陰間親方とは?
レイモンドチャンドラーの、『大いなる眠り』を半分くらいまで読んでいるのですが、どうも、いつものチャンドラーの作品とは雰囲気が違う。
チャンドラーのデビュー作品で1939年の作品だから、今から70年前に書かれた作品ということになる。
確かに、古いのだが、古いと言っても、昭和10年代に書かれたものだから、もちろん、夏目漱石よりも、古くはない。それにもかかわらず、双葉十三郎氏の訳は古臭い。
言葉の意味の分からないものがあったり、言葉の使い方の意味が分からないものがある。
清水俊二氏訳の作品はあまり古さを感じないのだが、翻訳者によってこれほどてまでに作品の雰囲気と、言葉遣いまで変わってしまうものなのだろうか。
私の知識不足と言ってしまえばそれまでなのだが、『陰間親方』という言葉の意味が分からなかった。
もともとは、江戸時代の歌舞伎の世界で使われていた言葉らしい。
陰間とは、色を売る少年のことを言うらしい。親方は蔭間のお抱え主ということらしい。
陰間(かげま)がなまって、『おかま』という言葉になったという説もある。
そんなことも知らなかったのかと言われるとそれまでだが、言葉遣いがどうも古臭い。それに、この訳者のマーロウは元気がよすぎて、会話もハードボイルド風な仕立てになっている。どうもしっくりこない。
村上春樹氏が言うように、やはり、翻訳には賞味期限があるのだろう。
村上春樹氏訳の、『大いなる眠り』は全く違った雰囲気のものになるだろう。
読むスピード
年内に読んでおこうと思った、小説を読めそうにない。
時間が足りないということだけど。
それに、読書のスピードの問題もある。
読書のスピードが遅いのである。
一つの本だけを読むのではなくて。複数の本を同時に読もうとしてしまう。
その結果、一冊の本を読み終えるのに時間がかかってしまう。
今年中に、どうしても読んでおこうと思った本は、トーマス・ハーディの、『ダーバヴィル家のテス』です。
この作品は映画化もされていたのですが、翻訳本は現在では、集英社ギャラリー世界の文学 3 イギリスⅡしかないと思う。
この本の中には『嵐が丘』、『ハーナビー・ラッジ』も収められている。
どれもこれも名作だから、読んでみる予定です。
とりあえず、今年中に、『ダーバヴィル家のテテス』を読むことにする。
実は、たしか、角川文庫で読んだはずだけど、すっかり内容は忘れている。
アラバマ物語
映画、『カポーティ』の中で、『アラバマ物語』という作品が登場していたので、気になっていました。
映画の、『アラバマ物語』がDVDになっていたので、借りてきました。
ストーリーをほとんど理解していないままに見始めました。
この映画の制作年代も知らず、モノクロの映画だということも知りませんでした。
1930年代のアメリカのアラバマ州の片田舎での物語です。
物語の中心は、子供二人(兄妹)の男親だけの弁護士一家(フィンチ家)の日常です。
一家の隣には、謎の人物が住んでいます。この人物は、物語の終盤に登場します。
とても静かなトーンで物語は進んでいきます。物語の前半は、フィンチ家の子供たちを中心にした日常の物語です。現代のアメリカ映画に慣れている者からすれば、いささか、退屈です。
物語の後半から物語が動き始めます。
弁護士の父親が、強姦罪(おそらく冤罪)で起訴された黒人の弁護を引き受けます。
子供の女の子は学校で、親が黒人の弁護をしているということで、いじめにあいます。
父親は、強姦された女の子の父親たちに、脅迫めいたものを受けます。
南部のアメリカでは、人種差別は色濃く残っていて、法廷では、強姦されたとされている黒人はまったく無実であるという証拠が明らかにされるのですが、黒人は有罪になります。
少女に暴力を加えたのは、実は、父親であったということは、正義感あふれる弁護士のフィンチ氏が法廷で明らかにしていきます。
それでも、人種差別の社会では黒人は有罪となります。
