安曇の庭に誘われて(安曇野から丹後へ 番外編3 東京) 〜 将門さんと平田篤胤 | かんながら

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旅の記録です

 

一ノ関から帰ったあと、ヨギの治療師とお台場に行った。

東京らしい景色が見たかったから。

 

気仙沼や大船渡の景色は、記憶を失ったような気持ちになるわたしの神戸(丹後からの、W出石神社そして播州への旅(その3:播州・赤穂の旅〜震災から25年))と同じだった。

思えば、ちょうど25年。

わたしが東京に初めて出てきたのはその年だ。

 

 

 

そういえば、東京に来たばかりのときもよく台場にきた。

しかしその頃のこの場所には何もなかった。

 

 

アダルトチルドレンとか、共依存とか、アディクションとか。

それが日常だった。周りのすべての人たちがそうだった。

ヨギの治療師が「神事にとらわれてる」とわたしにいうように、あの頃のわたしは「あの世界」にとらわれていた。

それは間違いなくそうだ。

 

 

 

だから、今、どんな壮絶な体験を聞いても驚かない。

なぜなら、わたしには、それが過去のことになる、という確信がある。

時にしか解決できないものがあるというが、時はどんなことも解決してくれる。

 

 

変わらないことなど何もない。

すべては、流転する。

 

変わらないのではない。変えないだけだ。

変わらないためには、相応のエネルギーが必要なのだ。

 

 

仕組みが維持されているとき、仕組みを維持するための仕掛けとエネルギーが必ずある。

 

 

「変わらないなにか」は、何ものかが「変えない」ようにしているだけだ。

 

 

 

明治神宮には、五箇条の御誓文が上がった。

 

五箇条の御誓文

 

一.広ク会議(かいぎ(おこ万機公論(ばんきこうろんニ決スベシ。

一.上下心ヲ一ニシテ(さかん経綸(けいりんヲ行(ベシ。

一.官武一途庶民(かんぶいっとしょみん(いた迄各其志(までおのおのそのこころざし(ゲ人心ヲシテ(マザラシメンコトヲ(ようス。

一.旧来(きゅうらい陋習(ろうしゅう(やぶリ天地ノ公道ニ(もとづクベシ。

一.智識(ちしきヲ世界ニ(もと(おおい皇基(こうき振起(しんきスベシ。

 

我国未曽有(わがくにみぞう変革(へんかく(サントシ,朕躬(ちんみ(もっ(しゅうニ先ンジ,天地神明(しんめい誓ヒ(ちかい(おおい斯国是(このこくぜヲ定メ万民保全(ばんみんほぜんノ道ヲ(たてントス。衆亦此旨趣(しゅうまたこのししゅ(もとづ協力努力(きょうりょくどりょくセヨ。
 
 
 
「明治」は、「日月」で、「治」めると書く。
 
天地の公道に基づくべし。
 
それを成就させることができるかは、わたしたち一人ひとりにかかっている。

 

 
東京もクリスマスイルミネーションが灯り始めた。
一ノ関から帰ったら、きっと伊勢平氏おじさんに報告するタイミングがあろうと思っていたが、なぜかばったり会うことがなかった。
するとめずらしく彼の方から連絡してきた。
 
 
「なんで一ノ関?」
 
(あなたが一ノ関の造り酒屋をこのタイミングでいうからだけど)
 
「金華山にいく用事ができたから」。
 
 
 
 
次の宿題は、
「平田篤胤は、将門がだんだんと近づいていると言っていた」。
 
 
おじさんは、ようやく平将門が「祟り神」などではないとわかったようだが(浦和の波うさぎのゆくえ)、まだよくわかっていないようだ。
 
はっきりと将門が動き始めた、と思ったのは昨年の今頃くらい(東京さんぽ ”平将門” )だが、目に見えて動き出したのは、今年の四旬節の頃だ(平将門公とイエスキリストと、空也のもなか 〜贖いのちから)。
 
 
ちょうど今年の四旬節(復活祭の前で春先)コロナの影響が出始めたころで、なにわの審神者(さにわ)とはずいぶんこのやりとりがあった。
 
 
 
わたしと平将門との縁の始まりは、昨年の12月に今は疎遠になった伊勢平氏筋の人からもたらされたのだから不思議である。
 
 

なぜかこのところ通りがかることの多い平田神社。

 

