ヨミガエリの旅 その1 〜美保関から出たものは・雲津諏訪神社編 | かんながら

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旅の記録です

 

そして、東京 〜わたしの思いがつくる未来からの、つづき。

 

実は1週間前からサインは来ていた。

スケジュール登録してあった、「雲津諏訪神社 かんから祭」。

 

昨年12月に島根 美保神社の諸手船神事に行ったとき(ミホのススミに誘われて 〜美保神社の諸手船(もろたぶね)神事)、Googleマップで気になった「雲津 諏訪神社」に行った。

そして、そこには源平合戦を模した祭があることを聞いて(救い主は現れるか 〜「次のターム」に行く前に)、

興味を持ち、その日程をスケジュール登録していたのだ。

 

しかも調べたところ、現在は5月4日の朝に行われる雲津 諏訪神社の祭は、昔は5月5日のこどもの日に行われた、という。

そして、その日の未明(朝2時半)には、美保神社で「神迎祭」という神事があるらしい。

 

神を未明に迎える?

しかも、この神様はどなたなのかははっきりしていない。

 

そしてそのあとに行われる、

「西の負け〜東の負け〜」

 

両方負ける、源平合戦。

 

謎が多すぎる。

 

せっかく教えてもらえたから動画を貼っておこう。

こういうの。

 


 

 

でも、トルコに行ったばかりだし、ミホススミと狼煙(ノロシ)で関係がありそうな大神島でも

伊勢平氏おじさんとの関係とそっくりなことがおこり、「御用」をやめて次に行こうって思って放置していた。

 

だってこういう旅は、まちがいなく「御用」だもん。

 

 

しかも、東京の伊勢平氏おじさんに対応する、島の小ニーニーは、「源氏」だっていうし。

わたしの今、目の前の現実にある「平氏」と「源氏」。

 

 

わたし、もう次のステージに行くんだから。

 

 

しかし、当日、松江空港行きの始発に乗っていた。

 

その日は岡山から上京している長年のネット仲間と「帰る前にもう一度会いましょう」って約束していたのに。
 
こうしてドタキャンになっても、「美志摩ちゃんだから」で許してもらっている。
わたし自身もそうしているけど。
だから、先の予定入れたくないわけ。状況は刻々と変わるものだから。
 
わたしは友だちは少ないかもしれないが、わたしは本当にいい友人に恵まれていると感謝しかない。
 

 

 

たたら。ダイダラボッチ。

鉄の氏族の匂いがする、って思うわたし。

 

 

この日は、ゑびすライナーなる直通バスが美保神社まで出ていた。

雲津 諏訪神社へはヒッチか歩きしかアクセスがない。

 

だから、前回同様、一旦空港から松江駅まで出てタイムズカーシェアを借りようと思ったが、

(空港にはカーシェアがなく、かつレンタカーは乗り捨てできない)機内で近くのネット仲間に照会したところ

 

 

「空港からなら、駅に向かわず、直接美保関に向かう方がよいでしょう」

 

とのお返事だったので、

観光客用のバスなので値段も高めでちょっとひるんだが(空港〜美保神社700円)、

ゴールデンウィークの特別運行だということで奮発して、ゑびすライナーを利用。

 

で、「美保神社で会いましょう」って言われたので、

「もしよかったら雲津に来ていただけると助かるんですけど」とダメ元で言ってみる。

 

で、雲津で落ち合うことに。

 

 

前回は小雨がぱらつく中の参拝だったが、青空広がる。

 

 

雲津までは、峠越えの道のりで片道6キロほどある。

普通に歩けば1時間半から2時間でたどり着くとはいえ、大変に遠い。

 

なにわの審神者(さにわ)と話してて、

「軽トラのおじいちゃんに頼んで乗せてもらえ!」ってアドバイスがきたから、

途中の漁港で頼んでみるも、それどころじゃない感じ。

 

