令和2年5月1日。
令和の時代、ちょうど1年の節目の日。
いつものように明治神宮にお参りに行ったら、白い布の上に金の玉が置いてあった。
掃除されていた神職さんに、「あれはなんですか」と聞いたら、「日の丸をあげるところの先端にのせる玉です」とわかりやすく教えていただく。
そうだ、今日は1日でおまつりの日だ。
しかも5月1日ということは、令和2年目のスタートの節目ではないか。
うっかり忘れるところだった。
(明治天皇御製)
ちはやぶる 神の御代より ひとすぢの 道をふむこそ うれしかりけれ
今年はコロナのおかげで、今までにない体験ができている。
空気はきれいで、人は少なく、立ち入りを制限せざるをえなかったせいで、ご神域は普段にもまして神聖である。
森は人がいない方が、元気なのである。
自然というのは、人との距離を必要とする。
人の方がが自然にそうことができれば、なんの問題もないのであるが、今の人たちは、人間以外(つまり自然)の波動に鈍感で、その領域を知らず知らずに踏み越えてしまう。
以前に山にあるわりと大きな神社で、
「最近は、冬にも山にある奥宮に人がはいるので、神様がお休みになれない」
と嘆いておられる神職とお会いしたことがあるが、本当にそうなのだ。
神様がどうなのかはわからないが、少なくとも自然は、人との距離をおく時間に、その力を回復させる。
実は、人もまた同じである。
人の神性というものは、自然と調和しているときにあらわれる、だから、人との距離を置かねば回復しない。
人間というのは、自然界には存在しない、しがらみや欲望を持っているからだ。
神性は、しがらみや欲望と距離を置かなければ、そこにあっても、みえないものなのである。
そういう意味では、コロナ自粛の今
わたしたちは前代未聞の、ありえないほどのしあわせの中にいるといえる。
STAY HOME!!
この効果は絶大である。
このゴールデンウィークには、目が眩むほどの大混雑で住民のほとんどは、日中家から出ることをあきらめるこの時期の表参道が、
信じられないくらい空いている。
普段、わたしたちは、「会社に行かねばならない」「なにかをしなければならない」と言い訳して、自分で考えて行動を選ぶことを忘れている。
外の世界のせいにして、自分の内面をみようとはしない。
わたしは人の相談を聞く仕事をさせていただいているが、
会社に不満があるのに、会社に行くのは、その人がそこで得られるものが、失うものより多いと思うからこそ選択しているのであるし、
パートナーに不満があるのに、別れないのは、その人がそれをよかれと選択しているだけと思ってきたので、そのように言ってきた。
「でも」
生活ができないから、会社にいかねばならない、
わたしがいなくては、仕事がまわらない、
離婚をしたら、子どもたちが不幸になる、
いつか、離婚してくれるから、がまんする、
多くの人は、そう言って、不満の種であるそれをやめようとしなかった。
しかし今
外の世界の方が前代未聞の、ありえない強制終了。
瞑想して自分の内側に入って行かなくとも、外の世界の方が止まっているのだから、みんなが瞑想状態に入っているのと同じである。深く瞑想できるという集団瞑想である。しかも東京だけ、日本だけではない。世界中が、だ。
普通は、経済の方が大事だから、自分の内なる真実に向き合うということをストップして、洗脳状態で社会に、経済にコミットさせられて(して)きたのに、経済や社会の方が「緊急事態宣言」でストップしたのだ。
こんな恩寵は、徴税が行われて以降、おそらく一度もない。
たぶん、経済というものが、徴税という仕組みが、もしくは今までと同じ社会が繰り返されるとしたら、
これからは、こんなことは2度と起きない。
というか、起こせない。
こんなことをしたら、みなが、真実に気づいてしまう。
自分が自分を犠牲にしてコミットしていた社会は、実はちっとも自分にはコミットしてくれていなかったということに。
これは、神の絶大なる恩寵である。
住吉大社も、四天王寺も、今閉門したらしいが、それも「創建以来はじめて」の出来事なのだから。
世の中全体が、深い瞑想の状態にある今、瞑想で一番大事なことを思い出したい。
それは、わたしたちの意識のありようである。
この世の中には、「いいもの」と「悪いもの」があるのではない。
いいも悪いもない、様々な事象がただ存在していて、それに「いい」「悪い」とそれぞれの意識が判断して、都合よく自分の世界観をつくっているだけである
だから、わたしたちは、今こそ、私たち人類しか持たない意識の力を、自分たちのしあわせのために使わなければならない。
恐れで選択する行動はろくでもない行動ばかりである。
トイレットペーパーがなくなるかも!
食べ物がなくなるかも!
コロナがうつるかも!
わたしを含めて年齢高めの人間が、パニック行動を起こしていると若い世代に思われているようだが、わたしたちはすでにオイルショックで経験したではないか。
そしてそれは、馬鹿げたことであったと学習したはずである。
それよりも
今日、家にいられる自由を、本当はいきたくない集まりに行かなくていい気楽さを、静かで美しくすんだ空気の自分の街を、
楽しむほうに気持ちを向けたい。
わたしたちの世代は、みんなが共通の「夢」に向かって競争してきた世代である。
人より優れ、勝ち続けることが正しかった。
自分の希望より、家の都合、社会のため、そう生きてきて、そして社会もかなりそれにこたえてくれていた。
でも、今はちがう。
緊急事態宣言がでて、会社が休みになり、給与が保証されているのは、ごく限られた恵まれた人だけだ。
「いい会社に勤めなかったから」
「社員にならなかったから」
その人が悪い、という考えは、あまりにも思いやりがないと思う。
だって、そうやって若者を非正規にして、必要なときだけつかってきたのであるし、
「より安いところに」といって海外に工場を移していったのではなかったか。
自分たちの利益のために。
そして、わたしたちのすぐそばにいる隣人に目を配りたい。
会社に出かけていて、自分の街で買い物をする時間がなかった人、自分の街で外食したことがなかった人もきっといるはずである。
わたしはもともと家にいるのが好きで、外食も基本的にしないが、地元のお店は観光客で賑わっているので出かけたことはほとんどなかった。
それが今。
人気店が空いていて、お弁当を買いに行っただけで、厨房からまでありがとうと頭をさげてくれる。
行列で買えなかった和菓子屋さんも、空いていて、予約しなくても、並ばなくても欲しいぶんをちゃんと買える。
そしてなにより、おちついて食事できるし、お買い物もできる。
このおだやかで、心のこもった交流のある今は、わたしにはたまらなくいとおしい。
この場所が天国である。
STAY HOME
よく考えてみれば、なんてすてきなんだろう。
みんなで瞑想して、自分の神性を引き出すチャンスだ。
しかも世界全体で。
わたしが先日、「境域の守護者」のようなものに出会ったときに、思わず「神さま!」と呼んで、現れたバーラサイババは、
Be Happy というたったひとつの教えしかわたしたちに言ったことはない。
でも、ババが黙って実践していたことを知っている。
それは「貧しい人たちへの奉仕」。
自分より弱いものを大切にする気持ちは、社会をやさしくする。
ババのまわりは、そんなやさしさに包まれていた。