サイババとの思い出 〜お母さんみたいなババ、バーラサイババ | かんながら

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旅の記録です

 
昨日みた夢で境域の守護神(境域の守護者)かもしれない、黒い影にまとわりつかれたとき、
「神さま!」と生まれて初めて叫んで、出て来たのはこの人、バーラ・サイババだった。
自分でも驚いた。でも少し時間をおいて思うのは、やはりこの方の考え方、波動は、あの闇と相対するのに絶対必要だと思うのだ。
 
 

”””ヒカルランドから出ている本は、ぶっ飛んでいますね。セックスなしでも妊娠することもある?””

過去に訪問した時の記事。

このときは、ちょうどババは肉体を離れたばかりだったけど、夫は生きていた。

最後の滞在が不思議なことだらけで、特別なものだったのはとてもよくわかったが、ババとのお別れだけではなくて夫ともお別れになった。

 

 

バーラサイババとの初めての出会いは、4年前のこと、らしい。
写真をみたらそうだった。
 
たしか、その前年の秋くらいに、インドで無料の病院や、ホームレスの自立支援のためにミシンを送ったり、無料の学校をしている聖者がいて、
その活動資金のチャリティイベントの手伝いをして貰えませんか、と誘われた。
 
しかも、声をかけてきた人はその5年くらい前に一度だけ、共通の友人を通して表参道のカフェでランチしただけの女性だった。
その上、共通の友人のほうは、それ以降音信不通で会うどころか連絡もしたことがない。
 
 
 
その誘いを聞いたのは、今思えば亡くなった夫が、入院中のことだ。
 
ずっと原因不明の腹痛に悩まされてて、
調べても何にもないと言われて、
でも連休中の夜中に、彼がお腹の中で花火がパーンとあがって、神様の手がお腹に入って治してくれたみたいなことを言って、
 
そのとき小腸が穿孔(せんこう)してそれが私には映像でみえたので、慌てて救急車を呼んで、しかもなぜか病院をわたしが指定して、緊急手術をしていただいて一命を取り止め、状態が落ち着くのを待っているところだった。
 
普段だったら、断ってた。
夫はフリーランスで家で仕事しており、私は家にいるのが好きで、人付き合いは苦手。
歩きか彼のバイクに乗せてもらう以外には普段出かけることはなかったからだ。
 
でもそのときは、何故か行ってみようと思ったのだ。慈善活動に興味があるわけでもインドが好きなわけでもないのに。
 
たぶん漠然とした不安のなかにあったのだ。
当時の私は仕事もしておらず、朝お参りを終えたら病院に行って、面会時間が終わったら帰る。
 
ごはんは食欲がないから食べない。
ひとりで眠るのが落ちつかなくて、お酒も美味しくないから飲まない。
ひたすら部屋を片付けて心を落ち着けるという日々だったから。
 
なにか流れを変えようと思ったのかもしれない。
 
そのとき、病室の窓から見えた景色が、
「天気の子」でヒロインのお母さんが入院していた病室と同じだった。
 
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そこで主催者であるアシュラムに住む日本人の女性と知り合った。
 
「是非今度はインドにいらしてください」
 
社交辞令で言われただけと思ったし、インドはアフリカに行くときムンバイのトランジットでよく通り、好きではなかった。
だからまさかいくとは思わなかったし、まして毎年行くことになるとも思っていなかった。
 
 
なぜ行ってみようと思ったのかは覚えていない。
突然行って確かめてみようと思ったのだ。サイババがどんな人(神)なのかを。
 
謙虚さゼロ。
別に試してやろうとか、思ってるわけではなかったが、どんな人なのか、ほんとに慈善活動をしているのか、聖者なのか、どんな言葉を語るのかとか、ちょっと見てこよう、的なノリで。
 
 
 
初回は、アシュラムの日本人女性にメールをしたが、連絡が付かず、バーラサイババのニュースレターを作っている団体を見つけて連絡したら、ご丁寧に現地に取り次いでくれて予約できた。
 
ビザをとるのも、航空券をとるのも、私たちは節約のため全部自力。
インドビザは簡単ではないと言われて、業者をと言われたが、私たち暇だけはたくさんあるからと普通に自分たちで申請。しかも思いついたらすぐいくから日程ギリギリ。
出発まで1日も猶予がない状態での申請。しかも、夫はうっかり職業欄に編集者と書いてしまう。
 
ダメだよ!ジャーナリストビザになるじゃん!!
 