考えてみれば当たり前である。

「釣り人は釣りに夢中」っていう基本的なことを忘れていた。

 

 

しかも、ここは釣り竿がシンボルのえびすさまのお膝元である。

 

あきらめて海岸沿いを2キロほど歩いたところに、夫婦岩と呼ばれる場所があり、

そこに1台の車が停まっていた。

 

県外ナンバーだから観光客であろう。

 

わざわざ観光にきているクルマに「雲津まで」って乗せてもらえるとは思えなかったが、

峠の麓まででもいいから少しでも距離を稼ぎたかったのでダメもとで頼んでみる。

 

 

「すみません、ここに行きたいんですけど、乗せてもらえませんか。途中まででもいいです」

 

驚いた様子だったが、「いいですよ、どこですか」って聞いてくれて乗せてもらえることに。

 

 

 

 

で、着いた。雲津 諏訪神社。

 

道中、

 

諏訪大社は海のない、長野県にあるのだが、

ここ雲津では、船でたどり着いたかのような入江にあり、

 

「雲津の赤壁」という赤い切り立った崖が有名であること

 

源平合戦を模した「西の負け」「東の負け」と声をかけあう祭があること

 

などを語る。

全部受け売りである。

 

 

ただ

「どうしてここに来られたんです?」

って聞かれたので、

 

「Googleマップでみて気になったから」

 

という、「美志摩の旅スタイル」を披露。

 

祭は今年は神社の神事だけという話だったが、到着したときにはそれも終了していた。

 

 

 

「せっかく来られたのならお参りされますか?」と声をかけて一緒に参拝。

 

なんと、彼の方ははじめての美保神社参拝で、

 

「たまたま」通りかかって、

正体不明の神様・御穂須須美命(みほすすみ)を祀っているといわれる「地主社」をお参りしていた。

 

「よくわかっていない神様らしいですよ」とこちらも受け売りの知識を披露。

 


ここに「源義親」の文字。

 

源義親の名をなにわの審神者(さにわ)に告げたら、「河内源氏や」と言っていた。

で、乗せてくれた人は大阪の人だったので、それも披露。

 

源義親はwikiによると

源 義親(みなもとの よしちか、生年不詳 - 嘉承3年1月19日1108年3月3日〉?)は、平安時代後期の武将源義家の次男。

河内源氏3代目棟梁・源義家の嫡男だったが、対馬に任じられたとき九州で略奪を働き、官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。だが、出雲国へ渡って再び官吏を殺して官物を奪ったために、平正盛の追討を受けて誅殺された。剛勇の義親が簡単に討たれたことを人々は疑い、その後に幾度も義親を名乗る者が現れている。

 

 

どうも対馬に行ったとき、暴れて、隠岐に流されたってことみたい。

そして、それに懲りずに出雲に渡り、最終的には、伊勢平氏の平正盛に討たれたってことになっている。

 

しかも、平正盛はwikiによると

白河上皇院政伊賀の所領を寄進するなどして重用され、検非違使追捕使として諸国の盗賊を討伐するなどして活動した。

反乱を起こした源義親を討つ命令が父親の源義家に下るが、義家が死去したため、その後継者である義忠に義親討伐の命令が下る。しかし義忠は兄を討てないと躊躇したため、義忠の舅である正盛が代わりに討伐に向かい、天仁元年(1108年)に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。その功績により但馬守に叙任。後、天永元年(1110年丹後守、永久元年(1113年備前守を勤めた。ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明であり、この事件後も義親を名乗る人物が何度も登場し、史上に痕跡を残した。当時も勇猛な義親をそれほど武に優れているとは認知されていなかった正盛が討ったのかについて、疑問があったことは中御門宗忠の日記『中右記』などにも記されている。保安元年(1120年讃岐守

 

 

