古典は、何年前から
古典とは、現代から何年ほど前のものを言うのでしょう。
平安時代に書かれたものは間違いなく古典です。
江戸時代のものも古典でしょう。
明治時代のものは古典なのでしょうか。
二十世紀以前のものが古典という考え方もあると思います。
つまり、百年以上前に書かれたものは古典ということです。
十年一昔ともいいます。
三十年で一世代ともいいます。
ということは、三十年以上前に書かれたものは古典と言っていいのでしょうか。
いえ、そうではないと思います。
日本人の平均余命を考えると、80年以上は生きるわけですから、少なくとも、その人が生きてい間に書かれたものは古典とはなりえないはずです。
したがって、古典の目安は、現在から百年以上前に書かれたものとすればいいのではないかと、個人的に納得しておきます。
百年以上前のものを一つの古典の目安とすれば、夏目漱石は古典と言っていいと思うのだが、近頃、夏目漱石が気になっている。
青い手紙 1
朝から、全く一本の電話もなかったし、訪問者もいなかった。
いつものことだった。
私は、オフィスのソファに座って、天井をながめていた。
今日も一日、何の依頼もないだろうと思っていた。
一日中、ソファに座っているのは身体によくない。少し散歩でもしようと思って、ソファから立ち上がって、ドアまで歩きかけた時、小さなデスクの上の電話が鳴った。
やれやれと、思いながら、私は受話器を取った。
「はい、神上調査事務所です」と、私は営業用のトーンで言った。
受話器の向こうでは全く何も音が聞こえなかった。間違い電話か、いたずら電話だろうと思って、私は受話器を置こうとした、その時、「手紙を・・・」というほとんど聴き取れない、かすれた、生気のない声が聞こえた。
「手紙ですか?」私は、何か間違ったことを聴いてしまったのではないかと思って、そう聞き返した。
「そうです。手紙を届けてほしいのです」声はどこかの外国からいくつもの中継地を経由して聴こえてくるように弱々しく、そして、少し震えていた。
間違い電話なのだろうかとも思ったが、手紙を届けるという依頼は、私の仕事としては間違ってはいない。買い物の代行も、車の運転の代行も私の仕事の一つだ。手紙を届けることだって、仕事の一つになる。
「あなたから、手紙を受取って、それを誰かに届ければいいということですね」
「そういうことです」
「では、今から伺います」
私は、依頼主の住所をメモに用紙に書いた。
『高い窓』 チャンドラー
今年は、チャンドラー没後50年ということで、チャンドラーを読んでいます。
チャンドラーは長編を7作品書いているのですが、7冊とも所有しています。
『長いお別れ』、『さらば愛しき女よ』は、村上春樹の新訳で読んでいて、『かわいい女』もすでに読んだので、これで、長編は4冊目ということになります。あと3冊も読んでみたいと思います。
短編集も4冊、本棚の中にあるので、それらも、読むのだと宣言しておきます。
チャンドラーの作品は、個人的には、一度読んだけでは、話のからくりを、すきっと理解することが少々、困難なのですが、『高い窓』は比較的、話のからくりは理解できたように思います。
チャンドラーのストーリーの展開の仕方に少し慣れたので、いささかなりとも、理解しやすかったのかも知れないのですが、とにかく、チャンドラーの作品は、一筋縄ではいかないということでしよう。
いつものように、情景描写と、人物の描写は細かい。
何かの写真でも見て描写しているようです。
アパート、あるいは、部屋から出て、まだ戻るというパターンが何度かある。これが、一つの、チャンドラーの小説作法なのだろうか。
1枚の希少価値のある金貨が盗まれて、売りに出されているので、それを取り戻してほしいという富豪の未亡人の依頼から物語は展開していき、マーロウの行くところには死体が転がる。
物語の中の対話は、意味が分からないものがあったり、人物、情景描写は細かすぎるし、もう少し、そういうものを省けば、物語はすっきりするようにも思えます。
マーロウは、ただのタフガイではなく、情に厚く、真実を知りながら、警察には報告をしない。
その結果、殺人が自殺になり、他殺が事故死になる。
