風向きが変わるとき 〜英霊たちと南の島へ | かんながら

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旅の記録です

英霊たちがつなぐ旅 からのつづき。

 

今日も富士山がよくみえる。

 

 

ほんの30分ほど時間に余裕があった。

港の購買店でのんびりしてもよかったが、なんとなく、会っておきたい人がいた。

 

いつも通り、バスの中から「今から会える?」

 

 

歯医者さんにいくまでの間の15分くらいならって、はりみず御嶽で待ち合わせ。

 

 

この場所の縁で、わたしたちは出会ったんだとおもう。

小さいニーニーに追い出されてここにきて(大神の島の大寒の大禊 その2 〜 みやこを繋ぐ大神と長浜と)、旧正月の三輪そうめんにつながったわけだから(大神(おおみわ)から大神(おおがみ)へ その2 〜三輪そうめんがつなぐ縁)。

 

 

いや、本当はもっと古い時代のそれ。

卑弥呼とか、比売神とか、そういったもの。

 

彼女も、「大和井(やまとがー)」を知っていたし。

 

 

なんだか、もうすっかり夏の日差し。

っていっても、こんなものじゃないけど。夏は。

 

 

わたしにとって、南の三輪山。大神島。

南の(諸鈍)長浜は、パイナガマ(そして、瀬織津姫の東京クルーズ)。

 

 

この日は嵐のあとで、まだ観光客がきていないって、船のニーニーに言われたから、遠見台にあがってみた。

 

 

今年はじめてみた、ゆりの花。第一号。

 

 

 

 

 

この日は、別の島から「大神島が大好き」っていうネーネーたちが遊びにきてて、宴会してた。

「ゆりちゃんも飲んで!」って言ってくれて、なんとなく合流。

 

 

 

夜の海にでたら、潮は予定どおり(わたしの)ひいていた。

新月の夜は、島がみえない。

だから、深海の底で迷ったみたいになって慌てたが、夜空に星が輝いていて難を逃れた。

星が、手がかりになるって本当だなって思った次第。

 

 

ちょうど新しい船が島に到着して、お披露目があったり。

 

船長さんうれしそう。
やっぱり新しいっていいよね。

 

 

役所の人らしき人が乗っていたんだけど、なんかね、愛想がないわけ。

それにすごく驚いた。

島民が出迎えているのに、挨拶どころか、会釈もないし。

今どき国会議員の先生でもそんな人みなくなったから驚いた。

 

なぜなのか、まったくわからないけど、強烈な違和感だけは残る。

 

 

 

夜の漁にでて、小さいニーニーがとってきた「太陽のカニ」。

 

 

多目的広場のあずまや桜と菊。なんだか意味深。

 

上にある、3方にわかれた葉っぱみたいなのは、

「日陰を作る木」みたいなことを大きいニーニーはいっていたけど、詳細は不明。

 

 

 

テレビで「ボスポラス海峡」が出てきた。

 

あーやっぱり。

ボスポラスにはいくはずだった。

御用をさせられるのが嫌でいかなかった。

結局こうなっちゃって、「行けってことだった」ってわかる。

 

いいんだけど。

もう、わたし、たとえそこに行かなくても、意識をつなげることはできる。

縁のある人たちを通して。

それくらいの関わりを紡いできたから。蚯蚓(ミミズ)を選択して生きた(”地を這う蚯蚓(みみず)のように” 〜あのとき、蚯蚓を選んだ)この四半世紀に。

 

「凍らない港」をロシアは必要としている、って話は、陸軍関係者から前に聞いた。

こうなって、教わったいろんなことがわかる。

 

なぜ、トルコのボスポラス海峡に、ホテルを建てたのか。

王族のとっておきの土地に、日本人が協力して。

 

トルコと、熊野は、難破船の救助で縁が深い。

 

Wikiによると、

エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)は、1890年明治23年)9月16日夜半にオスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル (Ertuğrul Fırkateyni) が、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島樫野埼東方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した事件[1]。 (略)

木造フリゲート・エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた小松宮彰仁親王夫妻のイスタンブール訪問に応えることを目的として、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて日本へ派遣されることとなった。

エルトゥールル号は船体の整備を受けたうえで1889年7月14日にイスタンブールを出港し、数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったインドインドネシアなどのイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11ヶ月かけて1890年6月7日にようやっと日本へ到着した。

(略)木造フリゲート・エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた小松宮彰仁親王夫妻のイスタンブール訪問に応えることを目的として、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて日本へ派遣されることとなった。

エルトゥールル号は船体の整備を受けたうえで1889年7月14日にイスタンブールを出港し、数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったインドインドネシアなどのイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11ヶ月かけて1890年6月7日にようやっと日本へ到着した。

 

 

ざっと調べたのもはじめてだったけど、派遣された背景にも、いろいろあったんだな。

 

 

黄色い船のニーニーからバナナをもらう。

とても上等(こちらではそういう)にできていてとても美味しかった。

 

細い身体で、手漕ぎボートをあやつって出かける彼をわたしは尊敬している。

今、諏訪之瀬島の海底火山の噴火で問題になっている軽石で、定期船が止まっても、彼は自力で島を出ることができるし。

 

 

 

別の宿泊客がいるところでも、前回と同じことが起きてなじられた。

いつものことなんだけどさ、人前で怒鳴られるのは。

 

