創作ラボ2 -713ページ目

能動的な行為

一週間に一冊は読もうと予定していたのですが、どうも、そのペースは大きく崩れています。



読書のために使う時間は、一日、一時間程度です。


もっと読書のための時間を作るべきなのなですが、睡眠時間を削るのは身体によくないので、午前一時までには、寝るように心がけています。




家に帰ると、なんとなく、テレビの前に座って、ぼんやりテレビを見ます。


そして、同時に、文のページを開きます。


テレビの音量は、聞こえるが聞こえない程度にします。


これだと、どんな内容の番組なのかは、あまりよくは分からないのですが、目の端のほうで、画面をちらちらと見ながら、活字を追います。


これでは、テレビを見ているとは言えないと思うし、読書をしているとも言えないように思います。


なんとなく、とりあえずはテレビは見ていて、とりあえず、読書はしているような状態ですが、このとき、脳はどんなふうに働いているのか気になります。


こんな状態での読書が一時間程度で終わって、あとは、パソコンの前に座って、あちらこちらのサイトを見て、自分が管理しているブログの更新をします。


できるだけ、このブログは昼間に更新するようにして、他のブログは夜に更新します。


更新といっても、毎日、書くことがあるわけでもなく、ほんとに、頭の中の脳のどこかの部分にはかなりの負荷をかけながら言葉と文章を、脳のどこかの部分からほじくり出します。


なかなか言葉が頭からはじき出ないので、再び、読むともなく、本のページを開きます。


それでも、うまく言葉が形にならない場合は、家の中を歩き回ります。


そんなことをしながら、午前0時が近づき、風呂場へと向かうことになるわけです。


水に濡れても読める本があれば、風呂場でのんびりと本を読めるわけですが、防水加工した本というのは見たこともないし、たとえ、あったとしても、高価なものになりそうで、そこまでして読書をする必要もないと思います。


通勤通学の電車とか、バスの中で読書をする人がいるのですが、そうでもしないと、なかなか読書のための時間を作ることはできないのかも知れません。


パソコンも持ってなくて、インターネットなどしないというのであれば、パソコンの前に座る時間を、読書に充てればいいわけです。


でも、パソコンのない暮らしは今では考えられないし、そういう環境の中では、読書は受動的なものではなくて、かなり、能動的な行為だということです。

海辺の町のバベルの塔

本棚の中には、何冊か、ノストラダムスの大予言関連の本があります。


1999年の7 の月の話は別にして、今も気になっていることがあります。


ノストラダムスだから、2001年、9月11日の同時多発テロついての予言があってもいいと思うのです。


確か、それに関するような予言があったのように記憶しているのですが、どうも、うまく思い出すことができません。



『海辺の町のバベルの塔が倒壊する』といったような内容の詩です。


そんな詩を読んだ気がするのですが、どの書籍に書いてあったのかは、現在のところ不明です。


あの二機の飛行機が、『恐怖の大王』だったとしたら、『アンゴルモアの大王』は、中国で、確かに、今や、飛ぶ鳥を落とす勢いの中国だから、中国は蘇っている。


『その前後マルスが幸福の名の下に支配するだろう』というのは、9.11のあとのアメリカ主体のイラク戦争のことだろう。イラクが大量破壊兵器を持っているとの口実で始まった戦争は、イラク国民に自由を与え、世界の他の国は、核を使ったテロを防ぐという、(幸福)を与えたわけです。


1999年を2001年に置き換えれば、ノストラダムスの大予言は、外れてはいなかったということになります。


解釈の仕方はいろいろあると思うのですが、1999年ではなかったので、ノストラダムスの大予言など、ただのマヤカシだと思ってもいいのでしょうか。


以前もブログには書いたのですが、予言をすると、未来が変わってしまうのかも知れません。


大きくは、変わらないけど、部分的に、変わってしまう。


1999年が、2001年になったり。


ジョン・タイターの言うように、この世界は、ビッグ・バン以降、無数の世界線が生まれたとするならば、1999年に、恐怖の大王が空から降りてきて、人類が滅亡する世界線(パラレルワールド)もあったのかも知れません。


ノストラダムスの大予言が世に出てブームを巻き起こしたがために、我々の住んでいる世界線では、予言が部分的に終わってしまって、我々人類は生き延びているのかも知れません。


