恋愛小説のバイブル 源氏物語
千年紀は、昨年で過ぎてしまったようだけど、今更ながら、『源氏物語』が気になる。
古典だから、当然、そのまま読めるはずもなく、現代語訳で読まなければならないのだけれど、誰の訳で読めばいいのか。
源氏物語は、ダイジェスト版で読んだような記憶があるのだが、長大な作品の全篇をを読んだことはない。
ふと、気になって、読んでみようと思った。
口コミで評判になって、自費出版されたものが、商業出版化されたものがある。
普通の暮らしをしていた主婦の上野榮子さんが母親の介護のかたわら、18年かけて現代語訳にした。
八十歳になったのをきっかけにして、自費出版したということです。
研究者でもない、普通の主婦が母親の介護をしながら現代語訳にしたというところに心を打たれる。
八巻セットで28,000円というこで、価格的には少し高価になるのだが、この現代訳にかけた時間と情熱に想いをはせる時、その価格は高くはないと思う。
とはいっても、高価であることは間違いない。
個人的には、大塚ひかりさんの現代語訳で読んでみようと思う。
文庫本で、全六巻の予定で、現在は、第五巻まで発売されている。
文庫本でも、一冊の価格はけっこう高い。
日本の文学史上に燦然と輝く、恋愛小説のバイブルのような、『源氏物語』を読まずして、恋愛小説など書けるはずがないと、自分に言い聞かせてみる。
名前は重要
外国の作品の場合は、登場人物の名前は、ファーストネームとファミリーネーム、あるいは、フルネームで書かれる場合がある。会話文は、ファーストネームの場合が多くなり、時には、ニックネームで書かれる場合がある。
そういう名前の書き方に慣れていないだけなのかも知れないが、できることなら、登場人物の名前の書き方は統一してもらえると、読み手としてはありがたい。
ファミリーネーム、もしくは、フルネームで統一すると分かりやすい。ファーストネームだけの人物が登場すると、新しい別の人物なのだろうかと思ってしまう。
日本語で書かれた小説の場合は、姓名の、『名』だけで書かれることはあまりない。会話文の中で、『名』だけで書かれることもあるが、それは話し手にとってよほど親しい関係とか、配偶者とか、身内の場合に限られる。
名前と言えば、女性なのに、明らかにペンネームを男の名前にしている作家がいる。作家の場合は、何かの狙いがあって、別の性の名前にしているのだろうが、読者は混乱してしまう。
名前は、人物のイメージを作ってしまうし、簡単には変えられないから、とても重要だと思う。
明治時代以前には、幼少のころと成人とでは名前が違うということは珍しくはなかったし、成人してからも名前を変えるということは、しばしばあった。
現在もそのようにして名前を何度か変えることができたら、人格までも変わったような気分になれるかも知れない。
芥川賞とはこんなものなのか

第135回芥川賞受賞作の、『八月の路上に捨てる』(伊藤たかみ著)を読んでみた。
芥川賞というのは、国内の純文学の最高峰の賞だから、さぞかし、深遠な、あるいは高邁な思想とか、暗喩に彩られたものだろうと期待していました。
ところが、?。これがほんとに芥川賞なのだろうかと、首を何度もひねるような小説でした。純文学というよりは、大衆小説に近いような感じを受けました。
日本語の文章としては、文法的にはおかしな表現はないので、文章としては何も問題はないと思います。難しい漢字とか、語句とか、四文字熟語とか、文学的な表現もあまりなくて、読者はすらすらと読めます。
ストレスなく読めるというところは評価できるのですが、芥川賞がこれでいいものかという疑問符は、小説の最後の一文を読み終えるまで払拭されることはありませんでした。
社会的な問題提起とか、普遍的な宇宙の真理とか、独自の文学的センスに裏打ちされた表現などを求めてこの小説を読むとがっかりするだけです。
前評判のいいレストランで食事をしたのに、どうも、自宅でサンドイッチを食べたような程度の満足感しかないような感じです。
半分も食べないうちに、食べるのをやめて、他のレストランに行くことを考えてしまいます。あるいは、高いお金を出して外で食事するよりも家でたべたほうがよっぽとおいしいと思うはずです。
日本語で書かれた小説よりも、外国語で書かれた小説の翻訳のほうが歯ごたえがあって美味しいと感じてしまいます。
チャンドラーにしても、サリンジャーにしても、シェイスクピアにしても、歯ごたえがあって、何度食べても美味しいのです。
日本語で書かれた美味しい小説は、古典の中にあるのでしょうか。
読者にやさしい漢字
漢字が読めない場合もあるのですが、それ以前に、なぜ登場人物の名前を変な名前にしているのだろうと、思ってしまう。
たとえば、今、途中まで読んでいる、『夏の夜会』(西澤保彦著)の中の登場人物の名前が普通には読めない名前が多い。
北朴木鞠江、包市明生、指弘要、佐向紘子という名前人物が登場する。はたして、なんと読めばいいのか。
左から順に、『きたほうきまりえ』、『かねつつみあきお』、『いいずかなめ』、『そむきひろこ』と、読む。
現実に、こういう名前の人がいるかどうかは分からないけれど、こういう読み方の人物を登場させるのは、作家に何かの意図があるのではないかと思われる。
もっと、ふつうに、読める名前にしてほしいものだ。
読めない漢字があると、その場面で、意識を止めて、読めない漢字を思い出そうとして、本読みのリズムが狂ってしまう。
できるだけやさしい漢字で書いてほしいし、読めそうにない漢字には、必ずふりがながをつけてほしい。
ただ、自分が、漢字が読めないだけのことだけど、作家は読者にやさしい漢字を使ってほしい。
分かってしまう
誰でもそうだろうが、彼女は病院に行くのは好きではなかった。
病院特有の薬品の匂いも嫌だった。
待合室の不機嫌な、生気のない人々の顔を見るのも嫌だった。
そればかりではなかった。
彼女には、分かってしまうことがあった。
身体の異変に気づいたのは、二週間ほど前だった。
彼女は、自分ではまっすぐに歩いているつもりだったが、どうも、身体はまっすぐには進んでいなかった。まっすぐ歩いているはずなのに、右方向に歩いて行ってしまったり、あるいは、左方向に歩いて行ってしまうのだった。
体調がよくないとか、そういうことではなかった。頭痛もしていない、膝が痛いとかいうこともなかった。
ただ、まっすぐに歩くことができなかったのだ。原因はなんとなく彼女には分かっていた。彼女は、音に対してとても敏感だった。他の人が聞き取ることのできない小さな音も聞き取ることができた。社会に出て、仕事を持ってからよりいっそうその傾向は強くなっていた。
人の話し声が響く場所で長時間いると気分が悪くなることがあった。彼女は、まっすぐ歩けない原因が耳にあるのではないかと判断して、耳鼻咽喉科に行った。
その病院の待合室で、彼女は意外な人物に会った。それは、仕事の取引先の商店のご主人だった。彼は彼女の姿を見つけると、話しかけてきた。彼女が聞くまでもなく、彼は喉に痛みがあると話した。
病院に来るくらいだから、元気がないように見えるのは仕方ないのだが、彼女には、分かってしまった。彼の病気がどういうものであるのか。
知りたくもないのに、彼女は時々、分かってしまうことがある。これはある種の能力なのだろうか。いつもそうではないのだがある時に分かってしまうことがある。死期が近付いていることが。
その取引先の個人商店のご主人は、半年後に死亡した。
分からなくてもいいのにと、彼女はいつも思う。でも、分かってしまうのだ。