纏向の仙人のときもそうだったし(都をつなぐ旅 2(番外編・熊野の神ふたたび) 〜平維盛の子孫だから、あなたとは他人じゃない!?)、しろくまさんとの最初の出会いの、2007年7月7日のセミナーもそうだったし。

 

別になんと思われても、かまわないけどさ。

思うのは自由だし。

 

「あなたの真実」が、「わたしの真実」とは限らないんだし。

それと同様に、「あなたが考えるわたし」が、「わたし自身」とも違う、って気づいてくれたらいいんだけどな。

 

 

ほんの少しの「ゆらぎ」がそこに起きたら、いずれ、世界は崩壊する。

 

善悪も、正邪もなくなる。

そのとき、対立がなくなる。

 

カオス(混沌)を超えた向こう側に。

 

 

今だって、「ロシアが悪い」とか、「ウクライナがかわいそう」ってどちらかが「悪」でどちらかが「よきもの」って議論ばかりがおきる。

 

大事なことは、「戦争しない」ってことなんじゃないのかな

 

争いを回避するには、「善」と「悪」、「正しいもの」と「悪いもの」っていう、対立軸を持たせないことしかないのに。

 

 

「正義」が生み出すのは、「争い」であるってそろそろ気づいてほしい。

 

コロナの頃、何度も書いた。

 

「正しい一つの解が存在する」、という幻想があるのではないか?(コロナの真実が明らかになる日

 

 

その考えから自由になれない限り、わたしたちはその結果(争い)という結果を引き受けることになる

 

 

 

たまたま、図書館で借りて持っていった本(新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 沖縄論)に、「瀬長亀次郎」のことが書かれていた。

 

 

1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現:豊見城市)我那覇に生まれる。沖縄県立二中(現:沖縄県立那覇高等学校)、東京・順天中学(現:順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現:鹿児島大学)に進んだ[5]が、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。2年間の兵役を務めた後、横浜市鶴見区に移り労働運動の組織化を進めるが、[6]1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。その後は蒔絵工などを経て、召集されて砲兵として中国へ出征する。

戦後名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現:琉球新報)社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営しながら、組織活動を指導し、沖縄人民党書記長となる。1950年、沖縄群島知事選挙に出馬するが、当選者の1割にも満たない得票数で落選。次回1952年第1回立法院議員総選挙では最高得票数で当選[7]を果たす。同選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否した。米国民政府は公に好ましからざる人物として対応する。

 

 

 

きっと、与那原のヒロさんが、わたしに託したかったことはこれなのだ、と思った。

同じことをしろくまさんも、伊勢平氏おじさんも、尾鷲の大先生も、わたしに伝えてきた。

尾鷲の大先生が、「沖縄の人も日本人である」と言って、自衛隊の基地をおいた、というこの場所に、わたしが置かれている、という不思議。

 

その意味はさっぱりわからなかったけど、ようやく少し理解した。

 


わたし、あと、2、3人キリストを産むって言ったけど、瀬長亀次郎を生めるかな。


そして、本土にも、瀬長亀次郎がいたんだよってことをわかってもらいたい。


 

 

わたし、この場所にいることは意味があるんだ、って思う。

意味はわたしが勝手につけているだけで、意味があるんじゃない、ともわかっているけど。

 

まあ、ひどい言われようで心が折れそうになったから、ヨギの治療師に泣きついた。

 

「心がおれそう」

「伊勢平氏おじさんは陥落したの」

「うん、たぶん」

「ボクは、12年も前に陥落してるから」

「ありがとう」

 

「好きだよ」って言葉は、わたしにとっては生きるちから。

 

 

わたしは、人の間にしか存在していられないから。

 

 

きっとわからないと思うけど、わかる人のために、ここに書いておこう。

「あなただけじゃないよ」っていうことを、あなたに、伝えたいから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「デートしよう」って誘われて、宮古島の「石庭」。

なんだろ、自然じゃないものにはわたし感覚が鈍らされて、まるで鬼門の天理(鎮魂祭 〜龍田の神と聖徳太子とともに石上神宮へ)。狭い敷地なのに迷子に。
地図を見ながら「今どこ」って聞き続ける。
 
そういえば聖徳太子の影がチラチラする(みやこをつなぐ旅 琉球・大神島編)。

 

 

 

いい場所なんだけど、なんかがズレてる感じ。わたしには。

わたしが、ズレているのかもしれないけど。

 

 

 

最初に宮古島に行って「休業」に遭いつづけて、成就しなかった「ピザ屋でワインを飲む」って約束をようやっと果たしてもらう。

 

何回「次はないかも知れないでしょ」を言い続けたことか。

「明日もある」って小さいニーニーはいうから、「次会えなかったことはないの」って聞いた見たら、「ない」。

 

わたしは、わたしの生活をみていてくれた祖父もしろくまさんも、突然に死んじゃったから、いつも「次会えるのは奇跡」って思う。

 

 

 

 

東京で食べるのと同じ美味しさのピザ。

値段も東京と同じかそれ以上。

 

この島でも幸せに暮らそうと思ったらお金は必要。

 

 

空港で、大神島の映像が流れてた。

観光地?

わたしには、「時が止まった見捨てられた島」 なんだけどな。

 

そこにも人の意識の大きな乖離がある。

 

 

 

久しぶりにシャスタを思い出した。

 

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