ただ、気なる、『海辺の町のバベルの塔が倒壊する』詩を探してみたいと思います。




フィリップ・マーロウは、『私』であるべき

日本語の一人称は、『私』、『わたくし』、『俺』、『わし』、『僕』、『自分』、『おいら』、『わて』、『おら』など、方言を含めてしまうと、いくつもある。


ところが、英語の場合は、標準英語では、“I”のみ。翻訳で、英語の一人称をどのように訳すかによって、一人称を使っている人物の社会的地位とか、教養とか、心のありようとか、外見まで違ったものに見えてくる。


翻訳の場合、一人称を使う人物が、大人である場合は、男でも女でも、『私』という一人称を使っておけば、読者にはある特定のイメージを与えることはなく、読者それぞれの人物像を描くことができる。


『私』に対して、『僕』という言葉はさらに便利で、未成年にも、成人にも使える。


『俺』という一人称は、読者には、品格のある人物だという印象は与えない。たとえば、探偵小説の主人公が、タフなイメージを読者に与えるために、『俺』という一人称を使うのは、適しているのだが、私は、『私』という一人称を好む。


ここに、レイモンド・チャンドラーの、『高い窓』の二つの翻訳本がある。一つは、田中小実昌氏訳で、主人公のフィリップ・マーロウの一人称は、『俺』を使っている。もう一つは、清水俊二氏訳で、一人称は、『私』を使っている。


清水俊二氏の訳に慣れているせいかも知れないが、私の中では、フィリップ・マーロウは、『私』なのである。


田中小実昌氏の訳は、一人称のせいばかりではないが、どうもしっくりこない。


フィリップ・マーロウは、『私』であるべきなのだ。

15秒遅れ

約束の時間まで、あと25分だった。


改札を抜けながら、彼は、腕時計の時刻を確かめた。


彼の時計が正しい時刻を示しているのなら、あと、23秒後に電車は発車するはずだ。この電車を逃してしまうと、約束の時間には間に合わない。


彼は、地下鉄の階段を、ほとんど飛ぶように降りた。


電車はまだフラットホームに止まっていた。


彼はドアが閉まることを予測しながら、やや身体を斜めに傾けて電車の中に入った。


うまくいった。


彼は、空いているスペースに腰を下ろした。


ほっとして、彼は腕時計を見た。


電車の発車時刻は過ぎていたが、電車はまだ発車していなかった。彼は、腕時計が進んでいるだけだと思った。


まもなく、電車は発車した。


何かの勘違いだろうかと、彼は思った。


駅名が書かれた表示板が逆方向に流れて行ったように思った。


それは、勘違いではなかった。


電車が次の駅に止まった時、彼は完全に理解した。


彼は、逆方向に進む電車に乗っていたのだ。


彼の時計は、進んではいなかった。15秒遅れていたのだ。


彼がプラットホームに降りた時には、すでに彼が乗るべき電車は発車していた。


彼の時計が遅れていなかったら、プラットホームにはそれぞれ違う方向に進む電車が止まっていたはずだ。そして、彼は、自分の乗るべき電車に間違わずに乗ったはずだ。


彼は、時間ばかり気にして、電車の進む方向を確認もしていなかた。プラットホームに止まっている電車は自分が乗るべき電車だと信じて疑わなかった。


15秒遅れた腕時計によって、こんなことになってしまったのだ。







観られる幸運

初めて、ミュージカルというものを観た。


初めてということは、比較する対象がないということだから、何がどうだとか、批評めいたことはできない。


批評とまではいかなくても、単純に感想はどうなのかと、訊かれても、実際のところは何と答えていいのか分からない。


他のミュージカルをいくつも観て、他のものと比べてどうだということが言えるようになるのだと思う。


ひとつのものだけしか知らないと、こういうものだと思い込んでしまう。それは危険なことだから、たたった一つのものを観て判断はできない。


とりあえず、ミュージカルというのは、こういうものか、ということは理解できた。


まだまだ、観たいものは、ある。


たとえば、歌舞伎とか。


でも、それを観る機会はおそらく、永遠にこないだろうと思う。


そういうものを観られ環境にある方は、観ておくべきだろうと思う。


そいうものを観たくても観られない大勢の人々のためにも、観られる幸運を噛みしめながら観てほしいものだ。