とあり、崇徳天皇の父と噂された白河天皇と繋がっているwikiによると

不遇な状況にある東宮の王子であったため、治暦元年(1065年)に13歳で元服したが、妃の参入はなかった。延久元年(1069年)に立太子した後、同年義理の従姉にあたる藤原道子が参入し、同3年(1071年)には関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。

中宮となった賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前で白河天皇と関係を持っていたと記録に残る女性は、女御となった道子の他は典侍藤原経子程度であり、数は必ずしも多くない。賢子の死後は正式な后や女御を入れず、側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持った。晩年の寵妃となり権勢を持った祇園女御など、下級貴族の生まれでも公然と寵愛した。加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。

 

 

これは、この旅のすべてを終えて東京で調べながら書いているので、

「やっぱりね」と思っているのだが、このときには何も知らなかったのであるが、

 

 

きたよ、やっぱり。

しかも重めのやつ。

 

だって崇徳天皇は、ミホススミのお膝元の能登の旅で宿題をもらったままである((メモ)蹴鞠と崇徳天皇 〜梅と桜と牛と馬(と、鹿)愛は勝つ 〜夢の途中 ムクロジと崇徳天皇)。

 

 

蹴鞠のはじまりは、大化の改新

馬と鹿の皮をはぎ合わせて作った鞠を落とさないように蹴る神事

 

 

サッカーの原型。

サッカーといえば、八咫烏(やたがらす)のエンブレム。

もちろんそれは、「熊野」である。

 

 

サッカーボールは、もともとは、骸骨だったとか。

 

まさか、「御穂須須美命(みほすすみ)」の本拠地とはいえ、こんな壮大なテーマにぶつかるとは。

 

わざわざ予定に入れてただけある。

 

 

 

そして、なにわの審神者(さにわ)が、何気なく口にした、

「5月4日は、旧の4月4日やから、令和4年4月4日。次につながる何かがみつかるんちゃうか」

 

って言葉は、その通りだったとあとで知る。

しかも、前日ちゃんと伊勢平氏おじさんと会っている(そして、東京 島とノロ 〜わたしの思いがつくる未来)。

 

 

 

きました。諏訪神社。

 

 

出雲らしい狛犬さん。

 

 

蘇鉄が一際目立つ。

島の木。

龍田神社にもあった(蘇鉄がもたらす福音の予感 〜龍田神社と聖徳太子)し、島には必ずある。

そして、わたしにとってはイエス様のエルサレム入城のサインでもある(大神の島の大寒の大禊 その1)。

 

エルサレムに集まった民衆が椰子の葉を振ってロバに乗ってくるイエス様を迎える。

 

 

そして、灰の水曜日には、この葉を燃やして灰にしたものを、

 

「塵に過ぎないおまえは塵に返る」(創世記3:19)」

 

という言葉とともに額にいただく儀式がカトリックにはある

灰の水曜日 〜梅を辿って江戸の旅出石の謎解き 〜永遠の命の示し・メシヤは出るか!?  ”なぜか【358】”)。

 

 

「鉄が蘇る」、って書く蘇鉄。

わたしには鉄の氏族の足跡って感じる木。

 

 

三つ巴の周りに丸が9つ。

見たことのないご神紋。

 

 

神社の鳥居を出たところに、見慣れぬものが。

なんと蛇の抜け殻!

 

「よかったらどうぞ」って言ったら、

「本当にいいんですか!?」って喜ばれた。

 

 

 

ありがとうございました。

(つづく)

 

(参考)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(関連記事)

そして、東京 島とノロ 〜わたしの思いがつくる未来

ミホのススミに誘われて 〜美保神社の諸手船(もろたぶね)神事

救い主は現れるか 〜「次のターム」に行く前に

(メモ)蹴鞠と崇徳天皇 〜梅と桜と牛と馬(と、鹿)

愛は勝つ 〜夢の途中 ムクロジと崇徳天皇

灰の水曜日 〜梅を辿って江戸の旅

出石の謎解き 〜永遠の命の示し・メシヤは出るか!?  ”なぜか【358】”