対する感情は良くありません。
  • しかし、ミャンマーの難しいところは、ロヒンギャのような歴史的な問題が極めて根深い民族集団以外の少数民族との間でも、多くの問題を引き起こしているところです。ミャンマー国民に占めるビルマ民族の割合は6-7割程度で、他は少数民族とされているようですが、同国では多くの少数民族集団が自治を求めて武装闘争を展開し、今になっても中央政府との間に停戦合意が形成されていない少数民族もあるそうです。また、ロヒンギャ以外のこうした少数民族の中にも、未だにタイ等の隣国に避難民として滞在している人も少なくない(しかも10万人とかそういった単位で)そうです。




https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Myanmar_Administrative_Divisions.jpg
CWE2 User from Central Intelligence Agency (CIA)., Public domain, via Wikimedia Commons

ミャンマーの行政区別の地図。「State」となっている地域は少数民族が特に多い地域で、それぞれの地域の主要民族の民族名が冠されています。

こうした少数民族の問題が直接、クーデターの引き金になったわけではないようですが(もしそうであったとしたら、流石にもう少し国軍も支持されていたのではないでしょうか…)、ミャンマーは建国以降、一度も内戦が絶えたことがないようでないようでもあり、軍が強い存在感を持つ一因とはなっていたのではないかと思います。また、民主政権期には集会・結社等の自由が認められ、言論が活発になったことに伴い、国内の反ロヒンギャの世論はむしろさらに高まっていたようです。こうした背景もあり、アウンサンスーチー氏の政権はロヒンギャに対するジェノサイドを止められなかっただけでなく、他の少数民族の問題にもかなり苦心していました。


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Thailand_regions_map.svg

Globe-trotter, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons
タイの地域別の地図。最も貧しい東北部「イーサーン地方」と豊かな東部・バンコク周辺部と比較した所得格差は6倍にも及ぶ。2001年、選挙で勝利したタクシンは、北部チェンマイ出身の実業家であり、こうした地方の経済振興をアピールして当選しました。


タイの場合も、ミャンマーほどではないにせよ、少数民族は多く、歴史的には問題も多く生じてきたものと思います。しかし、現在は比較的混血も進んでおり、また植民地化を経験しなかったことから一定のナショナリズム(大タイ民族主義と呼ばれ、タイ民族でなくとも一定の価値観を共有していればタイ国民と認める考え方)も醸成され、少なくともミャンマーのように国外に多数の避難民が流出するような状況ではないものと思います(深南部と呼ばれるマレーシア国境近くのマレー系イスラム勢力の問題を除く)。一方、タイではタイ民族(シャム人)の間でも元々文化的・社会的差異が比較的大きく(例えば、同国第2の都市であるチェンマイの周辺はビルマの影響下にあった期間が長く、独自の文字を有するなど独自文化が発展、近代に入ったころには通訳なしではバンコクからの来訪者とは話が通じないほどであったそうです)、結果として今でも地域間の経済格差が大きな問題となっています。特に豊かな東部・バンコク周辺部と、最も貧しい東北部の間の所得格差は6倍にも達しており、それが社会問題を引き起こしているということです。

タイの民主化の実験

タイにおいて、1990年代は民主化の実験とも言える時期でした。1990年代、少数政党が乱立して政府が機能不全を起こした反省から、大政党が成立しやすいように選挙制度を改正し、結果として2001年の選挙でタクシンが首相に就任。同氏は北部チェンマイ出身の実業家であり、「CEO首相」のキャッチコピーに象徴されるトップダウンの政策スタイルで、貧しい地方の経済振興を軸足に置いた経済政策を実施し、大きな支持を集めました。

 


しかし、トップダウンゆえに政治的な調整を尊重しない政策スタイルや、汚職の存在、また政策的にもうまくいかなかったものもあり(例えば農産物の買い上げ制度、深南部と言われる地域のマレー系イスラム反政府勢力の鎮圧、2011年の洪水への対処、等)、同氏の政権は都市部の市民や軍を中心とする既得権益者層の反発を招き、同国は2006年と2014年の2度にわたるクーデターを経験。2014年のクーデターの後、軍事政権が長期に渡り政権を掌握、また市民の間でも「赤シャツ(タクシン派)」「黄シャツ(反タクシン派)」による激しいデモ活動が相次ぎました。

最終的には、2019年の総選挙で軍事政権派の与党が政権を奪取。強い政党を作らないようにする選挙制度の改正、タクシン派を始めとする野党政治家に対する度重なる訴追による党の解党、党員の公民権(被選挙権)停止等の徹底的な弾圧の末の勝利でした(しかも選挙の結果、第1党はタクシン派の野党だったが、第2党である現与党が連立により政権を奪取)。タイではこれに反発するデモが現在でも続いているということです。また、タクシンや妹のインラックは未だに事実上の亡命生活を続けており、祖国の土を踏むことはできていないそうです。

 

タイは昔からクーデターが多い国ですが、同国では近代以降、権力を掌握すべきと一般的に考えられている主体はおおむね、以下の3つと言われているらしく、それぞれの力関係は時代により変化してきました。

  1. 国内で最も大きい近代的な官僚組織であり、高学歴エリートが集まり、実力主義が浸透した軍(及びその周辺の既得権益者層)
  2. 民主主義に基づく政府
  3. 伝統的規範を象徴し、国の近代化に多大な貢献をした王室

同国が1997年に制定した憲法(タイではクーデターの度に憲法が変わります)は同国史上で最も民主的な憲法であったと言われ、その頃はタイでも民主主義が強い正統性を持っていた(上記②が比較的強かった)ようですが、今回は民政移管まで長い時間を要し(これまでは軍事政権による選挙管理内閣は1年が通例だった)、また2度のクーデターに加えて「司法クーデター」とも言われるような野党の弾圧が重なったところを見る限り、タイでも権威主義的な色彩は強まっている(上記①が強くなっている)ようです。


ミャンマーも同じ道を辿るのか?

