【再アップ】
災害に備える非常食VOL.1
被災地、飢餓からのリカバリー
大きく分ければ「雑誌のライター」もマスコミ業界の仕事だが、新聞やテレビ、週刊誌など"報道"の記者とは職域が全く違う。ライターは災害や事件の直後、現場に飛ぶことはめったにない。フリーランスでそういう仕事をしている人の肩書は「ジャーナリスト」や「ルポライター」だったりする。
私が東日本大震災の後、被災地のひとつ、女川町に行ったのは3年後、2014年の初冬だった。復興はだいぶ進んでいたが、まだむき出しの地面ばかり。JRの石巻線も復旧していなかった。
きっかけは、WEBで拾った、ある栄養士さんの手記だった。漠然と「被災地は大変だろう」とは思っていたが、「普通の食事がとれるようになるまで、これほど時間がかかるのか」「栄養バランスが整うまで半年もかかるのか」と、改めてショックを受けた。女川に行って、体験者から直接当時の話を聞きたいと思った。
以下は、2015年に掲載された記事をベースに、新たな資料などを合わせた、純粋には「転載」とはいえない文書だ。個人名はイニシャルに変えた。情報を必要とする人に届いてほしいと願っている。
災害に備える非常食
被災地、飢餓からのリカバリー
あまり大きく報道されていなかったが、東日本大震災で被災した地域では、少なからぬ人が食糧難から便秘や肌荒れ、生活習慣病の悪化などに悩まされ、回復まで長い時間がかかったという。当時の栄養事情を振り返り、私たちが学ぶべき「非常時の食」への心構えを、自らも避難所生活を送った保健師と管理栄養士に聞いた。
Vol.1 食糧配給の「平等」ルールが壁に
災害時にはガスや水道が止まり、卵や肉、野菜などの生鮮食品が供給されるまでに何日もかかることがある。東日本大震災で津波の直撃を受けた宮城県牡鹿郡女川町では、さらに備蓄食糧まで流されてしまった。
「米軍ヘリが毛布やテントなど最初の援助物資を投下してくれたのは、被災から3日目。育児用ミルクが届いたのは4日目でした」と話すのは、女川町役場の管理栄養士のKさんだ。
津波によって、女川町と県内の他エリアをつなぐ陸路が分断され、物資を運び入れる方法は空路しかなかった。Kさんを含む被災した約9000人の町民は、市内25ヵ所の避難所で暮らさざるをえなくなる。
「私やKさんがいた女川町総合体育館には、津波直後に2000人、3月末頃には800人ぐらいが避難していました」と、保健師のSさんも当時を振り返る。
ほとんどの人は自宅から防災用品などを持ち出す余裕もなく、着の身着のまま。被災エリア外からの援助物資が届かないなか、総合体育館では翌日から、町役場による1日2回の食事配給が始まった。
「最初に配ったのは、“肉団子”とは名ばかりの肉のカケラが数個浮いただけのすまし汁。それでも全員に行き渡らせるのが精一杯でした。港町の女川には水産加工工場が多く、冷凍や塩蔵の魚が残っている倉庫があり、その魚の提供を受け、汁ものにしました」(Sさん)
自治体が行う食糧供給には混乱を避けるために厳格なルールがある。
「援助物資、町役場の職員や自衛隊が調達してきた食べ物は、避難所にいる人“全員に公平に”配らなければならないのです」(Kさん)
つまり、60人分の食糧が届いても100人いる避難所では配れない。人数が少ない避難所に回すしかない。
「テレビなどで報道される”炊き出し”は基本的にボランティア活動なので、供給者が持っている食材をすべて配布し終わったら終了します。そこが自治体による食糧供給とは大きく違うところです」(Sさん)
大規模な避難所の方が「なにごとにも有利だろう」と思い込んでいたが、逆になるパターンも多い。「○○○が足りない」などの希望を出しても、供給数が足りなければ避難者への配布を断念しなければならないこともある。
Vol.2「被災3日目は、チーズ蒸しパンとバナナのみ」へ続く。