砥鹿神社の社家は、平田篤胤門下だった、と聞いてから(安曇の庭に誘われて(安曇野から丹後へその2) 〜 三河国一宮 砥鹿神社 えびす祭)、の流れ。

 

 

昨年の今頃はこのすぐそばに住んでいた。

しかも、その時期はほんの4ヶ月ほどしかないのに、わたしは平田神社のすぐそばに住んでいて、わたしは平田篤胤を知らなかった(恥)。
 
 

伊勢平氏おじさんが、将門と平田篤胤の関わりのことを指摘していた、となにわの審神者(さにわ)に伝えたら、平田篤胤が将門を崇敬しており、神田神社に奉納された将門像のことを伝えてきた。

 

 

 

 

御神徳は「世直し」。

 

珍しいなって思ってたけど、平将門を崇敬していた、というのであれば、なるほどね。

 

平田篤胤は、房総平氏の家(大和田氏)に生まれ、伊勢平氏の家(平田氏)の養子になったそうである。

なるほど伊勢平氏おじさんが平田篤胤のことを語り始めたのは納得である。

どうも本人は、わたしと同様、そのことについて知らなかったようであるが。

 

 

 

だんだんと、いろんなことがつながっていく。

パズルのピースがどんどんとはめ込まれて一枚の地図になるような。

 

 

しばらく前からなにわの審神者(さにわ)から、「2.26事件の場所を供養してきて」って言われていたけど、ずっとピンとこなくてそのままだった。

でもなんか、今だ、と思ってきた。

 

渋谷税務署の隣。

用事でよく通る場所。

 

通りがかるけどよくわかっていなかった。

 

でもよく考えてみたら最近出会う人につながる縁のある場所だ。

 

この事件の関係者の子孫にあたる人だという人が現れた。

陸軍。

三島由紀夫。

祖父は何も語らなかったが、この事件に何かの思いを持っていたことは間違いない。

 
 

将門も、2・26事件の人たちも。

誤解されている、と感じる。

 

将門は祟り神ではないし、2・26事件の人たちも何かが違う、ような気がする。

 

 

私たちが、かつて生きていた人たちの思いに、今生きている私たちが歪んだ思いを重ね合わせると、「今」が、歪められていく。
 

 

 

 

だから、今に生きるわたしたちは、恨みや、憎しみを過去の出来事にのせてエネルギーを与えてはいけないのだ。

それは、純粋な、「今」でなくなってしまうから。

 

いつもニュートラルでいることは、だからとても大事だ。

 

 
 
津島神社も、お参り(安曇の庭に誘われて(安曇野から丹後へその3) 〜 津島神社編)してからとても身近に。
須佐之男命は、明治神宮の北に鎮座されている。
 
 
 
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日曜は九州から20年来の日記仲間で、星が大好きなわたしの親友(星の王子様としておこう)がきていたが、博物館を見ている最中に、伊勢平氏おじさんから電話。
 
「今日は九州から友達来てるので、明日にしてもらえませんか」
「じゃ無理だね、じゃあ、またいつかね。」
「・・・。すみません。」
 
 
すると星の王子様
「行っておいでよ」
 
え、でも。
 
「その方がいいと思うよ」
 
ということで、おじさんのところに。
 
 
 
丹後行きの前日だからな。
 
おじさんの頭の中は、将門一色。
それはたぶん、この丹後行きにドンピシャ関わっているってことであろう。
 
 
一度は流れた丹後行き。
でも行くことになると思っている。
 
この目で確かめねばならぬ。
最大限の注意を払って。
 
 
 
 
富岡八幡宮に行って、と、なにわの審神者(さにわ)から言われていたが、ようやく行く気になったのは、丹後への出発の当日。
 
丹後行きはわたしにとっては一度流れてしまっているので、完全に調えてから旅立ちたい。
 
するとこの日しかなかった。
 
乗り換え駅は大手町。
ふと降りたった将門の首塚。
 
 
「首のない人がついてる」ってなにわの審神者(さにわ)は言われたらしい。
そこで送ったその写真に彼は当然反応。
 
 
 
今は更地になっている将門塚。
代わりに神田明神の神棚がある。
仏から神へ。
お詣りの方法が、かわった。
それは、あくまでも生きている人間の側の見方なのだけれども。
 
 
 
富岡八幡宮。
12月7日。
この日に詣ったのは、私の方はたまたまだったが、あちらの方が呼んだのか。
3年前のこの日、宮司が殺められる事件があった。
 
 
 