物語は終盤になると、ミステリーのような展開になります。
強姦の被告人であった黒人は護送中に逃走したということで、射殺されます。しかし、ほんとに、逃走したのかどうかは分かりません。逃走するように仕向けられたのかもしれません。
いよいよ、物語のクライマックスです。
フィンチ家の子供二人が何者かに襲われます。襲ったのは、黒人に強姦されたとされる少女の父親でした。二人の子どものうち、兄は、腕の骨を折られて、気絶します。
妹も襲われるのですが、仮装のかぶりものを着ていたために怪我はなかったのですが、意外な人物が二人を助けます。
それは、フィンチ家の隣人の謎の人物です。彼は、二人の子供を襲った人物を刺したのです。そして、二人の子供の命を救ったのだと思います。
しかし、事件は、二人の子供を襲った人物が倒れた時に、自分の持っていたナイフで自分の腹を刺したということで片づけられます。
ある意味、アメリカ的展開というか、悪人は自らの手で自らを葬ったということになったのです。
現代のアメリカ映画に慣れている者には少し物足りないかもしれないのですが、身に沁み入る物語でした。
主演のグレゴリーぺっクのひたむきな、粛々とした演技が光りました。
グレゴリーぺっクといえば、やはり、『ローマの休日』でしょう。
青い手紙 2
オフィスを出ると、私は駐車場に向かった。私の車は、没個性的な1500CCのスーパーに買い物に行くにはうってつけのシルバーのフォードアだった。これなら、近距離でも、遠距離の移動にも、運転のうまくない私でも、さほど不快感を覚えることなくハンドルを握ることができる。
依頼者の住所は、私のオフィスからは、車で一時間程度だろうと思われた。
市街地の、のろのろ運転にはいつもいらいらしてしまう。
四十分ほどで、交通量の多い市街地を抜けた。そこからは、山手の方向に向かう。
私が書きとめた住所に間違いがなければ、そして、私の運転技術が未熟でなければ、あと、五分もすれば、依頼者の住所に着くはずだった。
このあたりには、比較的、敷地面積の広い家が軒を連ねていた。
駐車場らしきものはどこにも見当たらなかった。私は目についたコンビ二の前に車を止めた。
コンビニで、とくに買う必要もなかったのだが、小さなペットボトル入りのお茶と、サンドイッチを買った。
レジには、アルバイトらしい女性が二人いた。私は二人のうちの、年齢的に上だろうと思われる女性に、依頼者の住所がどのあたりにあるのか訊いた。彼女は少し困ったような表情したのだが、コンビニから少し西の方向だと教えてくれた。西の方向がどちらなのか分からないと私が言うと、彼女は西の方向を指差して教えてくれた。
私は、車はコンビニの駐車場に止めたまま、西の方向に歩いた。
フィリップマーロウは歳を取らないのか
小説の中の主人公は年を取らないのだろうか。
今、レイモンド・チャンドラーの長編の第一作目の、『大いなる眠り』を読んでいます。
この作品でフィリップ・マーロウが登場します。この作品ではマーロウは32歳という設定になっています。
チャンドラーがこの作品を書いたのが1939年で、最後の長編作品の、『プレイバック』を書いたのが、1958年です。ということは、マーロウは、1958年には、51歳になっているはずです。
チャンドラーは1888年生まれですから、1939年には、51歳になっています。マーロウの年齢を実際の自分よりは20歳程度若い年齢に設定しています。
最後の作品を書いた時は、チャンドラーは70歳です。
おそらく、作家が年齢を重ねるに従って、主人公のマーロウも歳を取ったように読者には感じられるのではないだろうかと思う。
最後の作品の『プレイバック』はまだ読んでいないけれど、村上春樹氏訳の『長いお別れ』を読んだ感じでは、マーロウはすでに、30代ではないような気がする。
マーロウの年齢は、翻訳者の言葉の選択によっても違ってくるだろうけど、マーロウも、チャンドラーが歳を重ねるに従って、少しずつ歳を取っているように思える。