都をつなぐ旅 2(その2) 〜いにしえの都に帰る旅(平家の里にあったもの編) | かんながら

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旅の記録です

 
 
満月の朝。
この日の行動を決めかねていたが、ここに来る前の日に新宿の銀座ライオンで飲みながら伊勢平氏おじさんに、「最近、歩くゼロ磁場と言われてる」って言ったら、
 
「平維盛が落ちのびた上北山村はゼロ磁場」って返してきた。
 
「そうなんだ。で、行ったんですか」
「玉置神社に行ったとき行こうと思ったが遠くて帰りの飛行機に間に合わないからやめた」
 
「ふーん」
 
どんな遠いところかと思ってGoogleマップを見たらここからなら1時間ちょっとだ。
 
じゃ、行ってみるか。
次はいつこれるかはわからない。
おじさんが行こうということもなさそうだしな。
 
 
朝食に間に合わないかも、と思ってダラダラしていたが、昨日の夜美味しいものを心ゆくまで食べさせてもらったし、バイキング朝食を食べなくてもいいかと思い、タイムズカーシェアを予約。
 
 

満ちた月。

 
 
熊野と大津はつながっているんだな。
 
 
 
 
夜明けとともに湧き上がる雲。
 
 
大台ヶ原とか、懐かしすぎる。
本当にしょっちゅうきたエリア。
 
 
到着。水分(みくまり)神社。
 
 
 

この水分神社の草創は不詳ですが、祭神に天之水分神(あめのみくまりのかみ)と、国之水 分神(くにのみくまりのかみ)を祀り、1450年代(長禄年間)以前の創設で、お祭は、毎年4月13日と11月23日です。 

 

天之水分神:山頂の水の分配をつかさどる神
国之水分神:地上の水の分配をつかさどる神
水分神社 
http://www.panoramio.com/photo/27234461

上北山村HPより)

 

 
 
なんの遥拝所なのかは不明。
 
 
 
 
そして、何これは?
御柱?
 
そして、次の目的地は、Googleさんがここだといってきた四位殿神社。
御祭神は小楠公とも呼ばれる大楠木公こと楠木正成の嫡男、楠木正行(まさつら)。
 
 
ちゃんとなにわの審神者(さにわ)からカフェ大楠公でごちそうになったところから、繋がっている不思議。
 
 
 
しかし、あるはずの集落に到着するも、見つけられない。
 
 
こういう景色は何度も見た。
阿波の山だったり、赤穂だったり、はたまた岩手の山の中だったり。
 
こんな密かな里がまだあるんだ。
豊かだったはずの山あいの集落。
 
 
あった!!
 
 
 
お城っぽい雰囲気。
きっと、城だったんだ。
ということは、ここでも戦いがあったのか。
 
 
 
帰り道。
クルマを走らせていたら、来るときには気づかなかった菊の御紋の入った立派な寺が。
 
 
 
神器奉安の聖蹟
南朝遺跡 南帝山 瀧川寺
 
とある。
 
上北山HPによると
 
村に人が住み始めたのは寺院の過去帳などから判断すると、今から約800年くらいに遡ります。古来、村の始祖は平氏の末族だったと言い伝えられています。それを裏付けるように、村には景徳寺をはじめ薬師堂など、平氏ゆかりの寺々が多数あり、一門が遺した重要な仏像や古文書が所蔵されています。
これらの記録や言い伝え、古跡からみると、わが村は1185年に壇ノ浦で滅びた平氏の一族によって開かれたものと考えられます。
 
南北朝時代に入ると、村の歴史がはっきりと現れてきます。1392年の南北朝合一のあと、禁闕(きんけつ)の乱後、南朝の系譜をひく北山の宮(後亀山天皇玄孫)が本村小橡の瀧川寺に神器を持って潜匿されました。
ところが1457年、宮は主家を再興しようとしていた赤松家遺臣によって殺害されました。これを知って村人たちは、神器と御首を奪い返し、瀧川寺に手厚く埋葬しました。
宮の御墓は今日でも寺内にあり、また御霊は北山の宮に祀られ、御南朝哀史の君として崇められている。
 