高い窓から、男を落としたのは、意外な人物であり、その動機も、意外なものだった。フィリップ・マーロウだけが真実を知り、警察は、少しおかしなこともあると思いつつつも、常識的に妥当なとろに、事件を落ち着かせる。
情に厚いマーロウによって、ある種の勧善懲悪的ハッピーエンドを迎える。
情に厚く、皮肉屋で、哀愁ただよう、タフガイのフィリップ・マーロウに読者は魅せられていく。
冷血の事件から50年
今からちょうど50年前の、1959年11月15日にアメリカのカンザス州の片田舎で、一家惨殺の事件が起きた。その事件を6年年間、徹底的に取材して書かれたのが、ノンフィクション・ノーベルの、『冷血』です。
著者は、『ティファニーで朝食を』で時代の寵児となった、トルーマン・カポーティです。
実は、『冷血』は本棚の中に眠ったまま、まだ読んではいません。読む前に、カポーティがどういう経緯でこの作品を書くに至ったのかを知っておこうと思って、『カポーティ』のDVDを借りてきました。
カポーティがどういう人物なのかはほとんど知識を持っていないままにこのDVDを見てしまうと、ほんとに、この人がカポーティなのかと、首をひねってしまう。
カポーティは、天才的才能を持っていたのだということは分かっていたのですが、『カポーティ』の中では、しゃべり方がどうもふつうでなく、饒舌で、それに、同性愛的なのがなんともしっくりこなかったのですが、これは実際のカポーティの人格なのだと理解していいのだろうか。
カポーティの人格を全く知らなかった自分としては、少々衝撃的でした。
一度読んだもの、聞いたことの94%は覚えていると、『カポーティ
』の中の主人公のカポーティが何度か言っているのですが、そういう記憶力がカポーティの天才的なところなのでしょう。
犯人に取材していくうちに、カポーティと犯人の間に友情のようなものかが芽生えてくるのですが、カポーティ自身は、作品を完成させるためには、裁判が結審して、早く、事件が終わること、つまり、犯人の死刑が執行されることを望んでもいるようですし、犯人を救いたいという気持ちもある。二つの矛盾する感情のカポーティは逡巡する。
カポーティが作品を完成させるためには、事件の現場で実際にどういうことが起こったのか知る必要があったのだが、犯人はなかなかそのことを話さない。
そして、ついに、犯人が、事件の現場で起こったことを話した時、カポーティの犯人に対する友情は瓦解したようにも思える。
『カポーティ』の中では大きなアクションもなれれば、大きな事件のようなものも起こらず、淡々と物語は進んでいく。
『カポーティ』は、主演男優のフリップ・シーモア・ホフマンの演技によって、じわっと、身にしみてくる映画になっている。
個人的には、ふつうに、男らしいカポーティのほうがいいのだが、実際のカポーティはどういう人格だったのだろ。
エドガー・アラン・ポー生誕200年
今年は、エドガー・アラン・ポーの生誕200年です。
ポーといえば、文学史上初の推理小説を書き、そして、文学史上初の名探偵、オーギュスト・デュパンを登場させるわけです。
ポー以降の推理小説は、彼の影響を強く受けています。
何気なく、書店に行くと、ポーの生誕200年ということで、新訳のポーの短編集の文庫本を見つけてしまったので、ついつい買ってしまいました。
ポーの作品は、文庫本の全集という形で、4巻そろって所有しています。
文学史上初の推理小説と言われる、『モルグ街の殺人』も読んでいるはずなのですが、すっかり記憶が消えています。というわけで、もう一度読むべきだろうと思って、新訳の文庫本を買ってしまったのです。
ページをぱらぱらとめくってみます。
なかなか、こってりとした歯ごたえのある文体です。
とても、おいしそうな文体です
私の脳が喜んでいるのが分かります。
文学作品はこうあるべきだろうと思います。
野菜サラダのような文体では、脳は喜びません。
手間暇かけて、食材から最高のものを選んで腕のある料理人が作った料理はおいしいものです。
活字は、脳が食べる料理。
私の脳が、ポーの文体を早く食べたいと騒いでいます。
のちほど、じっくりと、食べさせたいと思います。
今は、チャンドラーの、『高い窓』を食べている途中です。