 
案の定、ジャーナリストビザになると言われ、いえ、単なる校正者ですといってもとき遅し。
出版関連で働いていたら事務のアルバイトであろうが掃除夫であってもジャーナリストビザだと言われて撃沈。
 
にもかかわらず、出発前日の朝、めでたく彼のビザが貼られたパスポートは届いたのであった。
 
 
 
空港についたら夜だった。
しかも空港だからタクシーあるはずとクルマの手配をしていない。
それでも深夜のハイデラバード空港でタクシーを無事見つけてアシュラムにたどりつくことができた。
 
私たちはいつもツイているが、ババのところを訪ねるのにトラブルになったことは一度もない。
まあ、すべての旅がいつもなぜかお膳立てされたようにうまくいくのであるが、いかんせん、インドはあらかじめ設定されていたハードルは高かった。
 
 
 
ここでは、サティア・サイババの大きなアシュラムとは違い、ヨガや瞑想のクラスなどはない。
朝と夜のバジャンの時間以外はひたすら自主性に任せられている。
アシュラムの中で掃除などの奉仕(セヴァ)をしたり、瞑想をしたり、霊的な本を読んですごす。
 
わたしたちは、怠け者なのでひたすら寝てすごした。
とにかく眠かった。
バーラサイババのメッセージをまとめた本を読んだりもしたが、まああまり勉強熱心ではない。
 
バジャン(音楽の祈り)の時間にダルシャンがあってババが出てこられることもあると聞いていたが、わたしたちはバジャンの時間にババをみたのは(この時だけ撮影が許される)最後の訪問になった18年6月の1度だけだ。
その代わり、夜にババのお部屋に呼んでいただいて、チャイやフルーツをご馳走になったりした。
 
 
 

最初にババにあったときには、指輪を物質化してもらった。
夫の指輪はぴったりだったが、私の指輪は親指に入れても抜けるほどの大きさで、
ババは笑って婚約指輪のエイトスターのダイヤのリングで抑えたらどうかといった。
 
その場はそれでOKだったが部屋にかえったらダイヤのリングも越えて抜け落ちた。
 
わたしはそのことでババは本当に神なんだろうかと疑ったのであるが、みていた帰依者は、わたしがババを疑っているからぶかぶかの指輪が出るんだよ、と思っていたみたいだ。ババを知っている人に聞いたら示し合わせたように同じ答えが返ってきた。
 
そして山川亜希子さんと紘矢さんご夫婦もババのところで指輪を出してもらったことがあるようだが、亜希子さんのはぴったりで紘矢さんのは大きすぎたようだ。
そして、リブログ先の山川紘矢さんご本人もおなじようなことをおっしゃっていた。
 
自分だけが「なんで?」とわかっていなかったということである。

 

 

 

2度目はわたしはピアスを、夫は今度は赤い石の指輪をもらい、

3度目にいったとき、、、それがババとのお別れになったのだが、ゴールドのブレスレットをいただいた。

2本同時に出されたそれは、私のものは相変わらず長すぎ、夫のものは短かった。

が、しかし、夫のもののほうはババは、ニコッと笑ってぎゅーっとひっぱって、伸ばしてぴったりサイズにしてくれたのだ。

 

夫も私と同様「ババは本当に神なのだろうか」と言っていたが、どうも彼の方は本当は純粋だったらしく、なんだかんだいって彼のいただくものはちゃんとぴったりサイズなのであった。

 

 

 

 

わたしも、奇跡はみた。

たとえば、ババが音楽会のとき、かじりかけのビスケットを5メートルは離れた席に座っている私に向かってまっすぐ投げ、わたしのお腹に命中させて(手裏剣でもない限りあの速さであの軽さのビスケットがまっすぐに飛ぶわけがない)

「食べなさーい」って言ったり、

 

夫のブレスがのびるのもこの目でみたし、

何もないところから指輪やピアスを物質化してくれたのもみた。

 

でもババは楽しそうにしていて、どんな質問も「きなさい、きなさい」「全く問題ない」「祝福しまーす」などと言って、何か説教をしたり、叱ったりということはなかった。

同性愛のカップルも祝福してもらっていたし、わたしのような問題の多い人間も咎めることはなかった。

「あなたの家族を祝福します、心配ない」と言ってくれた。

 

昔は注意することもあったのだが、しなくなったのだと、聞いた。

 

バーラサイババは、男性の姿をしていたが、ブラフマー、ビシュヌ、シヴァの神の3神を生み出したバーラ・トリプラスンダリという、最古の女神の化身と言っていた。

サティアサイババがお父さんなら、バーラサイババはお母さんみたいな人で、本当に「おばさん」みたいな人であった。

わたしはそれなりの年齢になるまで、祖父に育てられて母の愛というものはよく知らなかったが、お菓子をくれ、プレゼントをくれ、いいよいいよ、とニコニコして許してくれ、お母さんみたいな人であった。