上北山村HPより)

 

 
なんとも美しいこと。
結局寺の人には会えなかった。
だけど、この集落が、平維盛が落ちのびた場所という手がかりは、直接は得られなかったが、間違いなく南朝はここになんらかの関わりがあったようである。
 
 
亡くなったしろくまさんは、「ウチの母方は後醍醐天皇に仕えていた」、と言っていたが、
 
当のお母さんの方は、「そんなこと言ってない」。
みえない世界の働きにはよくあることである。
間違いなく、彼は動かされていた、と思う。
あるときは、彼は金剛峯寺(高野山)を思い描きながら、「金峯山寺に行きたい」と連呼して、私のナビで吉野に運ばれたこともある。しかも、そのときは、蔵王権現のご開帳があったのだ。
 
なぜかわたしは吉野に運ばれる。
Sarah(サラ)さんと初めてあった場所も、吉野。しかも金峯山寺で、その日も蔵王権現のご開帳の日であった。
 
 
 
 
北山宮。大字小橡(ことち)鎮座。
 
 
 
オーブすごい。
 
 
 
 
 
 
手水鉢は船型。海人族のしるし。
 
 
そして、桜井に戻り、ずっといけなかった談山神社。
 
 
 
時は今。
きたよ、鎌足。
ちょうど読んでいた本(日本史のタブーに挑んだ男―鹿島昇その業績と生涯)に、「鎌足は作られた人物」って書いてあったけど。
しかもこの後、飛鳥でたまたま手にする本には、「談山神社は、鎌足の戸籍上の息子の定恵を祀っていると思う」って書いてあったし。
 
 
 
 
裏山に、鎌足公の墓があるというのがずっと気になっていた。
今日の目的地はそこ。参拝可能時間は1時間しかないけど駆け上がる。
 
 
 
森の中を登っていく。光に包まれて美しい。
 
 
到着。祝詞奏上。
 
光がさし始めた。
 
裏正中には、藤原家の墓(あとでその秘密が明かされることに驚く)。
 
「南無妙法蓮華経」の文字。
きてるな、日蓮。
この旅の前日、伊勢平氏おじさんが話していたことの中に「南無妙法蓮華経」があって、そもそもおじさんは(恋しくて 〜葛の葉をたどる旅 番外編 ”ホッキョクオオカミ”亀戸天神の招き 〜日本武尊と平将門、そしてクマ)で書いたけど、若い頃、海で死にかけてこのお題目を無心で唱えて助かった体験の持ち主なのである。
約束の地、國吉に祀られていた神は 〜372年ぶりの日蝕夏至の日にもそうだったけど、これはかなり大きな何かが調ってきていることは間違いない。
 
「南無・妙法」。
その先はきっと北極星。
日蓮から感じる海の匂いと星のセンス。それは海人族のそれとかぶるのは気のせいか。
 
 
談(かたらい)山。
 
中大兄皇子と中臣鎌足が大化改新の談合をした場所、と言われる。
でもなんか、おどろおどろしい空気感は全くない。
これが、祀りの力なのか、そもそも、それが庶民の考えるような小我の世界の価値観では想像することのできない、神の御心の次元の出来事であったからなのか、それとも両方なのか。
 
亀戸天神に行ったときに(亀戸天神の招き 〜日本武尊と平将門、そしてクマ)、わたしの中で代々引きつがれてきた「藤原憎し」みたいな変な呪縛が解けたのだが、その直後、俵藤太の子孫という人に声をかけられる(神の恩寵)という偶然があったり、明らかに何かが変わった。そして、ずっと気になっていながら、くる気にもならなかったし、なぜかタイミングもまるで合わなかったここ談山神社に来ることができた。
 
そこに至るまでには、彩ねーさんがいたり、たくさんの人たちの後押しがあった。
神事ってそうなのだ。今生きている人たち、かつて生きていた人たち、これから生まれてくる人たち、みんなの意識の総和。
それを用いて、今生きている人の投げかけから瞬間瞬間に生み出されていく、連続する今。
 
 

さて、次に待っているものは。
 
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