瀬織津姫のしあわせは?その後 | かんながら

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旅の記録です

ヨギの治療師に、「瀬織津姫のしあわせは?」と聞かれて、
わたしの中の瀬織津姫の悲しみに気づいたために、わたしの心は崩壊してしまった。
 
心が崩壊というか、自分自身が持っていた大きなダムが決壊したというか。
 
 
とにかく「何が」ではなく、悲しみが止まらなくなって、泣き続けた。
泣沢女神(ナキサワメ)が降臨したかと思うくらいに。
 
 
すべての「理由」は後付けだと知っている。
 
「〜だから悲しい」
「〜だから腹が立つ」
 
それは、すべて、自分の思いの投げかけに反応したものにすぎない。
 
 
「自分のうちにある悲しみ」が、「悲しむ理由」をみつけだし、
「自分のうちにある怒り」が、「怒る理由」を探しだす。
 
 
と、わたしは思う。
 
 
しろくまさんと暮らしていたわたしにとってのしあわせで平和な10年は、
腹がたつことも、悲しいこともほとんどなかった。
 
 
彼はわたしの代わりにわたしの分まで怒っていたが。
 
 
(丹生川上神社中社の罔象女神ご神像)
 

 

「あんなこと言うから、壊れた」

 

 

ヨギの治療師に告げたら、お弁当と酒を持って彼は飛んできた。

 

 

 

そもそも、わたしが悲しいのは彼のせいではない。

伊勢平氏おじさんの、「キミのせいで障りがくる」と言っていることと同じではないか。

 

 

 

彼は、袋いっぱいのつまみや酒をを渡しながら言った。

「その悲しみ、一緒に引き受けるよ。半分になるでしょ。」

 


 

 

お正月に、テレビでやっていた映画「天気の子」を観て、「自分のために祈って!」ってセリフが一番印象に残っている、と彼は言った(いのちをありがとう)。

 

 

わたしは、「自分のために祈る」ってなんかしっくりこない。

みんな、自分のことを祈るから、おかしくなる、そんな気がしてる。

 

 

 

「じゃ、ボクが、美志摩ちゃんのしあわせを祈るよ。」

 

「!!」

 

 

 

「わたしは、あなたと、あなたの家族のしあわせを祈ります。」

 

(ベルナデッタが過ごしたヌベールの修道院のマリア様)
 
「わたしのために、祈って」
 
 
そういえば。
ルルドのマリアに遭遇したベルナデッタは、

「わたしのために祈って」

と手紙の最後に書いていた、って聞いたことがある。
 
Priez pour Bernadette .
P.P. Bernadetteって書いていたらしい。
 
5年くらい前か。ベルナデッタが過ごした修道院のあるヌベールに行ったとき、それを聞いても「意味わかんない」って思ったが、それだった。
 
 
自分のために祈るのではなく、人のために祈る。
 
そうすれば、みながしあわせでいられる。
 
 
 
 
天国と地獄の箸の話を聞いたことがある。
 
 
 
晩餐会に用意された長いお箸。
 
地獄の住人は、長い箸でなんとか自分で食べようとするから、ずっと食べられなくて飢えて、
天国の住人は、その箸で人に食べさせるから、みんな楽しく食事ができるっていう話。
 
 
 
わたしのために、祈ってくれる人がいる。
だから、もうわたしは、人のことを祈っていても、悲しみがたまらなくて済むのだ。
 
 
 
もちろん今までも友人たちはそうしてくれていた。
わかっていないのは、わたしだけだった。
 
 
わたしは血を分けた家族とは、とことん縁がないが、
 
早朝の毎朝の電話につきあってくれる白山のサルタヒコや、なにわの審神者(さにわ)、
「生きてるか」と言って玄米を送ってくれるいかつい兄さん(私は孤独)や、
SOSを出したら瞬時に駆けつけてくれる友人(そして、くくりの日。 〜富士山へ)、
「距離の取り方が残酷(マウントシャスタはツインピークス 〜富士山と白山、そしてスピリチュアルな関係について)」と言いながら「お腹すいた」と言ったらラーメンを食べに連れて行ってくれるカウンセラーや、
母も出なかったしろくまさんの葬儀に飛行機で駆けつけてくれた星の王子様(安曇の庭に誘われて(安曇野から丹後へ 番外編3 東京) 〜 将門さんと平田篤胤)、
ブログを読んで危機を察知して連絡をくれる人たちや、
普段はまったく交流がないのに、絶妙なタイミングでコンタクトしてくれる島巫女仲間のSarah(サラ)さんと、サマリーさんなど
 
肉親よりずっと身近で頼りになる人たちがいっぱいいる。
 
そして、それは、ヨギの治療師が意識してるのかわからないが「ババ(バーラサイババ)が(わたしのもとに、彼を)連れてきた」と言うように、神なる働きによって遣わされたのだろうと思う。
 
 
彼らはもれなく自分に正直でまっすぐな神子的な人たちで、神の道具として純粋に生きてきる人ばかりだ。
 
 
「神がこたえてくれた」と思う。
彼らを通して、神が、こたえてくれている。
だから、今までわたしを世話してくれていた人と疎遠になることもある。
 
 
それでいいんだ、と思う。
彼が、してくれていたことではなく、神が、してくれていたことだから。
必要は、必ず満たされる。
 
 
 

 

 

 

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