 

 

 

 

 

 

バーラサイババは、アーユルベーダ医の父の元に生まれたが、アーユルヴェーダは古いといい、ホメオパシーを推奨していた。

最初の訪問のときは、熱がでて、頭痛がしてインフルエンザかと思ったら、ババがホメオパシーをくれた。
そういえば、インドはホメオパシーが盛んであった。
 
 

わたしはクラシカルホメオパシーをずっと昔習ったことがあり、そのときに一番印象深かった先生が獣医師でもある森井啓二先生(ひかたま(光の魂たち) http://shindenforest.blog.jp/)である。


 

 

初回は熱がでたが、その後は特に聖地あたりもなく、いつも穏やかな時間を過ごした。

家でもほとんどの時間なにもしないで静かにしているが、アシュラムでもたいくつすることはなかった。

わたしたちふたりとも、暇さえあれば眠るという怠け者だったからである。

 

 

 
太ってたなー。このころ。
名誉のため、になるのかどうかわからないが、今はこのときから3サイズぐらいはダウンした。
みな、夫に先立たれた心労だと誤解されて、賞賛してもらえないのだが、わたしは夫が亡くなる3ヶ月くらい前から夫に「自立してほしい」と無理やり促されていた社会復帰のために「痩せる筋トレ」に通い、食事制限もして努力の甲斐あって痩せたのである。
 
3度目にして初めて日本人と遭遇。
そしてその人はサイババの本の著者でもある青山さん。彼の誕生日はイスラエルで、そして夫の誕生日はインドで祝いあうという偶然。
これもバーラサイババの不思議なはからいだったんだろうな。
 
音楽会で、青山さんは「千の風になって」を歌った。英語の解説つきで。
 
♬わたしの お墓の前で 泣かないでください そこに わたしは いません 眠ってなんていません
千の風になって 千の風になって この 大きな空を 吹き渡っています♬
 
夫は、青山さんの歌うそれをいたずらで録音していた。
音源の最後には、ババが、「ブラボー!」といって口笛を吹いているのが入っていた。
 
そして、ババがなくなったというニュースを聞いたときに、
「これって青山さん知ってたのかな」
「できすぎだよね」
って話した。
 
そして、それから数ヶ月。
夫が亡くなるほんの何日か前に、その音源をわたしにくれたのであった。
 
こう書いていると、夫は余命宣告を受けて闘病中だったと思われるかもしれないが、そうではない。
当日の朝、夫は自分が死ぬとは思っていなかったと思うし、わたしも思っていなかった。
それくらい、夫の死は突然すぎた。
 
 
 
 
3回目にいったときに、はじめてダルシャンがあって、写真撮影できたババの姿。
自分の姿をビデオに撮るようにって、指示してたりとかして、そういえばいつもと違った。
 
そして帰り際も、いつもは必ずいう
 
Come back soon!!
 
もいわなかった。
 
だから、夫は、「歓迎されないならもういかなくていいや」っていってたくらいだ。
きっと、川の向こうで待っていてくれる人たちの中に、ババはいたんだろうな。
 
 
 
 
アシュラムから帰るとき、呼んでもらったタクシーのナンバーが7777で、
7は聖なる数字でババの数字なんですよ!って言われたんだった。
ババのところにいくと、いつもたくさんの祝福をもらった。
 
もうバーラサイババは、肉体を離れてしまったから、姿で会えることはない。
でも、こうしてすごいタイミングでまた出会う。
 
でもわたしにとっての理想の神様って、バーラサイババなんだろうな。
 
ババの教えはたったひとつ
 
 Be Happy!!
 
だった。
 
それも、ハイデラバードの空港で不思議なことがあって、
帰りに彼が持っていた東霧島神社のお守りが凶器と間違えられて、時間が押してるのに検査官にいじられた。
 
それで、あれこれ質問されて、「どこに行ってたの」といわれて、「バーラサイババのところ」と答えたら、
 
「ババはなんと言っていたか」って聞かれて、
 
「Be Happy!!」
 
って答えたら、にっこり笑って通してもらえて、
 
それでわたしたちは、ババの教えはBe Happyってしっかり覚えたのだった。
 
 
わたしが神様って思っているのは、御創造主ひとりなんだけど、夢で叫んだときみたのが、バーラサイババだったから、
きっとわたしの神様は、あのババなんだろうな。
だってわたしもババのようにありたいと思うから。