フィリップ・マーロウは、『私』であるべき | 創作ラボ2

フィリップ・マーロウは、『私』であるべき

日本語の一人称は、『私』、『わたくし』、『俺』、『わし』、『僕』、『自分』、『おいら』、『わて』、『おら』など、方言を含めてしまうと、いくつもある。


ところが、英語の場合は、標準英語では、“I”のみ。翻訳で、英語の一人称をどのように訳すかによって、一人称を使っている人物の社会的地位とか、教養とか、心のありようとか、外見まで違ったものに見えてくる。


翻訳の場合、一人称を使う人物が、大人である場合は、男でも女でも、『私』という一人称を使っておけば、読者にはある特定のイメージを与えることはなく、読者それぞれの人物像を描くことができる。


『私』に対して、『僕』という言葉はさらに便利で、未成年にも、成人にも使える。


『俺』という一人称は、読者には、品格のある人物だという印象は与えない。たとえば、探偵小説の主人公が、タフなイメージを読者に与えるために、『俺』という一人称を使うのは、適しているのだが、私は、『私』という一人称を好む。


ここに、レイモンド・チャンドラーの、『高い窓』の二つの翻訳本がある。一つは、田中小実昌氏訳で、主人公のフィリップ・マーロウの一人称は、『俺』を使っている。もう一つは、清水俊二氏訳で、一人称は、『私』を使っている。


清水俊二氏の訳に慣れているせいかも知れないが、私の中では、フィリップ・マーロウは、『私』なのである。


田中小実昌氏の訳は、一人称のせいばかりではないが、どうもしっくりこない。


フィリップ・マーロウは、『私』であるべきなのだ。