ミャンマーは民政とは言っても、議会の25%の議席を常に国軍が有し、中核的な官庁を掌握し、さらには非常事態には国軍が合法的に政権を掌握できることが憲法で定められているという、タイよりもさらに権威主義的な国です(さらに言えば、上に記載したロヒンギャ問題についてスーチー氏は国際的な批判にさらされましたが、そもそも民政政権には国軍を指揮し、ジェノサイドを止めさせる権限すらありませんでした)。現在、国軍はアウンサンスーチー氏を微罪で拘束し続けており、将来の選挙による権限移譲を約束しているものの、その前に同氏及び同氏の政党(NLD)に対しタイのような(あるいはそれよりも過激な)弾圧を行う公算は高いものと思います。さらに、国軍はタイの場合と同じく、選挙制度を変えることも検討しているようです。

しかし、タイと明らかに違うのは、国軍のあまりの人気のなさです。タイの軍事政権は経済格差に伴う政治対立に根差しており、タイではタクシンに反発する「黄シャツ派」のデモも多く行われ、その(選挙では勝てるほどではないものの人数も多く、しかも高学歴層も多い)中には「汚職の話が絶えない民政政権より、短期なら軍事政権の方がいい」といったようなことを考える市民も少なくなかったようです。しかしミャンマーでは、例えば「アウンサンスーチーの選挙不正に反発するデモ」といったようなものは全く聞きません。この状況で、タイと同じように市民運動を抑え込み、民政移管して期待通りに軍事政権が選挙でも勝利する、というような展開になるとは、傍目で見る限りには思い難いものがあります(そのタイですら、そこに辿り着くまでに2度のクーデターと15年近い月日(1度目のクーデターから数えて)を要し、今でもデモは収束していません)。

一方、こんなことを言うと運動の盛り上がりに水を差してしまうような気もしますが、タイの情勢と比較してみると、ミャンマーの市民が民主主義というものにどこまで信頼というか自信を持っているか、というような疑問は、個人的にはややぬぐえないものがあります。タイではタクシンは放逐されてしまいましたが、現在のデモはタクシンとか「赤シャツ」と言ったような背景を離れ、純粋に民主主義や法の支配の貫徹を求める運動として継続しています。

 

 

冒頭にも述べた通り、ミャンマー市民はタイにおけるデモに親近感を持っているようでもあり、ミャンマーの市民も同じような信条を持ちつつデモを行っているのではないかと想像(ないしは期待)はします。しかし、一方で、今はアウンサンスーチー氏が圧倒的な支持を集め、そのカリスマ性で国を統合しているような状況であることもまた、否めないように思います。そうだとすると、将来、同氏が退陣した(又はあまり想像したくはありませんが、させられた)後、ミャンマーの民主主義がどのような道筋を辿るのかは、個人的には(ちょっと意地悪ですが)全く想像がつきません。

 

また、タイのこうした動向に影響を与えている要素としては、同国の経済成長というのは外せないと思います。経済成長に伴い勃興した起業家が政界に進出したり(タクシンもそうですし、こうした政治家はタクシン以外にもいます)、また政治的に焦点となった経済格差も、こうした経済成長の不均衡に伴って生じた側面もあるでしょう。現在の運動はそれらとはまた別のところ(学生、都市部中間層・高学歴層等)から生じているようでもあり、こうしたデモはタイではクーデターと同じぐらい伝統があるようですが、経済成長に伴いデモに参加するような階層が拡大していることも考えられます。経済発展の程度はタイとミャンマーではかなり異なっていると思いますし、他にもタイとミャンマーの相違点は勿論、沢山あると思いますので、今後の展開を見る上でも気を付けておきたいと思います。


外交はどうなる?

ミャンマーのクーデターの後、同国の外交的な立ち位置がどうなるのか?中国の影響下に入ってしまうのではないか?というような議論は(私も含め野次馬的な興味もあり)盛んになっています。タイもクーデターの後、民政移管されるまで、アメリカ等との関係は冷え込んでおり、その期間には中国に接近する傾向が見られました。しかしその間、同国はインフラ・プロジェクトや軍事演習等の交渉材料を巧みに用い、自らの立ち位置を確保したそうです(もっとも、プロジェクト自体はその後、停滞しまくっているようですが…)。

 

ミャンマーでも同じようなバランス外交ができるのか、全く分かりませんが、個人的には少々疑問なところもあります。「中国一辺倒になってしまうのでは」というような懸念も聞かれますが、同国はかつての軍事政権時代も必ずしも親中ばかりではなかったようです。一方で、国軍は昨年の選挙でもこのような敗北を喫するとは思っていなかったようでもあり、野次馬的な言い方ですが「そんな目の前も見えていないような政権が、ましてやバイデン政権に切り替わって一発目のこのタイミングで、外交の海を泳ぎ切っていけるのだろうか」というような懸念は禁じえません。

 

一昔前とは世界情勢も変わり、「世界は長期的には民主主義の方向に向かっていく」というような確信は到底持てないような時代になりました。ミャンマーの将来がどうなるか、全く見通せませんが、同国の国民が不幸になるような帰結は免れるよう、願いたいものです。