みざる、きかざる、いわざる。
 
 
神道は、「言挙げ(ことあげ)せず」。
 
でも神社という場所は、起きたことを静かにまつり合わせ、調えて、代々引き継いできた。
人の感情を超えたところに、神はある。
 
 
 
人は、死んだら神になる。
 
 
 
神社にも神さまにも興味がなく、何にも知らなかった10年前、高千穂で宮司さんに聞いたその言葉に含まれるさまざまなものの大きさは、10年の旅の蓄積とともに少しずつわかってきたような気がする。
 
 
それが、神の国、日本の根っこに横たわるもの。
 
 
 
七渡弁財天に行ってきて。
なにわの審神者(さにわ)の依頼はそれだった。
 

 
金華山の水と酒を供え、龍神祝詞奏上。
 
 
鳩、か。
鳩は聖書では精霊の印。
 
マンガ 聖☆おにいさん が好きだったくまさんは間違いなく、「お父さんだ」って言ったはず。
イエスの父、つまり御創造主。
 
 
キリストはまもなく生まれる。
だってもうすぐクリスマスだから。
 
 
すべての人の罪を贖うために生まれてきた、イエス。キリスト(救い主)になるために磔にあうことを選ぶ。
 
 
生きるという行為が、他の生命の犠牲の上に成り立っている。
 
 
 
 
相撲の碑をみておいで。
 
こんなのあったのか。
知らなかった。ここにきたのは10年ぶりだ。
当時ひふみともこさんの、ひふみみくじ なるものがあった。
 
今はない(たぶん)。
 
 
魚がし。
 
将門?
海人族の香りのするそれ。
 
 
 
出雲(日) vs 肥後(月)。
石碑によると。
 
 
あんたがたどこさ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ せんばさ
せんばやまには たぬきがおってさ 
それを猟師が 鉄砲でうってさ 
 
肥後って言えば浮かぶこの歌。
意味はよくわからない。
 
 
しかし、何かが動いて強い光が差してきた。
 
それにしても身体痛いな、って思ったら、この辺りが現場近いってあとから聞いた。
 
 
富岡八幡宮は、江戸勧進相撲発祥の地。
プロレスみたいなもの?
 
出雲大社で「相撲」って聞いたとき、豪族同士を戦わせて、最後にひとり残った強いのをやっつけて天下をとった、みたいなイメージが降りてきたから、わたしの中で、相撲って天下統一への道筋の豪族同士の戦いの図。
 
根拠はない。単なる妄想。

 
 
 
なぜか牛嶋神社に行ってみよう、と思った。
あのエリアは、金華山で見た巾着のある乳待山聖天があり(稲荷と龍神)、牛嶋神社は三輪鳥居。
 
万一のためにそのまま旅に出られる荷物を背負って富岡八幡宮にきたが、そのまま隅田川テラスを歩いて浅草方面。
 
 
途中、しろくまさんがよく納品にきていた会社があったり(思えば東日本大震災の日の納品先でもあった)、東京大空襲で亡くなった彼のお父さんの両親やきょうだいが祀られる横綱町公園の慰霊塔にお参りしたり、そして、あの空襲の日、お義父さんがどんな思いで幼い弟たちの手をひいて逃げ、この場所で生き延びたのか、たくさんの人の当時の姿が重なり合うこの場所を、歩いた。
 
 
当時、上野駅には、親のない子たちがいっぱいいたという。
お義父さんは一度もそのことを語ったことはない。
人はつらすぎる思いを言葉にすることはできないのだ。
 
 
すべてを心に秘めたまま、旅立ったお義父さん。
今の平和は、静かな犠牲の上にある。
 
 
 
 
美しすぎる今の景色の中に、消えていく過去の記憶。
今あるしあわせに感謝して生きたい。
 
 
 
星の王子様が九州に帰る前に、浅草まで来てくれて一緒に直会。
 
 
わたしの過去を全部知ってて付き合ってくれる親友。
 
彼はわたしの元ダンナを二人知っている。
今は彼にもパートナーがいて、そのパートナーも知っている。
男女の友情はあるか、みたいな古くさい質問があるけど、当然ある。
 
 
彼を見送って、さらに歩く。
 
 
 
ぼっちクリスマス。
ぼっちでないときはクリスマスはかきいれどきって、仕事に没頭していたのになんなんだろう。
 

牛嶋神社。鳥居の向こうはスカイツリー。
 
 
 
さて、丹後に向けて出発。
 

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